経済(学)あれこれ

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経済人列伝 木川田一隆(好評版)

2020-09-11 17:08:39 | Weblog
経済人列伝 木川田一隆(好評版)

 木川田一隆の日本経済への貢献は、現在の九電力体制の確立にあります。この事については既に松永安左衛門の項で少し解説しました。一隆は松永を助け、松永の秘書役のような形で九電力体制確立につくしました。そう言ってしまえばそれまでですが、一隆の努力にはそれなりの背景があります。なお彼は松永とアヴェックを組んだのですが、松永と一隆では、その生い立ちも性格も恐ろしく異なります。
 一隆は1899年(明治34年)に福島県伊達郡山舟入村(現福島県伊達市)に医師木川田一治の三男として生まれました。父一治は仙台藩伊達家の家臣で、維新後東京に出て医学を学び、明治18年に草深い山舟入村にやってきて医療を行っています。一治の医師としての態度は、秋霜のごとく厳しく、病人が出れば自分の体が悪くとも、雪を掻き分けても往診するような気風でした。父親の、仕事へのこのような態度は、一隆の将来に大きな影響を与えます。山舟入は「やまふにゅう」と読みます。阿武隈川の流域にあって、そこから出る木材で舟が作られ、川に入るのでこの名がつけられた由です。
 一隆の小学校での評価は、性質温順、気象快活、言語明瞭、と書かれており、腕白坊主などからは程遠い、平均的定型の人柄でした。中学校に入学しますが、運動を好み、成績はまずまずというところ、それほど目立った秀才ではありません。中学を卒業して、二度陸軍士官学校を受けます。二度とも落第します。陸士を受けたのは、多分家の負担を軽減するためでしょう。父親は医師ですのでそこそこの収入はありましたが、兄二人を東北大医学部、東京商科大学(現一橋大学)に進学させ、教育費の負担は相当なものでした。山形高校を卒業して、東京帝国大学経済学部に入学します。 
東大入学の前後、河合栄二郎を知り、大きな影響を受けます。河合は理想主義的そしてやや急進的なリベラリストで、イギリス労働党のような漸進的社会改革を支持し、労働者の待遇改善をはじめとして、多くの社会問題に関心を持っていました。後に東大経済学部教授になり、その自由主義思想ゆえに講壇を追われます。河合は一方で国家専制を排し、同時にマルクス主義の非人格的な思想にも極めて批判的でした。彼は気骨の激しい人で、多くの弟子がいます。戦後活躍した代表的な人物としては、蠟山政道、猪木正道、土屋清関嘉彦、塩尻公明などが挙げられます。
 河合の影響で一隆は労働問題に関心を持ちます。当時最も過酷な労働を強いられていたのは、鉱山労働者でした。労働問題、つまり労働者の待遇改善を志して、三菱鉱業を受けます。試験委員と論争し落とされます。そこで東京電燈に就職します。1926年(大正15年)、一隆27歳の時のことです。東京電燈では調査、企画、秘書課など徹底して内部の職場を歩きます。こうして電力事業を客観的にまた計数的に把握する態度を身につけます。
 東京電燈は経営危機を迎えていました。当時すなはち昭和初年の電力業界はまさに戦国時代でした。全国に700以上の電力事業者が乱立し、資本の規模によりサ-ヴィス内容が異なります。うち、東京、東邦、大同、宇治川、日本の五代電力会社が有力で過当競争を繰り広げていました。過当競争、料金の不均衡、電力需給のアンバランス、地域間の設備格差などの問題を抱え、消費構造は変化(電燈を灯すのみではなく、産業のエネルギ-としての電力へ)しています。こういう状況の中で、東京電燈は若生ショウ八のワンマン経営がたたり、名古屋の福沢桃介や九州の松永安左衛門達に圧倒されていました。結局若尾社長は退陣し、郷誠之助や小林一三が介入して、経営はなんとか安定します。時は軍国時代に入りつつあり、電気事業も国家の統制に入ります。国家は電力業界の乱立に介入し、先に述べた五大会社を中心にして、国営の日本発送電株式会社を作ります。その下に九つの配電会社をつなぎます。すべて国営です。一隆は、電力業界の乱立・過当競争と国家統制そして発電と送電の分離の弊害を身にしみて体験します。
 昭和20年、1945年の終戦を一隆は東京電燈の秘書課長の地位で迎えます。役員の多くは公職追放のため、彼は1年後には常務取締役に就きます。川﨑造船の西山弥太郎、野村證券の奥村綱雄、あるいは日清紡績の桜田武、と同じコースです。常務になりますが、役員として大変な課題が待ち受けていました。労組との対決です。戦後マッカッサ-の後押しで、続々労組が結成されます。昭和22年には労組員の数は600万人を超えました。電力業界も例外ではなく、日本電気産業労働組合、通称、電産が結成されます。多くの組合には、戦後活動の場を与えられた共産党員がもぐりこんでいます。彼らは労働組合を、経済闘争の場としてではなく、もっぱら政治闘争の手段とみなしていました。つまり、労働者の待遇改善もさることながら、革命、その為には資本主義の牙城である企業の壊滅を計りました。一般の組合員は扇動され、企業の能力を超える要求を突きつけ、上司をつるし上げ、土下座させ、職場の秩序は失われます。
 一隆の立場は鮮明です。労組結成には賛同するが、政治闘争は容認できない、のが彼の基本的立場です。突き詰めて言えば、共産党が金科玉条とするマルクス主義の排撃です。この点では彼は徹底していました。河合栄二郎の薫陶があり、労働問題には積極的な関心があったからです。過激な思想に対決する時には、基礎的な知識と大幅な教養、そしてなによりもその問題に大きな関心を持ち、積極的に対処する態度が必要です。一隆は、河合の教えを介して、労組のあり方、社会主義の多様性、イギリス労働党内閣(マクドナルド)の苦心、マルクス主義の矛盾、などを知り尽くしていた、と言っていいでしょう。彼の行動は二面性を取ります。まず労組との根気のいい話し合いです。一方では過激派を一般労組員から切り離します。具体的にはより穏健な労組の結成です。こうして昭和24年に関東配電労働組合、という企業別組合が作られます。一隆の後輩である平岩外四は、一隆を評して、幅の広い理想主義者、coolな頭とwarmな心の持ち主、言っていますが、労働組合への対応も平岩の資料の中にはあったでしょう。会社を潰して君達はどうして食っていくのか、という、合理的判断の要求と一種の脅し、そして過激派の排除は、この時期荒れ狂った戦闘的労組との対決では、基本的な対応でした。革命ごっこの興奮が冷めれば、誰でも考えいたる道理です。
 もう一つの重大問題が、戦前に作られた国策会社である日本発送電KKをどうするかです。多くの試案があり紛議ありでもめにもめました。一隆は松永安左衛門の片腕、秘書役として活躍します。両者の基本的方針は、発電と送電の統一(同一の会社が発電と送電を扱う)と民営、そして地域独占です。戦前には発電を日本発電KKが国営として独占し、九つの配電会社に電気が送られていました。繰り返しますが紛議紛議でもめにもめました。松永はマッカサ-に直訴し談判し、直接交渉を繰り返します。そして昭和25年(1950年)、マッカッサ-の吉田首相への書簡、いわゆるポツダム政令で、九電力会社への再編成が決まりました。北海道電力、東北電力、東京電力、北陸電力、中部電力、関西電力、中国電力、四国電力、九州電力の九電力会社です。この体制では例えば関西電力は近畿地方の発電と送電を統一して行い、こと送電に関してはその地域の関西電力に任されます。東京電力も中部電力も同様です。関西電力が新たな電力を必要とすれば、北陸電力から買うか、自力でどこかに発電所を造ればいいことになります。始め松永は、東西の二電力会社に分割するつもりでした。九電力会社案を説いたのは一隆です。慎重で緻密な一隆と蛮勇を奮う松永のコンビの勝利です。電力再編成には労組問題も絡んでいます。日本電気産業労組はあくまで国営一社を主張しました。民営でかつ分割されると、労組の団結力がそがれ弱まると主張します。一隆はその辺の事を読みぬいており、あくまで九電力地域独占を主張しました。北海道と東京大阪では電力事情は全く異なります。地域のサ-ヴィスを重視すれば、一隆の案通りになります。もちろん九電力体制は労組の力を削ぐためでもあります。対照が国鉄で、国営一社になりました。強力な労組、生産性の低下、地域への配慮の薄さ、そして決定的な事は大赤字です。国鉄は1970年代に、民営化されやはり地域ごとに分割されました。
 昭和26年一隆は東京電力の取締役、27年常務になります。昭和36年(1961年)松永安左衛門の推しで東京電力社長に就任し、10年後の46年同会長になります。この間経済同友会幹事、更に代表幹事を務めています。一隆は幅の広いリベラリストとして、企業の社会的責任を強調しました。その点では彼には電力会社は向いていたと言えます。自動車産業や証券会社の場合、社会的責任といってもそれはかなりな程度形式的です。しかし電力事業になると社会的責任は実質性を帯びて来ます。電気は産業と市民生活に直結する基礎的エネルギ-です。石油やガスとは比べ物になりません。仮に停電が1日あるいは3日続いたとしましょう。病院の救急医療体制、通信報道機関、治安当局、消防、金融機関のオンラインシステムは大打撃を受け、社会は大混乱に陥ります。電気冷蔵庫の中の食料は1日で腐りますから、食糧不足も招来します。反対に市役所の業務が1日止まっても市民生活には大きな支障はきたしません。交通機関の24時間ストでも通勤者は苦痛ですが、なんとかしのげます。警察消防の機能停止が1日続くと大変は大変ですが、市民が心がけて1日くらいなら自衛手段を講じえます。電気が一日ストップするのと大違いです。民営、地域分割、そして一社独占はそのための方策でした。送配電を統一する方が、効率はよくなります。地域へのサ-ヴィス向上のためには、中央でも一元的統括は不適です。また一地域を一社に独占させて、小資本による劣化をサ-ヴィスを防ぎます。
 一隆は、電気料金は、電力会社と地域住民の利害の一致を基本とする、という考えの持ち主でした。昭和34年(1959年)に電気料金が改訂されます。経済成長に伴い、電力需要は急伸します。発電所を造らねばなりません。膨大な資本が必要です。そのための借金の利払いで電力会社の経営は悪化しました。この年電気料金が13・7%値上げされました。以後昭和49年の石油ショックまで、電力供給は4・5倍になっても、値上げはされていません。この間コ-ヒ-一杯の値段は7倍にはなっていたはずです。電力会社は電力供給を要求されると、配電する義務があります。目下品切れ、と言うわけにはゆきません。その代わり配電にかかる費用は受益者負担が原則です。こういう事情ですから電気料金の価格は供給者と需要者の協議が原則になります。
 一隆は火力発電所による公害にも深い関心を寄せています。東京湾に林立する火力発電所の燃料を、経営と言う立場から反対意見の多い中、あえて高価なLNG(液化天然ガス)に切り替えさせたのは彼でした。
 一隆は社員の研修と能力検定のシステム作りを推進し、専門職の輩出に意を注ぎました。東京学園という学校を作りました。彼は、彼の子供時代、彼よりも優秀な同級生が貧困のために、進学できなかった事をよく覚えていました。配下の社員で同様な体験の持ち主には、向上の機会を与えます。なお能力開発と専門職の育成は、単に一個人一企業の問題に留まりません。それは社会の生産性を促進し、また社会を安定させます。教育の向上はすなわち、中産階級の増加です。一隆がその最も良き例です。
 一隆は政治献金を廃止し(電力業界の)、官僚の天下りを拒否しました。勲章は辞退、アンチゴルフの釣り好きで、三木武夫を例外として、政治家との親密な関係は避けました。
 1977年(昭和52年)脊椎腫瘍のため死去、享年77歳でした。彼の生涯を見ますと、着実な進歩が伺えます。小中学生の頃は神童秀才には程遠く、どこにでもいる普通の生徒でした。陸士に二度落第し、山形高校へ。この頃から英才の芽が出てきます。東京帝大の経済学部へ進学します。生真面目に試験委員とディベイトして三菱鉱業に落ちます。だいたい労働問題に関心を寄せること自体が非秀才的行為です。東京電燈では内勤専門で、電力のことをこつこつ勉強します。内勤のみというのは、幹部候補生として将来を期待されたからなのでしょうか。そうとも取れますが、終戦時の肩書きは秘書課長でした。戦後の公職追放でできた間隙を埋める形ですぐ常務取締役になります。ここから一隆の活躍が始まります。民営と地域独占でもって、電力業界を再編成し、それを公共団体や国家に監視させます。これはある意味で、私と公の妥協でもあります。民営私有を強調しすぎることなく、公共の福祉を考慮して、企業に社会的責任を求めます。いかにも河合栄二郎の弟子らしい、対策です。木川田一隆を社会民主主義者とは呼べません。彼はあくまでリベラリストですが、そこにはいささかの社会民主主義への傾倒もあります。電力という公共性の高い業種は、彼に最も相応しい仕事であったかも知れません。そして彼は自分に与えられた地位と職務に沿う形で、自己の能力を発揮し、高め、成長してゆきました。まことに地位と能力が相応した人物です。

 参考文献  木川田一隆の魅力  同文館

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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