経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝 コマツと河合良成(好評版)

2020-09-12 18:56:32 | Weblog
経済人列伝  コマツと河合良成(一部付加)

産経新聞(4-18)の記事より
 コマツ、GPSで建機「無人化」-- 精度数十ミリ単位、中韓に対抗
(本文)衛星利用測位システム(GPS)やセンサ-を搭載し、数十ミリ単位の整地作業を自動でこなす建設機械の開発にコマツが成功した。この自動化ブルド-ザ-を6月に米国で投入するほか、今年度中に油圧ショベルを欧州発売し、日本でも自動化機器を売り出す。低価格を武器に世界市場で攻勢を強める中国韓国製などに対しコマツは「自動化」「無人化」をキ-ワ-ドに、最先端の技術力で挑む。
「通信ネットワ-クの発達はすべての産業をかえようとしている」。ドイツで開かれる建設機械の見本市で16日、コマツの大橋徹二は胸をはった。発表したのがGPSで建機の位置情報を把握し、ブレ-ドやア-ムを動かして自動で整地や掘削をする「ICTブルドーザ-、油圧ショベルだ」。(以下略)
 この記事を見てコマツの事実上の創立者河合良成の人生をもう一度見てみたく思いました。
河合良成は土木建設用機械の製造会社である小松製作所を一流会社に仕上げた人物です。自伝を読んだ限りでは、意志の強い、自己主張のはっきりした戦闘的な人柄を連想させます。良成は1886年(明治19年)に富山県砺波郡福光町(現砺波市))に生まれました。家は代々豪農でしたが、祖父の代に事業をやりすぎ、資産を減らします。父親は汽船運航の会社を経営していました。良成は母親を敬慕し尊敬しています。母親は教育には厳しい人でした。世に出よ、つまり出世しなさいと息子である良成に常に発破をかけます。豊臣秀吉や楠正行の事歴をくりかえし、聞かされたそうです。良成は幼少の頃は温順だったと言います。数学が好きで、将来は科学者になりたいと思っていました。金沢四高に入ります。ここで有名な哲学者西田幾多郎の影響を受けます。西田哲学に魅かれるとは、良成もかなり瞑想的雰囲気を持った人物だったのでしょう。意志の弱さは罪悪、という西田の格律が心に浸みこんだと述懐しています。当時の優等生の公式どおり、東京帝国大学法学部に入ります。途中2年くらい休学かなにかしたようです。本人の語るところでは、神経衰弱でよく追試験をうけたとか。もっとも卒業試験はトップでした。
 明治44年25歳時、東大を卒業し、農商務省に入ります。大正7年臨時外米監理部業務課長になり、米価統制の実務上の責任者になります。本人の口ぶりではかなりな辣腕を振るったようです。本来彼は商務畑でしたが、能力を買われて農務畑で腕をふるい、嫉妬されます。この仕事をしていて一番感じたことは、統制経済のむなしさでした。統制すればするほど物は隠れ、統制を解けば物はでてくる、ことを経験します。この事は彼の将来の経営姿勢に大きく影響したことでしょう。
 米価問題、特に米騒動で寺内内閣が倒れます。良成も農商務省を辞職します。東京証券取引所の理事長郷誠之助に請われ、東証の理事になります。郷が東証をやめると、良成もやめ、大正13年日華生命(第百生命)保険会社に請われて、常務として勤めます。この間に東大の経済学部や農学部で取引所論の講義を行います。昭和14年満州国嘱託、17年東京市助役になります。五島慶太が運輸大臣になると、依頼されて船舶局長になります。終戦、幣原内閣の農林大臣になった松村謙三(同郷の先輩)の懇請で農林次官を勤め、吉田内閣では厚生大臣になります。官僚としては課長、局長、次官、大臣とすべてのクラスを経験したわけです。それもすべて異なる分野で。という事はこの人物の才能の多彩さをしめしています。厚生大臣時代に公職を追放され、大臣を辞任します。
 この間昭和初年に帝人事件なるものにまきこまれます。台湾銀行が20万株の帝人株を生保団に売りました。増資そして株価が上昇します。台湾銀行は背任、生保団は背任協力ということで告発されます。3年に及ぶ裁判が開かれ、良成個人は200日あまり収監されます。留置所で日ごろ食べない麦飯を食わされ下痢して体重は減ります。麦飯だけではなくストレスも強烈だったはずです。監獄になれた犯罪常習者ならともかく、普通の市民生活をしている人がこの種の施設に入ればたいていショックを受けます。拘禁反応も出現します。判決は「証拠不十分ではない 犯罪自体が存在しない」でした。しかし世間の目は厳しく、関係者は冤罪に泣きます。良成は数百ペ-ジにのぼる弁明書を書いて上申します。番町会という会合がありました。財界世話人と言われた郷誠之助の屋敷(番町にあります)に良成や、正力松太郎、渋沢正雄、伊藤忠兵衛、永野護などが集まりいろいろ話しあっていました。この会が裏で動いたといわれました。武藤山治が時事新報に番町会の存在を報じ、帝人株の動きと関係があるような記事を書きます。世間は騒然とします。小林中や良成の伝記では、帝人事件は存在しないとされます。武藤の伝記では、あったと書かれています。武藤が暗殺され、事件を取調べた検事が自殺します。いずれにせよ後味の悪い事件でした。帝人事件なるもの、としか書けない出来事でした。
1947年(昭和22年)、良成は小松製作所の社長に就任するように、当時の社長から懇望されます。同社は資本金3000万円という小規模な地方企業(石川県)でした。大正10年の創立で、戦前はトラクタ-などを造っていました。トラクタ-製造はGHQのある少佐に禁止されます。日本にはトラクタ-が必要ないということでした。当時一少佐や一大佐が日本全体の運命を左右するほどの決定権を持っていました。そして小松製作所では他の会社と同様、ストライキに襲われていました。20年代のストは現在の争議と根本的に違います。当時のストライキは、企業を資本主義という悪の砦とみなし、それを壊滅させることが目的でした。会社は組合によって管理されます。上部団体から派遣されてきたオルグ(組織する者)は従業員である一般組合員を扇動し、洗脳し、会社と幹部への敵意を植えつけます。経営がまともになるためには、このストを解決しなければなりません。  
良成の自伝では3時間で解決したそうです。解決したのは事実ですが、3時間というのは眉唾ものです。しかし一般組合員の説得のやりかたは決まっています。闘争はしんどいだろう、ストして銀行から融資を拒否され給料ももらえないのが良いか、それとも働いて給料をもらう方がいいか、と選択を迫ることです。つまりオルグと一般組合員を分断します。それから経理を話の解る代表に明らかにして、再建の方法を説得することです。時によっては第二組合を作ります。いずれにせよ政治闘争から経済的合理性を踏まえた論争に切り替えさせることが肝要です。たいていの人間は政治闘争など好みません。しかし算盤勘定はわかります。この際重要なことは、決断と計算とそしてなによりも誠意です。ともかく良成の社長就任により争議は解決しました。長引くと数年にもなるようで、戦後最大最悪の争議は東宝のそれでした。再建には資金が要ります。金融機関に頼みにゆくと、人員整理を要求されます。400人自主退職、600人を解雇して3000人にまで人員を圧縮します。過激な連中はこの際すべて解雇しました。今ならこのような指名解雇はなかなかできません。しかし会社が倒産の危機に陥り、再建を目指すとき、解雇、減俸、株式切捨は必然です。これが経済法則の冷酷なところです。経済学を「陰鬱な科学」と言った人もいました。(カ-ライル)
 小松製作所再建の方向は何でゆくのか?良成はブルド-ザ-で行こうと決意します。小松のシェアは国内の60%でした。そして戦後復興は必ず建設ブ-ムを招来するとみます。いい調子で行っていたら昭和24年のドッジラインです。このお蔭で日本中の企業が青息吐息というより壊滅の危機に見舞われました。東北大地震の被害よりはるかに甚大でした。アメリカは自国でできない理想を占領中の日本で実験したきらいがあります。シャウプ税制や農地改革などです。良成はドッジラインを非難し、外車のダッジ(そういう名の車がありました)を見ても腹が立つと述懐しています。
朝鮮戦争が勃発し日本経済は息を吹き返します。小松は旧相模工廠で米軍車両の修理に従事します。あまり儲からないが、技術習得の便があり、また米国流のやり方に詳しくなったのは、将来役にたったとい言われています。米軍は小松に砲弾製造をも要請しました。大阪府の旧枚方工廠を国から払い下げてもらい、そこで砲弾を生産します。砲弾販売総額404億円の40%が小松の生産でした。戦争と言うものはいつまでもは続きません。戦争が終わったとたんに、即日注文はなくなります。戦争終結の潮時を良成は模索します。だいたい彼の推察どおりでした。
ブルド-ザ-のほかにダンプ、トラック、フォ-クリフトの生産も行います。1960年(昭和35年)に、アメリカのキャタピラ-社が三菱と手を組んで日本に合弁工場を作り日本でブルド-ザ-を生産して販売しようという計画が持ち上がります。当時キャタピラ社は世界のブルド-ザ-の50%を製造していました。製品が輸入されるだけなら、日本の低賃金で対抗できる、しかし直接投資でこられると、競争は極めて不利だ、と良成は考えます。販売、価格、生産能力の面では負けない自信はあるが、品質の面では劣る、と踏みます。政府は小松製作所一社を護ってはくれません。降伏か全面対決か?良成は後者を断固選びます。まず自由化反対を声高に叫びます。そのため他業種と連帯して騒ぎたてます。しかしこれは陽動作戦、時間稼ぎです。
品質向上のために、まずQC運動を徹底させます。Quality control(品質管理)です。職場の一作業員にいたるまで、作業、能率、休憩時間、在庫管理などすべての面に渡って、問題点を指摘させます。部品のすべてを点検し、不備なもの不具合なものは改良させます。市場調査も徹底します。販売店や建設会社に技術者を派遣して、不備や不満を積極的に聞きだし、また新しい提案を求めます。出来上がったブルド-ザ-の試験運転を建設会社に依頼します。もちろん小松でも実験は繰り返します。そのために実験部という新組織を作りました。実験の度に訂正を加えます。特に長期間使用に耐えられるか否かの実験は小松が担当します。すべての機種においてこの試験運転を行います。
良成はこの時、コスト無視、JIS否定の原則を徹底しました。コストより品質です。特に実験段階ではコストは高めにでます。将来コストを減らせると見込んで、コスト無視を徹底します。JIS規格はあくまで平均値です。部品はこの平均値を超えることを要請されるかも知れません。良成は最高のものを作ろうとしました。彼は一度戦うとなれば徹底します。そして極めて好戦的な性格です。キャタピラ社に対抗できるこの品質向上の対策を良成はマルA対策と名づけました。マルA対策は昭和36年6月に開始され、昭和37年12月に一応完了し、対策車が完成します。
この間良成はアメリカのカミンズ社と提携して、同社のエンジンの国内生産を始めています。このエンジンは高速も出します。そしてすべてのブルド-ザ-にこのエンジンの搭載を命じます。現場から指令に対して轟々たる反対がおきました。良成はこの時、指令を徹底させる一方、エンジニ-ア(技術者)というものの保守性を実感させられます。そして技術だけではいけない、技術に経営を加味しないと、技術自体が退化すると悟ります。技術プラス経営、これを技術常識と彼は言いました。言葉の選択がよくないようです。技術はそれだけを放置しておくと自然と現状維持に傾きます。そこには経営者の将来への方針、つまり向上と競争への目的意識が要ります。そうした時のみ技術は向上します。このことはマクロの視点においても妥当します。市場の消費性向が製造と技術を牽引します。良成の経営哲学は、リスクのない経営は衰退する、でした。小松製作所社長時代ソ連との貿易の重要性を説き、自ら団体を率いて訪ソし、時の首相フルシチョフと会っています。1964年(昭和39年)社長を辞任、後任は良成の長男良一です。1970年(昭和45年)死去、84歳。
小松製作所は現在でも建設機械の専門メ-カ-です。世界第2位で1位のキャタピラ社を猛追中です。日経新聞の有料ランキング調査では2006年、2007年、トヨタやキャノンを抜いて1位でした。資本金678億円、売上1兆4315億円、純資産8767億円、総資産1兆9590億円、従業員数38000人余(すべて連結)です。

参考文献 歴史を作る人々 河合良成

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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