経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

石破茂氏の重大発言を反駁する(再度掲載)

2020-09-03 15:38:21 | Weblog
石破茂氏の重大発言にを反駁する(再度掲載)

 昨日の産経記事(ネットニュ-ス)によれば石破茂氏は、現在の日韓関係の悪化は政府が侵略戦争を反省していないからだ、と言った。重大で極めて危険な発言である。
 まず事実誤認がある。日本の朝鮮半島確保は、当時のロシア帝国、清帝国そして日本の勢力角逐の結果、日本が領有させられたのである。極東のコックピット(諸勢力争いの場)である朝鮮半島は自力で存立できないから、どこかの国が領有せざるを得なかったのである。特にロシアの南下は日本にとって脅威であった。だから日本は最初李氏朝鮮に独立を求めた。そうしてできたのが大韓帝国である。李氏朝鮮がしっかりしておれば日本は半島を領有する必要はなかった。しかし民度は低く、階級格差が著しく(当時朝鮮にはれっきとした奴隷階級があった)、内紛は絶えず(新羅以来この半島は常に大陸の帝国の属国であった、つまり1000年いや1500年間属国であった)、独立した経験のない朝鮮半島は不安定でどこかの領土にならざるを得なかった。この状況は現在でも続いている。どこかの保護下に入らなければならなかったのだ。英仏独覧さらにロシアやスウェ-デンの勢力に囲まれたデンマ-クが独立を維持しえているのとは大違いだ。結局日本が取った。高い買物だった。朝鮮半島支配の40年間半島の経営は常に赤字で予算の15-20%日本からの持ち出しだった。
 石破氏の発言の矛盾の第二は、韓国と日本の間には50数年前条約が結ばれていることである。これで過去のいきさつはすべてオジャン、と言うのが条約締結の意義である。条約の内容にはここでは触れない。もしこの原則が覆されると、あらゆる国家での条約は結びえない。過去が何であれ条約の内容は護る、それが外交の原則である。韓国の態度はこの原則を無視している。石破氏はここのところを全く無視している。
 加えて石破氏は、慰安婦強制連行の嘘、徴用工問題の虚偽、レ-ダ-放射事件、韓国が一切話し合いに応じない事などをどう理解しているのか。耳を疑う。
 加えて時期が時期だ。日韓関係最悪の時にあらゆる事情を無視して、ありもしない半島侵略を云々する。これでは石破氏は立民党や共産党と同じ発想だ。彼らでさえ現在は黙視している。
 石破氏は共産党や立民党にも劣る発想だ。このような人物が仮に政権を取ると日本はどうなるのか。8年前の民主党政権の悪夢の再来だ。私は石破氏に反省を求めない。自民党から出て行って欲しい。
今回の日韓摩擦は、日本にとっては戦後初の自力外交展開の機会を与えてくれた。日本の国は日本自身護ろう。
(付)伊藤博文は朝鮮併合には反対だった。理由の第一は保有しても全く益がない、経営には不断に金が要る、ということだった。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社発刊
 序文曰く「日本は侵略戦争はしていない」

経済人列伝 竹鶴政孝(好評版)

2020-09-02 16:35:49 | Weblog
経済人列伝  竹鶴政孝(好評版)

 竹鶴政孝は1894年(明治27年)、広島県竹原市に生まれています。家は代々の造り酒屋でした。兄弟は多く、四男六女、政孝は三男でした。子供の頃は非常に腕白で、二度大怪我をしています。二階から階段を転げ落ちて、意識不明になり奇跡的に助かった、と本人は言っています。お蔭で鼻のところに七針も縫う傷跡を残しました。母親は、無事育つかと心配でした。向こう意気が強く、独立自存の気風でした。頑固ともいえましょう。彼の生涯を概観しますと、やりたい事をやる、という傾向を強く感じさせられます。忠海中学に進みます。後輩に後に首相になった池田隼人がいます。池田は往時を振り返って、柔道の強い寮長の竹鶴さんが竹刀をもって回ってくると怖かった、と述懐しています。
 大阪工業高等学校(現大阪大学)の醸造学科に進学します。日本中で醸造学科があるのはこの学校だけでした。ここで日本酒より洋酒に興味を持ちます。結果として家業を継がないのですから、父母ともめました。結構親不孝をしています。1916年(大正5年)卒業して、摂津酒造に入ります。この会社はみりんや合成酒以外に、ウィスキ-、ぶどう酒、リキュ-ルなども製造し、当時洋酒メ-カ-として有名でした。摂津酒造は昭和39年に宝焼酎に合併されています。社長は阿部喜兵衛、事務5-6人、工場30人前後の規模でした。
当時のウィスキ-について若干の説明をします。政孝はそれをイミテ-ションウィスキ-と言います。原酒(モルト)をイギリスから輸入し、それにアルコ-ルを適宜混ぜて少し味付けして、売り出します。原酒の割合は1%くらいでした。原酒が0-10%のウィスキ-を三級ウィスキ-と言います。政孝の終生の願望は、こういう三級品ではなく、本物のスコッチを日本で造ることでした。当時スコッチはスコットランド以外ではできないとされていました。
入社後2年社長から、スコットランドに留学して、本格的にスコッチの製造法を学んでこないか、と言われます。政孝が見込まれたのでしょうが、望外の幸運です。そして当時は第一次大戦の真最中、日本は戦争景気にわいていました。どこの企業でも使うに困るほどのお金を持っていました。ウィスキ-造り一筋にかける政孝には三人の恩人がいます。摂津酒造の阿部喜兵衛、壽屋(サントリ-)の鳥井信治郎そしてアサヒビ-ルの山本為三郎です。このうちの誰一人欠けても政孝の生涯はなかったものと思われます。彼の人柄もあるのでしょうが幸運な人生といえましょう。
 スコットランドに行きます。大正7年から10年までの3年間在英し勉強します。太平洋を渡ってアメリカに行き、そこでカリフォルニアワインの工場を見学します。大西洋を船で渡らなければなりませんが、ドイツの潜水艦が怖くて、なかなか船がでません。ウィルソン大統領に電報をうって、理解を求め船出します。途中僚船が沈没するという惨事に出会います。ベルギ-皇太子の発案で犠牲者への義援金を政孝が集めることになります。彼が乗船者中一番若かったからです。
 グラスゴ-大学で聴講します。講義自体はありふれていて、知ったことばかりで、おもしろくなく、図書館でウィスキ-関係の本ばかり読んでいました。肝心な勉強はウィスキ-を造っている工場の見学と実習です。ここでウィスキ-、もちろん本格的なスコッチですが、その造り方を説明します。まずモルトウィスキ-を造らねばなりません。大麦を発芽させ、それを草炭(ビ-ト)で乾燥させます。これに酵母を加えて発酵させます。こうしてできたものをポットスティルで蒸留します。何回も何回も蒸留をくりかえして、アルコ-ル濃度を70%にします。これを樫などの硬い材質の樽に入れて、5-10年寝か(貯蔵)します。樽の中の酒は、木材を通してゆっくりと酸化されます。同時に酒は少しづつ外に蒸発します。10年寝かせると、量は半分になります。こうして原酒ができます。原酒自体はおいしいものではないそうです。
 原酒はアルコ-ルを加えられて味のいいものになります。このアルコ-ルの作り方により味が違ってきます。スコットランドではこのアルコ-ルをグレ-ンウィスキ-と言っていました。大麦、小麦、カラス麦、コ-ンなどを発酵させて、連続蒸留装置で蒸留してこのグレ-ンウィスキ-ができます。グレ-ンウィスキ-を混ぜることにより風味がでます。ウィスキ-造りには、もう一つの難関があります。原酒のブレンド(混合)です。いろいろな原酒をブレンドして、それにグレ-ンウィスキ-を混ぜて、本物のスコッチができます。厳密に言えば本物のスコッチは30%以上の原酒を必要とします。ブレンド如何によりそれぞれのウィスキ-の味と特徴が決まります。ブレンドの能力は経験とそしてなにより才能、嗅覚の才能によります。
 政孝は工場見学と実習を重ねてゆきます。原酒の工場は小規模なので、気安く見学させてくれますが、グレ-ンウィスキ-の方は大工場になり、秘密厳守で実習はなかなかできません。ある工場の老蒸留主任が、政孝のひたむきな態度に感じ入り、蒸留の機微を仔細に教えてくれます。アルコ-ル濃度が何%というのなら機械的に蒸留すればいいのでしょうが、蒸留する温度や速度も風味に関係してくるようです。またある工場では、日本酒の麹(こうじ)に興味を持つ技術者に麹を日本から取り寄せて渡し、交換にウィスキ-製造法を教えてもらいます。こういう縁はすべてグラスゴ-大学のウィリアム教授の紹介によるものです。イギリス人は赤の他人には冷淡で心を開きません。しかし一度紹介されたり昵懇になると非常に親切にしてくれると言われています
 在英中政孝はホ-ムシックにかかります。こういう中招待された医師の家でのパ-ティで、そこの娘ゼシ-・リタを知ります。政孝は積極的にプロポ-ズします。一目ぼれです。結婚しリタを日本に連れて帰ることになりますが、それを知った父母は大騒ぎそして大反対です。阿部社長が渡英し、リタを見て、両親に結婚を許可してもらいます。日本への帰路はハネム-ンになりました。
 さて日本に帰ります。戦争は終わって潜水艦の心配はありませんが、戦後不況です。ウィスキ-生産の計画は役員会の反対で立ち消えになります。ウィスキ-は製造を開始して少なくとも5年は発売できません。ある程度の品質を保とうとすればです。膨大な資金を寝かせることになります。不況時、そんな冒険はできない、というのが多数の意見でした。そういうことでしょう。政孝はあっさり辞職します。しばらく帝塚山学院で、化学をおしえます。妻のリタは同院で英語を教えます。
 1923年(大正12年)壽屋(サントリ-)の鳥井信次治郎からウィスキ-製造主任として招かれます。鳥井は始めイギリスからム-アを招聘して、ウィスキ-製造を一任するつもりでした。ム-アの来日が不可能になり、白羽の矢が政孝にたったわけです。年俸はム-アと同じ4000円です。当時の首相の年俸が3000円でした。鳥井は赤ダマポ-トワインで稼いだ金をウィスキ-造りに投入しました。政孝の在任期間は10年と契約されます。工場設置の場所として政孝は北海道を望みましたが、鳥井は流通の便宜上近畿圏内を望みます。こうして天王山の山崎が選定されました。この事以外の案件はすべて政孝に一任されます。途中で蒸留に際しての、かまどと火の距離が解らず、再度スコットランドに渡ります。1929年(昭和4年)白札サントリ-ウィスキ-が発売されます。当時としては一番本格的なウィスキ-でした。一本3円50銭、輸入品のスコッチが5-6円でした。以後も普及品を発売しますが、売れ行きは芳しくありません。壽屋の中で、ウィスキ-部門は金を食うだけの極道者だと、白眼視されます。この間税金問題で税務庁の星野直樹とやりあいます。酒は製造して在庫にしておくとすぐ課税されます。ウィスキ-にこれを適用されると、寝かせる期間が長いので、利益なきまま税金を払わねばなりません。結局庫出税にしてもらい難を免れます。鳥井がウィスキ-製造にかけた資金は250万円でした。鳥井がいなければ政孝はウィスキ-造りの経験を得られなかったことになり、以後の彼の生涯はなかったでしょう。壽屋には2年延長して12年在社しました。
 1934年(昭和9年)政孝は独立し、加賀正太郎と芝川又四郎の後援で、大日本果汁株式会社を立ち上げます。資本金は政孝が2万円、加賀と芝川二人で7万円、柳沢伯爵が1万円、の総計10万円です。本社は東京ですが、工場は政孝の念願どおり北海道の余市に建設しました。北海道には草炭(ビ-ト)があります。石造りの工場を建て、すべてスコットランド方式にします。本格的なウィスキ-は最低5年間寝かせて熟成させなければなりません。資金がいります。経営は苦労の連続でした。昭和15年始めてニッカウィスキ-を発売します。極力原酒の割合を多くします。あくまでスコッチに近づく努力をします。
 戦後は苦難の時代を迎えます。サントリ-は本格的なウィスキ-を金持の占有物と批判して、昭和21年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。トリスウィスキ-です。サントリ-はお得意の宣伝で、販売を促進します。政孝はあくまでスコッチに近い本格派のウィスキ-造りにこだわります。ニッカの経営は悪化します。政孝は節をまげずがんばりますが、税金が滞納されるようになります。国税庁の説得に負けて、昭和25年三級ウィスキ-の発売に踏み切ります。昭和27年社名をニッカウィスキ-とします。「大日本果汁」から「日果」を取りそれをカタカナにしました。
 1953年(昭和28年)大株主である加賀正太郎の死に際し、加賀は自己所有の株式を山本為三郎のアサヒビ-ルに渡します。山本は政孝の経営に理解を示してくれました。政孝の判断で経営をすることを容認する一方、政孝があまりにも技術一辺倒であることを心配して、販売部門の担当に弥谷醇平を専務として送り込みます。弥谷は販売網の整備と価格切り下げ、そして宣伝に活躍します。それまでの政孝のやり方は、宣伝嫌い、品質第一、だから高くてもいい、でした。以後ニッカの販売額は増加の一途をたどります。昭和31年ブラックニッカ発売、これは好評でした。
 山本は政孝に、カフェ式グレ-ンスピリッツの設置を提案します。そのために朝日酒造という新会社を造り、西宮の工場に、このグレ-ンウィスキ-製造装置を購入し設置します。こうして1966年(昭和41年)日本で始めての日本産スコッチ、つまりもっとも本格的なウィスキ-が出て、新ブラックニッカとして発売されます。政孝がスコットランドに留学し帰朝して46年後に、始めて彼の意図した製品が世に出たことになります。この間昭和37年彼の最愛の妻、リタは他界しています。1979年(昭和54年)死去、85歳。現在ニッカウィスキ-は非上場になっており、100%アサヒビ-ルが株式を所有しています。

  参考文献  ヒゲと勲章  ダイヤモンド社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


「君民令和、美しい国日本の歴史」 目次

2020-09-02 16:35:49 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」 目次

1 聖徳太子
2 大仏開眼
3 記紀神話
4 万葉集
5 神仏習合
6 摂関政治
7 勅撰和歌集
8 源氏物語
9 愚管抄
10 御恩と奉公
11 評定衆と貞永式目
12 座、一揆、悪党
13 連歌と茶道
14 親鸞と日蓮
15 徳川幕藩体制
16 武士道、男道
17 元禄時代
18 大岡忠相と田沼意次
19 細川重賢と上杉鷹山
20 調所広郷と村田清風
21 江戸時代の経済思想
22 荻生徂徠
23 本居宣長
24 文化としての天皇
25 歌舞伎と浮世絵
26 村方騒動
27 処士横議
28 明治維新
29 西郷隆盛
30 福沢諭吉と渋沢栄一

関東大震災における朝鮮人殺害事件の誇大な取り上げを危惧する

2020-09-02 13:54:41 | Weblog
関東大震災における朝鮮人殺害事件の誇大な取り上げを危惧する

1925年(?)だったか関東で大震災が起こった。20万人以上の死者が出た。その時朝鮮人が、パニックに襲われた日本人に依り殺害された。現在までの記録では50人内外と聴いている(状況が状況なのではっきりしたことは解らない)。最近在日朝鮮人がこの殺害された同民族を悼む儀式(仏式によれば供養)を行っている。行い始めた。小池知事は困ったいるようだが例に依り朝日はこの運動(?)を支援している。それは勝手だが彼らの言い分では被殺害者は数千人に昇ると言う。またここでも誇大な宣伝が行われている。慰安婦、徴用工についでまたこれか。うんざりする。目下日韓関係は悪化している(別に改善する必要はない)。そういう時に100年前の些細な事件を取り上げるか。なるほどなあと思う。タイムリ-だ。当時朝鮮人差別があった事は事実である。現在でもある。異国・異文化間には時々ある事件だ。当時属領朝鮮半島でコミンテルンの影響で反日運動が起こっていた。日本人も敏感になっていたのだろう。
 100年前の事を云々するのなら700年前のモンゴル来襲はどうなるのだ。実際戦闘に従事したのは高麗(当時の朝鮮の王朝)兵だった。侵略以外の何物でもない行為だ。高麗の王子がモンゴルの皇帝に日本侵攻を勧めたという話もある。
 人種差別に依る摩擦はどこの国にもある。現在アメリカで黒白問題が再燃している。ユダヤ人はドイツ人により大量に殺されたが、イスラエル人がドイツで犠牲者を供養したという話は聞かない。英仏やロシアでも同様の事が行われたがイスラエルはその問題を蒸し返しはしてはいない。日本が米軍に占領されていたとき当時の韓国大統領李承晩が勝手に李承晩ラインを引き、それを超えて創業した日本漁船をすべて拿捕し韓国に連行収容した。日本に主権がなかったので放置する頼他はなかった。この過程で多くの死者が出ている。竹島占拠はその副産物だ。李承晩は極めて人気が悪くやがて失脚し亡命している。国が違えば摩擦は当然ある。以上の諸事実を韓国はどう思うのだ。
 やがて被殺害者数が天文学的に膨れ上がりまた賠償云々になりはしないかと危惧する。日本は慰安婦問題と南京事件問題で懲りているからな。
 (付)昭和23年に韓国済州島で朝鮮人の殺害事件が起こった。殺害された人間の総数は数千名を超える。多くの韓国人はこの殺害が日本軍に依り行われたと信じているらしい。日本は昭和20年に米国に降伏し日本軍は武装解除されている。済州島事件は北朝鮮による浸透に李承晩が反撃して起こったいうのが真相だ。朝鮮戦争では戦死者数はともかく民間人の死者は50万人を超えると言う。真相は不明だ。                      
                                2020-9-2

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(22)荻生徂徠

2020-09-02 12:46:56 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(22)荻生徂徠
                           
1 徳川家康は堅実な人、学者の意見を聴き、政治の参考にした。藤原セイカの意見に従い林羅山を採用、林家の家学朱子学は幕府正統の学問に。綱吉は林信篤に束髪を許す、儒者を正統な武家として認知。
 漢字仏教律令制とともに日本に招来された儒学が一般でも学習されるのは江戸時代から。日本で儒学が学ばれだすと変化は速く、速度は本家の中国の比ではない。山崎闇斎は儒学を神道と習合、中江藤樹熊沢蕃山は陽明学を日本化、新井白石は実証的な歴史を著述、伊藤仁斎は儒書の歴史的考察を試みた。儒学の多伎な進化の結節点に荻生徂徠は位置する。
2 徂徠は館林綱吉の侍医の子として1666年に生まれる。林家に入門、朱子学の観念性に飽き足らず、彼自身の学風を育て独自の学問を樹立。柳沢吉保に仕え、後浪人し民間の学者として活動。彼の学問は実証方法から形而上学哲学そして実学たる政治経済学に及び、規模は雄大。学風に応じ徂徠は陽気で寛容な人柄。
3 徂徠が成人した元禄時代、農民町人台頭と裏腹に幕藩財政は行き詰まる。幕藩体制の改革に理論的根拠を与えたのが荻生徂徠。徂徠は儒学を抜本的に勉強、中国語を中国語として習う。四書五経が書かれた頃の中国語と徂徠が生きた時代の中国語は異なるはずと見て、古代中国語を研究。これが彼の学問、古文辞学の出発点。徂徠は与えられた倫理や論理には満足しない、遡及し原点に帰る。四書五経を研究、儒学の要点は制度の叙述にあると悟る。礼は物なり、衆議の包塞するところなり。制度なら作られたはず、政治行為の原点は制度を作り定める事にある、作られた制度なら、作り変えうるはず、と彼は考える。
4 政治経済は自然に循環すると認識されていた。徂徠は循環に起動者を設定。設定の根拠が「利」の肯定。儒学では仁義が重視される。仁は人と人の間を繋げる概念、義は人と人の間の差異対立を強調。対立とは利害の対立、義は利。利害の対立を克服調整する装置が政治経済制度。利を持ち込むことにより徂徠は、政治も経済も利の過程に関与し起動させる事で成り立つ、政治経済は人間が積極的に作ってゆくものと説く。政治経済が操作すべき機構として設定される。利害の調整が商議、商議は衆議の前提。徂徠は、政治制度は皆で衆議して作り上げるものと明言、民主主義。これが徂徠学の根幹。
5 政治経済に対し積極的具体的な提言。農村居住の武士が都市に住む。武士の都市居住を旅する境地に喩える、旅は人が意図して行なう変化する人為。徂徠は都市生活更に政治経済一般を人為的で作られたもの、変更可能、政策的に介入可能なものとみなす。都市生活、貨幣経済、資本主義を展望し容認。
6 身分制を否定。高位の者は苦労を知らず馬鹿が多い、下位の者の方が有能だ、下級武士を登用、農民町人も能力次第で登用せよ、人は使わなければ能力が解らない、適材適所で使って専門家を養えと徂徠は言い切る。八代吉宗は老中に江戸市中の米価を尋ねた。満足に答えた者は誰もいない。徂徠の政治論「政談」は吉宗の要請で書かれた。
7 金銭関係の騒動は多発、貨幣経済が盛んになれば当然の事。幕府は当事者同志の内談を勧める、裁くための法律がない。幕初の慣例、10両盗めば首が飛ぶ、では経済行為など怖くてできない。徂徠は民事法作成を提唱。彼の死後1742年吉宗在任中「お定め書き百か条」ができる。吉宗政権が、経済政策の基本は通貨の統制にある、貨幣の量は経済政策の要だと気づいたのもこの頃。民事法制定を説く徂徠は寛刑を主張。公共の秩序を重視し訴人を推奨し私闘を非難、吉良邸に討ち入った赤穂浪士には死刑を主張。
 裁判の記録がない。慣習と記憶による政治。徂徠は行政の文書化を説く。文書を書く者を書役留役調役といい官庁の係長クラスの役職。書役の設置は幕藩官僚の育成、下級武士の台頭を促す。幕末、川路聖アキラは勘定奉行所留役から昇進し外国奉行となり日露通商条約締結で活躍、西郷隆盛は群奉行調役から彼の政治生活を始める。
8 徂徠は農地の自由売買を主張。当時農地は原則として売買禁止。農民の耕作権の保証、年貢徴取と扶持給付が封建制度の根幹。生産力が一定程度に保たれ安定していることが前提。農地の自由売買はこの前提を取り払う。自由売買土地集積地主出現と武士の存在は矛盾。農地の自由売買は上杉鷹山や田沼意次の政治にも散見される。徂徠の発想は近代的資本主義的、武家政治の否定。
9 徂徠は貨幣流通量に着目、その増大を推奨。貨幣が経済に対し持つ意義については綱吉政権、吉宗政権が苦闘しつつ探求。金銀貨の金銀含有量を減らし金銀の量に応じて新旧の貨幣を交換。貨幣は単なる交換の媒体ではなく、常に増大させねばならない、人間の欲望が増大する限りは増大させねばならない、ということが解り始める。徂徠は武家政治の意義と危機を見抜き、同時に民主主義と資本主義の機構を鋭く把握。
11 徂徠の思想を西欧のそれと比較。作為としての政治、制度は約束で作られるという考えは17世紀末ホッブスにより始めて主張された。社会契約説。徂徠は衆議による政治を主張するのだから、彼は民主主義あるいは議会主義を説いたといえる。ロックもそう考えた。ロックの主著も17世紀末葉。政治から経済に視点を移したヒュ-ムの経済思想は18世紀中葉に著わされる。スミスが彼に続く。
12 徂徠以後経済学では彼の弟子太宰春台がいる。太宰が経済という用語を作る。他に一藩重商主義を説いた海保青陵、農本主義の安藤昌益、さらに本多利明や佐藤信淵。私は政治経済学への貢献という点では二人の庶民学者、石田梅岩と二宮尊徳を挙げる。梅岩は徂徠の説を進化させ社会契約説を論じる。倹約を義つまり利を積む事、約束により営利を営む事と解釈。倹約は一方で社会契約になり他方では流通過程になる。彼は、商人は利を積んで利を流通させ社会の必要を満たす行為者だから武士より貢献度が高いと言う。尊徳は、人間の欲望を肯定し、共感に基づく商議と契約を重視し、農業の資本主義化を容認し、有効需要の意義を発見。梅岩、尊徳ともに異色独創的な思想家、同時に民衆の教育者。
13 荻生徂徠は、制度は衆議により作られるとして、身分制武家政治を否定。利を肯定し利への関与が政治経済であるとし、政治行為における公権力の積極的な介入を提唱。都市経済を重視し、その人為性の中に資本主義の本質を見抜き、農地売買の自由、流通貨幣量の意義を説き、民事法作成、専門職養成、行政の文書化、寛刑を主張。石田梅岩の社会契約説は庶民の政治経済への主体性を唱導。二宮尊徳は資本主義的農業を認め有効需要の意義を発見。江戸時代、徳川合理主義、思想的にも実践的にも多産多彩な時代。

「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(21)江戸時代の経済政策

2020-09-01 15:46:54 | Weblog
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「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(21)江戸時代の経済政策

1 江戸時代の経済政策を総合的に考察する。共通する第一の特徴は農村手工業の振興、米作依存からの離脱。米作を尊重しつつ商品作物の栽培加工に財政再建の方途を探る。商業資本との提携は必須。提携方法は三つ。融資、商人からの借金。商人の事業請負、藩政への直接参加、商人が藩籍を得て武士になることも。三番目が流通税の徴収、有力商人に同業団体を作らせ間接税を上納。
藩が銀行の役割を。商人から金を借り農民に融通、民間の金融機構を藩直営にする。
2 農政改革。徴税の厳格化、中間搾取層の排除、村の相互扶助組織を育成、農事指導。農村手工業の振興と商人資本との提携、行政改革は必至。冗員を省き合理化、実務官僚育成、藩主に権力が集中する中央集権制を志向。情報公開を計り下級武士を登用。情報公開は庶民層にまで及ぶ。
 貿易の重視、藩間貿易。地の利を生かして薩摩は外国貿易、長州は中継貿易。各藩の経済思想は重商主義。藩内の産物を外に売って稼いだ金を貯める事が基本方針。
 重商主義の主導者は藩、だから藩専売制。改革で得られた利益を誰が取るかでもめ、よく一揆が起った。江戸時代後半の一揆は条件闘争、現在のストライキ。
3 貨幣流通量の増大。貨幣の量を増やさないと経済は萎縮。典型が幕府の貨幣改鋳。銀の定額化は貨幣改鋳の公然化、貨幣量の増大を意図。銀の従属貨幣化から金本位制を志向。幕府政治の中央集権化。各藩はなんらかの形で藩札を発行。薩摩藩の砂糖手形、熊本藩のはぜ札、上杉藩の米札などは藩札の特殊な形、手形の一種。藩札は17世紀中葉、幕府が開かれて50年後には出現。藩札の発行は財政の補完、同時に通貨量増大と経済拡大の効果。上杉藩などでは現在の買いオペもしていた。大阪の米市場では信用取引空売空買。江戸大阪間の金融決済のほとんどは信用手形、すぐ全国に広がる。これも通貨流通量の増大へ寄与。財政規模。享保の改革時18世紀前半の幕府の予算は年200万両余、100年後の文化文政年代には2000万両、10倍の増大。各藩も同様だろう。
4 開拓開墾は藩政改革の基礎的作業。増産計画。成功した代表は米沢藩の飯豊山のトンネル、失敗した例は印旛沼干拓。道路橋梁の保全改修、灌漑施設の整備は常識。公共事業、支払われる賃金は民間の需要を増大。有効需要創出政策を言い出したのは二宮尊徳だと思うが、藩政幕政の改革実施の中で有効需要は実際に作られてゆく。
 上杉藩では米の藩外移出を容認。米は重要産物、米の交易自由化を計らないと他の産物の動きも不活発。
5 福祉政策の端緒が出現。飢饉に備えて米穀を貯蔵。松平定信は江戸市民から基金をつのり幕府が追加出資して生活保護資金を作る。年金制度にもつながる。長州では貧しい武士の借金返済のために資金を貸与。綱吉の捨て子保護は福祉政策の始り。武士の救済のもう一つの方策が帰農。武士の故郷である農村に帰り生産人口に加わること。
 経済政策が進展すると経済事件が多発。民事法制定の動き。代表が「お定め書き百か条」。
6 幕府諸藩は経済改革と同時に教育を充実。藩校造設は18世紀後半、藩政改革と併行。幕府の湯島聖堂が先行。教育の充実、藩幕府は財政改革で士庶の区別が曖昧になるのを恐れる、武士の自覚強化が目的、武士道形成の要因の一つ、同時に官僚育成人材登用の手段。藩政改革は農民の同意を前提とし農民商人を巻き込む。藩政改革による商業流通の拡大に対処するためには一定の教養学問は必要。庶民の教育促進。全国に寺子屋が出現。教育の充実は生活程度を引き上げ、労働生産性向上、有効需要創出、中間階級育成に寄与。藩政改革の第一歩は倹約、倹約は貯蓄投資の源泉。
7 幕政藩政改革、現在の政府の政策のほとんどが出現。工業化、資本融資、間接税、交易自由化、貨幣流通量の増大、公共事業、有効需要喚起、信用取引、紙幣手形の使用、銀行機能、金本位制、買いオペなどの金融政策、貯蓄と投資、重商主義、行政改革、官僚養成、中央集権化、福祉政策、民事法制定、教育改革。江戸期の武家政治とはこういうもの、維新後の日本の発展の基盤を提供。ミニ国家藩の事跡を経験として維新政府は政治経済政策を展開。
8 困窮しても幕府も藩も武士を解雇しない。上杉毛利の両家は知行を大削減されたが、藩士をそのまま扶持。貧乏でも団結は崩さない。改革をしながら貧窮に耐え、同時に積極的に財政改革と経済成長に取り組む。団結し貧しさに耐えつつ教育を充実。武士である自覚を維持するためには教養は必要。幕藩官僚が育つ。
 藩政改革は下級武士の救済を中心に、まず弱者から。下級武士の台頭、藩官僚の成長、幕末維新の改革の準備が整う。
9 改革は士農工商提携で行なわれる。特に武士と農民は対立しつつも提携。農村手工業の成長を欠いては武士も農民も食えない。農民の理解と協力が必要。理解協力するために農民自身も教養をつける。士農の提携は武士のみならず農民の教育を促進。藩校の設立に併行して全国に寺子屋が激増。
10 改革は全国的規模。庄屋の藩への意見具申、農民の藩当局との団体交渉は全国的に多発。
11 江戸時代の藩政幕政改革で武士は解雇されない。窮乏化した農民も見捨てられない。農業の資本主義化と平行して農本主義も強調される。農民保護と武士の永久雇用は同根。武士は農村から出現、農村を理解できた。農村を見捨てず農本主義を維持する分、同根である武士自らの身内を解雇することもない。武士と農民は非常に密な関係に。士農提携が日本の社会、日本型資本主義の原型。武士と農民が近い関係にある故に、比較的平等でぶ厚い中産階級が形成され、社会の集団帰属性は強くなる。武士の職能意識は庶民に及ぶ、勤勉、技術尊重。技術立国日本の原点。素敵な江戸時代。
12 繰り返す。産業革命に離陸するための経済政策は江戸時代にほぼ出そろっていた。あえて言えば無かったのは蒸気機関だけか。維新は間近い。
経済学へ一言。経済政策に寄与する学説は三つしかない。需給均衡、有効需要、流通貨幣量あえて付け加えればイノヴェ-ション。学者名で言えばリカ-ド、ケインズ、シュンペ-タ-。そんなところ、西欧の経済学への過信は禁物。
 なぜ幕政藩政改革は可能だったのか。宗教秩序と婚姻秩序が整っていたからだ。民衆仏教の興隆、単系核家族の成立。民衆間の交流意思疎通は容易に、彼らの社会への帰属性は高まる。だから経済改革は可能になった。