経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝  藤原銀次郎(一部付加)

2020-03-05 15:38:33 | Weblog
経済人列伝 藤原銀次郎(一部付加)

 藤原銀次郎は1969年(明治2年)、長野県上水内村安茂里村に生れました。生家は村で一番の長者といわれていました。村の小学校を卒業して漢学塾に通います。地方の名望家の子弟がたどる典型的なコ-スです。父親は分家させて村の中で生活させてやろうと、思っていましたが、銀次郎は上京して更なる学問の研鑽を望みます。医者になるのなら、許すと父親に言われ、医者になるつもりで上京します。同郷の先輩鈴木梅四郎に相談したら、医者になんかなってどうする、と誘導され、結局慶応義塾に入学します。銀次郎が17歳の時のことです。21歳時、慶応を卒業、この間ご他聞にもれず福沢諭吉の影響を受けます。松江日報という地方紙に勤務し、この新聞の経営を引き受けるはめになります。 
4年後松江日報を辞め、やはり鈴木梅四郎の推挙で三井銀行に入ります。ちょうど中上川彦次郎の活躍が始まった時でした。大津支店に1年、そして深川営業所所長に栄転します。ここでの仕事は深川に設立してある多くの倉庫への貸しつけでした。その多くが不良債権化していました。前任者がいい加減な貸付をしていたからです。明治20年代前半までの銀行の貸付なんか、極めていい加減なものでした。銀次郎は、貸付先の物件の換金可能性を三段階に分け、それにより貸付の条件を変えます。こうして債権の回収に成功します。同時に深川地区の状況を考えて、貯蓄部門を創設します。当時の銀行はこういう事も(現在なら当然の事も)していませんでした。月給は中上川の一存で40円から60円に上がります。
次に富岡製糸所に転勤になります。製糸所は政府から三井に払い下げられていました。もちろん赤字経営です。銀次郎はまず女工の給料を能率給に切り替えます。製糸所は士族の子女の授産救済のために設けられた伝統をひきずり、士族と平民では同じ女工でも給料が異なります。この身分制による格差を銀次郎は一気に撤廃します。「天は人の上に人を作らず、人の下に---」と言った福沢の弟子ならではの糊塗です。
富岡製糸所の経営が一段落して、彦次郎は三井物産上海支店の次席になりあます。ここで商業英語、貿易と為替の実務をみっちり勉強します。台湾砂糖調査委員になり、台湾に渡ります。日清戦争で新領土となった台湾の殖産の一環として、総督児玉源太郎は三井に、台湾砂糖の栽培と販売の可能性調査を依頼していました。彦次郎はじっくりと台湾を見て歩き、台湾統治の安定を条件として、更に総督府から営業資金の10%補助も引き出し、砂糖工場の経営に乗り出します。やがて三井物産台湾支店長になります。39歳ご褒美として欧米視察をさせてもらいます。
帰国、木材部長に転任し、経営不振に悩んでいた、北海道の木材買い入れの建て直しに努力します。彦次郎は徹底して現地を調査し、木材の検査員にも現地、つまり森林と木材を知悉する事要求します。それまでの検査員は木材供給者のいう事を真に受けめくら判を押していました。北海道開拓庁時代の旧習が残続しており、検査員と供給者の馴れ合いが酷かったのです。無知な検査員はどんどん解雇しました。冷徹な資本主義の合理性を経営に導入します。アイデアもいろいろ考えます。北海道の木材は建築用材としては柔らかくて不評判でした。厚い板にして販売します。楢(なら)は北海道の山林にたくさん育っていましたが、鉄道の枕木に使われるくらいで、無用物とされていました。楢はオ-クです。西洋では家具の材料として重宝されていました。銀次郎はこれに目を着けて売りさばきます。一番苦心したのは楢材の乾燥法です。西洋では雪の下に埋めて乾燥させることを知り、楢の転用に成功します。楢山は安価であったのでどしどし買い込みます。後に値上がりし、物産は楢山でも稼ぎます。
明治43年、新たに領土となった樺太の平岡長官から三井に、森林資源の調査、厳密には森林資源の収益可能性の調査を依頼されます。三井は銀次郎を送り込みます。銀次郎はパルプ工場設立を提案します。こうして将来王子製紙大泊工場となる設備が作られます。
明治44年、銀次郎42歳時、王子製紙の専務になります。以後30年間銀次郎はこの会社に勤め、後には君臨して、製糸王と言われるまでになります。王子製紙は明治初年、下野した渋沢栄一が三井、小野、島田から資本を出させて、作った会社です。始めは政府発行の紙幣の紙を作るためで、抄紙会社と命名されていました。この経営が上手くゆきません。密から優秀な人材が送られますが赤字経営は治りません。綱紀は弛緩する、金融のめどはつかず借金のみ膨れる状況でした。
王子製紙経営再建のためには、綱紀粛正、節約は当然です。職場で旅行中にも社員をどしどし質問攻めにして能力を計ります。三井銀行に60万円の借入れを願いますが、池田成彬に断られます。やむなく上部組織である三井合名の、従って三井家に属する諸家の保証で、三井銀行から同額の借り入れを行います。払う手形の決済は延長、支払う方は短縮して、現金を蓄積します。言葉の表面だけから見ると、ずいぶん勝手な注文です。王子製紙を潰すわけにはいかなかったのでしょ。また三井合名の保証という錦の御旗もあります。
当時王子製紙には、王子、苫小牧、中部、気田の四工場がありました。中部と気田の二工場を廃止し、資本設備を王子と苫小牧に集中させます。技術革新に取り組みます。多くの欧米人を雇い、最新の設備の運営を始動させます。一部の外国人技術者は帰国した時、王子製紙の顧問として契約し、技術の進歩発展の情報を詳細に伝えさせます。経営が建て直されたとき第一次世界大戦が勃発します。洋紙の輸入はとまり輸出が激増します。王子製紙は大躍進します。銀次郎の運も良かったという事です。三井合名の大泊工場を傘下に収めます。かって銀次郎が樺太を調査して、作るよう進言したパルプ工場です。この時点で王子製紙は三井から資金的にも独立します。三井銀行のみを機関銀行とするのではなく、他の銀行とも付き合います。かって王子製紙建て直しで苦労した時、三井銀行が取った冷淡な仕打ちを覚えており、銀行というものの実態を知っていたからです。
 王子製紙の基礎が定まり、会社が発展する機会を逃さず、新しい会社の設立と同業他社の買収を開始します。大蔵省の印刷抄紙部十条分工場の払い下げてもらい、朝鮮に朝鮮製紙を設立し、有恒社を買収し、そして樺太の野田に新工場を作ります。大川平三郎率いる樺太工業と覇を競い、樺太工業傘下の富士製紙の株を買収して、樺太工業を傘下に収めます。王子、富士、樺太の三大製紙会社を合併して、大王子製紙を作ります。銀次郎は製紙王と呼ばれます。資本金は大正3年に300万円から600万円に増加し、大正7年2500万円、大正9年5000万円と飛躍します。大正9年に社長に就任します。昭和11年(1936年)には資本金は3億円にならいます。
 銀次郎の王子製紙における活躍のあらましはここまでです。以後の彼の活動は政治と社会貢献に費やされます。昭和14年には藤原工業大学を創設します。この大学は後に慶應大学に寄付されて、慶応大学工学部になります。昭和15年米内光政内閣の商工大臣に就任します。石炭統制法の設置に努力し、8000万円の予算を勝ち取り、岸信介次官を驚嘆させます。しかし銀次郎は本来市場経済主義者でした。なにもかも統制という、当時の気風には反対します。例えば魚の販売統制が持ち上がります。彼は官吏や軍人を築地の魚市場に連れて行き、鯛一匹の値段には100円から2円までの幅があり、それも時点時点で変動する事を示し、統制の愚を教えます。高利貸撲滅論が唱えられます。銀次郎は、もし高利貸がいなくなれば、中小企業の金融は逼迫すると説いて、一見高尚な倫理に見える、この法案に反対します。質屋の国営論も出てきます。国でやれるものなら、やってみろ、と開き直り、この愚案を葬ります。
 商工大臣を辞任したあと、内閣顧問に迎えられます。戦時中鉄鋼生産に夕張石炭を使用して、鉄鋼生産を50万トン増加させます。それまではコ-クスには中国の石炭しか使えず、とされていました。夕張石炭の使用法に改革を加えます。飛行機生産における膨大なアルミニュウムの無駄を節約し、飛行機生産をほぼ倍にします。造船では経理面から調査し、無駄を省き、造船量をアップさせます。しばらくして軍需大臣に任命されます。これまで事跡から銀次郎の軍需相就任は適材適所でした。しかし戦局が思わしくなく、米軍機の爆撃で生産施設は甚大な被害を蒙り、加えて軍需相を最高機密会議から締め出すという、軍の無定見な保守性のため、大した活躍はできません。第一次大戦でイギリスはロイド・ジョ-ジを副首相格で起用し、第二次大戦のドイツでは軍需相シュペールがヒットラ-の懐刀として活躍しています。
 やがて敗戦、銀次郎は戦犯の疑いをかけられますが、容疑は晴れます。もっとも他の例を引けば彼が戦犯になっても不思議ではありません。戦犯という概念自体が矛盾していますから。昭和35年、92歳で死去します。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行




 二宮尊徳-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-05 13:36:19 | Weblog
二宮尊徳-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 最近報徳教が見直されているようです。報徳教は二宮尊徳の思想を中心として形成された、倫理処世そして経世のための教えです。尊徳はかなり誤解されています。戦前は孝子の代表として小学校の庭には必ず彼の銅像が建てられていました。尊徳は国粋思想に利用されたようです。しかし彼の思想はそんなに底の浅いものではありません。ここではそれを主として経済学という見地から考察してみましょう。
 二宮尊徳は江戸時代後期の人です。幼名は金次郎、1787年に生まれ、1856年死去しています。彼が生まれる4年前浅間山の大爆発が起こり、関東全域が大きな被害を蒙りました。田沼政権は崩壊し、代って松平定信が登場します。尊徳が死去する3年前、ペリ-は浦賀に来航し開国を迫ります。そういう時代に彼は生まれました。彼の生涯は農民の生活と農村財政の立て直しに捧げられます。その行為の積み重ねから「尊徳仕法」という実践的な政治経済学が生まれました。
 彼は、まず自家の経済の立て直しを行い、このやり方を農民や武士の家政さらには藩政へ一般化して、仕法と称します。彼の学問は三教一致で、仏教・神道・儒教をすべて取り入れた独特の宇宙観を持ちます。
彼の本領は「経世」、すなわち家や村や藩の経済が成り立つようにその経済の仕組みを考え整え変えてゆくこと、の実践です。
彼は農業技術者であり、経済学者であり、農民の指導者であり、哲学者でした。主として農村の立て直しが彼の仕事です。土木灌漑、経理や村政、藩との交渉、そして仕法を実践するに際しての心構えと心情の涵養訓練も、彼の仕事です。
当時の農村は疲弊していました。幕末の人口は3000万、わが国の経済が農業と手工業の上に成立する限り、ぎりぎり養える人口です。洪水などがあると村の生産は激減し、餓死者や放浪者も出て、生産単位としての農民の家は崩壊します。農民の生産の上に成り立つ武士の生活も破壊されます。
石高が1000石といっても、実高は400から500国程度が実態であります。幕府の政策で関東は小大名旗本の領地に天領が複雑に組み合わされ、統一的な開発ができません。関東の地は火山灰地が多く肥沃ではなく、大河川が多く洪水に悩まされます。尊徳が生きたころの関東の農村はこんな状態でした。彼は相模国、現在の神奈川県の出身です。
尊徳を経済学者として考えてみましょう。
尊徳は人間の欲望を肯定し、衣食住の資源である諸々の財貨を「天禄」と称します。「天からの給付」です。この天禄をうまく使い、衣食住に支障のないようにすることが経国済民であり、人間は、みながみな、そう努めなければならないといいます。商業を含む一切の経済行為は肯定されます。「ただ欲望をどう制御するかが問題になる」と、尊徳は説きます。
制御の手段が、推譲と分度、お互い譲りあい自己の分を知ることです。道徳的な言葉づかいですが、これは共感を基盤とする商議と妥協ですから、契約関係を意味します。契約関係の最たるものが「交換」です。
尊徳は富の源泉としての農業を強調する重農主義者です。当時の為政者も重農主義といえば重農主義です。しかし農民である尊徳が、資源を天禄として万人に共有されるべきものとし、商議と妥協に基づく契約関係を重視し、その果てに交換経済の重要性を説くと、特権的支配者としての武士が存在する余地はなくなります。土地の政治的占有を否定して、効率的管理が強調されると、土地は富自体とみなされます。これが厳密な意味での重農主義です。尊徳は意識してか否か、商業行為としての農業へ一歩を進め、明治政府の地租改正の前駆をゆきます。
彼は「倹約」を「資本蓄積」として、積極的に解釈します。倹約して蓄積したものをどう増殖させるかが問題だといいます。
失業対策事業も積極的に進めます。彼の失態事業は単なる救済ではありません。尊徳はすでに有効需要喚起の意義を理解しています。
ある村が洪水で荒れた時、壮健者には土木事業をさせ、残りの者には縄を作る仕事を与えます。藩当局にそれを高値で買い取るよう指示し、ともかく農村に仕事を与えて金を落とせ、といいます。ケインズが説くところと同じです。
以上の考え方から、尊徳が万人平等を推奨したことが解ります。食う、を焦点として論理を展開すれば必ずそうなります。彼は徹底した合理主義者であり、現世肯定論者です。
尊徳はかなり複雑な形而上学を描いています。彼の思想で重要なのは、天道と人道の区別です。天のものは天のもの、人の道は人の道、といいます。天という抽象的源泉から地上の行為を切り離し、作為としての人道、つまり人智で作り為すところの営為を、彼は愛しました。この考えの背後には荻生徂徠の影響があります。
尊徳ほど誤解された思想家も少ないでしょう。戦前は勤倹節約孝子の鑑のようにいわれ、戦後は保守反動の象徴とみなされました。
彼に関する逸話を一つ紹介します。彼は結婚早々妻に逃げられています。仕事に熱中して家を空けることが多く、あきれた妻に逃げられたのです。豊田佐吉も同じ経験をしています。
余談になりますが、最近「ザ・トヨタウェイ」という本を再読しました。いわゆる、かんばん方式とかリ-ンシステムとかいわれる、豊田自動車の工程管理方式です。読んでいて、まず着実だが案外泥臭いやり方だな、と思いました。まさしく現場の土壌そのものから出てきたという印象です。どこかにこのようなやり方があったように感じました。その時トヨタの始祖である豊田佐吉が報徳教(二宮尊徳の教えを奉じる倫理や処世に関する道徳団体)に入っていた事に思い当たりました。豊田方式と尊徳のやり方は似ているでしょう。佐吉も尊徳も出自は似ています。佐吉は自作農兼大工、尊徳は小地主です。二人とも仕事に没頭して最初の嫁さんに逃げられた点でも酷似します。ちなみに豊田自動車の創業者は、逃げた妻の産んだ喜一郎です。