経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

    経済人列伝 野口遵(一部付加)

2020-03-22 16:09:36 | Weblog
経済人列伝 野口遵(一部付加)

 野口遵の「遵」は「シタガウ」と読みます。野口遵は日本の電気化学工業の発展に大きく貢献した、日窒コンツエルンの創始者です。彼の企業あるいは産業育成の方途は単純なくらい明確です。電力多消費型の産業と電源開発を結びつけるに、つきます。遵(シタガウ)は1863年(明治6年)に加賀藩士野口之布の長男として金沢に生まれています。父之布(ユキノブ)は勤皇運動に従事し、ために藩により投獄されています。維新になってすぐ之布は上京し文部省そして司法省に出仕します。遵は少年時代から並外れたいたずら者でした。ある伝記作者は彼の性向を、良い面としては、明敏、大胆、積極的、強い信念、不撓不屈、人情家をあげ、悪い面としては、ワンマン、短気、征服欲、粗野そして迷信をあげています。東京師範学校付属小学校から東京一中、一高をへて東京帝大理工学部電気工学科に入ります。
 1996年(明治29年)23歳時、大学卒業、郡山電灯に入社します。ここで発電所を一つ造っています。彼はサラリ-マンには向いていません。しばらくして転職し、ジ-メンスの日本事業所に勤務し、ジ-メンスの機械を日本国内で販売する、セ-ルスエンギニアリングに従事します。ジーメンスはドイツが誇る重化学工業の企業です。約4年ジ-メンスに在職している中で、重化学工業の技術、販売、経営法などを習得します。特に日本事業所の支配人、ヘルマン・ケスラ-の知遇を得ます。この事は遵が後々、欧州の技術発展を知る上で重要なコネになります。ケスラ-は後にジ-メンス事件という一大汚職事件が起きたときの、贈賄側の主人公です。この間にも遵はあちこちに発電所を造っています。
 1906年(明治39年)遵36歳の時、鹿児島県にある矢楯川の上流に発電所を造り、曽木電気を立ち上げます。発電所の出力は800ワットでした。すぐ隣県熊本の水俣にカーバイト製造工場を作ります。二つの企業は合併し日本窒素KKになります。本社は大阪の土佐堀です。遵は専務におさまります。これが遵の起業の最初でありまた元型です。当時日本でもぼちぼち発電所ができ、民間に電力を配給し、電灯も使われ始めていました。しかし消費電力量が小さく、そのために電気料金は高価でした。これでは日本の電力生産は伸びません。そこで遵は、電力多消費型の工場を作り、大量に電力を消費し、電力料金を安くしようとします。併せてこの廉価な電力を民間にも供給します。一石二鳥です。遵は以後多くの企業を作りますが、基本的にはこのパタ-ンを踏襲します。
 水俣工場でカ-バイトを作りますが、カ-バイトだけでは需要はあまりありません。そこで硫安の製造を目指します。当時硫安は肥料として普及しつつありましたが、90%以上外国製品で割高でした。カ-バイトから石灰窒素を作り、これに過熱水蒸気をぶっかけて出るアンモニアを、硫酸に吸収させて硫化アンモニウムつまり硫安を作ります。(変性硫安)石灰窒素製造技術は日本でも開発されつつありましたが、遵はイタリアからフランク・カロ-法を購入します。パテント購入の資金をどう工面するかです。遵は最初三井銀行と提携しようとしますが、三井側の条件が厳しく、提携は暗礁に乗り上げます。第三者を介して三菱銀行の豊川良平を紹介され、豊川の斡旋で、三菱銀行から融資を得ます。以後20年間日本窒素は三菱と提携してゆきます。こうして企業の基礎を固めた遵は、熊本県に白川発電所と鏡工場を作ります。内容は水俣工場と同じです。鏡工場で日本最初の空中窒素固定によるアンモニア製造が為されました。第一次大戦で一気に生産と販売の規模を拡大します。硫安10万トン生産、発電所の電力は3万300KW、資本金は1000万円になります。名古屋以西の各地に同様の「発電所+工場」を作ります。本社を大阪から広島に移します。この間重症の肺炎を患い一時弱気になります。
 1921年(大正10年)イタリアからカザレ-法を購入します。空中窒素を固定してアンモニアを製造する技術です。価格は100万円でした。変性硫安の製造の時もそうでしたが、既に日本でもその技術があるのに外国からパテントを購入して技術導入をします。では日本で開発された技術はいらないのかというと、そうではありません。既存の技術も加えて導入技術を変化させ向上させてゆくのです。カザレ-法は新たに作った宮崎県の延岡工場で実施されます。必要とする電力は延岡の上流、五瀬川や大瀬川に作られた発電所で賄われます。電力の半分は民間公共用として使用されました。アンモニアを合成できることで、アンモニアを基点とする諸種の物質製造が可能になります。経営が多角化されます。遵は好奇心が強く積極的で、イタリアからビスコ-ス法を導入し人絹の製造にも着手します。アンモニア合成や人絹製造では鈴木商店と熾烈な競争を展開しています。
 1927年(昭和2年)朝鮮窒素KKを作り北朝鮮に進出します。満州国境からほど遠からざる地域を流れる赴戦江(鴨緑江の支流、西流して黄海へ注ぐ)にダムでもって人造湖を作り、山塊を貫いてトンネルを掘ります。貯えた水を、このトンネルを通じて山の反対側(東側、日本海方面)に流し、それを大鉄管で落として発電します。出力20万KW,総工費5500万円(朝鮮窒素の資本金は2200万円)、赴戦湖(人造湖)の表面面積240万平方m、深さ75m、水量72億立方m、トンネルの長さ2・8km、水圧鉄管は一本が12000トンでした。この工事を冬は零下30度にも下がる厳寒の海抜1200mの高地で行います。また工事を開始するにも電力が必要ですが、近くには全くその設備はありません。ですから工事に必要な電力を供給する発電所を造ってから作業に取り掛かりました。必要な機械類はジ-メンスから購入します。しかし第二発電所以後は東芝などの国内メ-カ-への発注が激増します。
 併行して工場も建設されます。赴戦江に一番近い興南の地に、アンモニア合成工場、電解工場、硫安工場、工作所、気缶室、めっき室、事務所、触媒工場が作られます。さらに道路鉄道の建設、港湾造成、工場用水設備、住居、なども必要です。また従業員のための慰安や娯楽施設も要ります。この点では赴戦江の発電所も同様です。当時興南の地には漁民が少し住んでいるだけでした。遵は興南という都市を一つ作り上げたようなものです。ダムを造ったのでその水は周辺地域の灌漑にも利用され1万数千ヘクタ-ルの水田が出現します。周辺の山々は植林されます。興南工場の建設費は5500万円、硫安年間40万トンの生産をめざします。さらにこれらの施設の建設に使われた資材は日本の機械製作技術を大きく刺激し、興南工場は国産機器モデル工場と言われました。完成しましたが、会社経営は一時期危機にみまわれます。欧州の化学工業各社が連合して、日本にダンピング攻勢をかけます。また旱魃に襲われ、発電量が低下したのもこたえました。しかし昭和も7年を過ぎると、戦争景気のおかげで経営は順調になります。遵は始めのうちは無配に徹底し内部留保に務めました。
 遵(シタガウ)はさらに進みます。赴戦江の近辺にやはり鴨緑江の支流長津江があります。ここにも発電所を造り、興南に電力を供給します。長津江の水利権は三菱が握っていました。そこに遵が割り込む形になりました。時の朝鮮総督宇垣一成は、三菱が利権だけを確保して開発に慎重なのを嫌い、遵を支持します。こうして20年にわたる三菱との提携は破れました。三菱からの融資は返済しなければなりません。三菱に代って日本興行銀行が融資することになります。融資が成功しない場合は南米に逃亡しようとまで思いつめました。長津江発電所の供給電力の半分は公共用になります。順はさらに虚川江の開発も行います。この間延岡や水俣の国内工場の経営多角化と合理化を行っています。人絹製造にも進出し昭和8年に旭ベンベルグを造ります。
 アンモニア合成技術獲得以後、遵の会社は経営を多角化してゆきます。ざっとおもなところを拾うと次のようになります。硫安、アンモニア合成、硝酸・火薬・ダイナマイト製造、酢酸・人絹製造(酢酸法)、塩酸製造、アンモニア・苛性ソ-ダ回収、石炭液化(低温乾留)、人造石油製造、航空燃料製造、油脂工業(グリセリン、脂肪酸、硬化油、石鹸、ろうそく、食用油など)、金属精錬(マグネシウム、アルミニウム、亜鉛、鉄など)、グルタミン酸製造(大豆かすから)などです。他に水産業、石油業、証券会社、宝石会社、商事会社、ビル経営も行い、日本各地の鉱山開発も手がけています。
 1936年(昭和11年)遵は大陸浪人安倍孝良を知ります。安倍の提案にのって鴨緑江開発に進出します。鴨緑江は朝鮮と満州の国境を流れているので、満州国との共同経営になります。双方5000万円づつ資本をだします。本社をどこに置くかで朝鮮側、満州側の争いになり、結局本社は京城(ソウル)と新京の双方に置くことになります。こうして朝鮮・満州両鴨緑江水力発電会社が設立されます。社長は遵です。水豊ダムと青水・南山の工場が作られます。規模は長津江のそれを上回ります。
 1940年(昭和15年)遵は脳血管障害で倒れます。翌年全財産3000万円を公共に寄付し、野口研究所の設立を遺言します。昭和17年勲一等瑞宝章受賞。19年死去、享年72歳でした。遵の経営哲学は、同業者の機先を制して、廉価なものを製造する、消費され形の残らないものを作る、営利をこととせず、国家的見地から行う、でした。
 敗戦で日本窒素は海外の施設をすべて失います。昭和25年に日本窒素肥料KKができます。塩化ビニルやオクタノ-ルの開発生産を行います。カーバイトからオクタノ-ルを製造する過程の中間産物である、アセトアルデヒド製造工程でメチル化水銀が出て、これが水俣病の原因になります。日本窒素から出た企業には旭化成と積水化学があります。
 日本窒素あるいは朝鮮窒素が北朝鮮に投資した金額は現在の価格で評価して多分総額1兆円を軽く超えるでしょう。ではこれらの資産はだれのふところに入ったでしょうか?多分金日成かスタ-リン、ひょっとするともう毛択東かも知れません。私が言いたいのは中朝露いづれかの国のものになったということです。1965年に日韓基本条約が結ばれ、日本は韓国に有償無償総額6億ドルの供与を行いました。賠償とかいう話です。ところで日本が韓国から得た資産と、韓国が日本から得たそれを勘案すれば後者の方が優ります。北朝鮮との関係では多分この傾向はもと強まるでしょう。
 100人以上の経済人の列伝を書いてきて、エネルギ-という点では野口遵に一番驚かされます。電力開発と化学工業の一直線を驀進し、次から次へと生産施設を作ってゆきます。化学工業の性格から必然として出てくる諸種の物質を使って多角化を押し進めます。方針は単純で明快、行動は即決即戦で強引、投機などの曲線的なことは一切せず、危機にも動揺せず陽気に徹し、製造業一点張りです。そして大酒家で女好き、遊里でも有名でした。理研や日産あるいは森コンツエルン、鈴木商店などとともに日本の重化学工業発展の柱の一つでしょう。彼が72歳で逝ったことについて、使命を終えたと見るべきか、それとも志半ばと言うべきか、私は迷います。
  
参考文献  野口遵  有斐閣

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


(和宮内親王)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-22 13:37:57 | Weblog
(和宮内親王)-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 和宮内親王は1846年5月、仁孝天皇の皇女として生まれています。母方の実家は橋本家、禄500石の名家です。母親の名は経子、典侍です。和宮は幼名で諱は「親子(ちかこ)」と言います。誕生に先立って父帝である仁孝天皇は同年の1月死去されております。同年5月アメリカインド艦隊司令官J・ピッドルは軍艦二隻を率いて浦賀沖に来航し、開国通商を要求しています。朝廷は幕府に、海防を厳重にするべく勅諭を下します。いかにも和宮の将来を暗示する動向です。和宮誕生時、兄の孝明天皇は16歳でした。なお敏宮という18歳上の姉がいました。ともに異腹です。1851年4歳の和宮は有栖川宮家の幟仁(たかひと)親王と婚約されています。
 徳川14代将軍家茂と和宮の結婚の話が公然と持ち上がったのは万延元年(1860年)四月、井伊大老が桜田門外で殺害された直後の事です。ただし井伊大老執政当時から皇女を将軍に降嫁させるという話はありました。井伊死去後幕府の主導権は著しく低下したので、朝幕一和、公武合体で幕府の権威を立て直そうというのが幕閣の意向です。ただしこの婚姻には「攘夷断行」という大きな問題があります。幕府としては朝廷の権威を借りたいし、朝廷(特に孝明天皇)にとって攘夷断行は公武一和の絶対条件でした。結論から言えば「攘夷」などできません。幕府は「するする」と言いつつ違約を繰り返し、最後には孝明天皇の死去により、幕府は攘夷の鎖から解放される結果になりました。攘夷の証しとして和宮は降嫁したのですから、そこに彼女の悲劇といえば悲劇があります。そもそも井伊大老が殺害された最大の原因は、井伊が朝廷の意向を無視していわゆる違勅の日米修好通商条約を結んだことにあります。和宮降嫁は全くの対症療法、時間稼ぎでもありました。孝明天皇はこの幕府による和宮降嫁の請願を拒絶します。しかし天皇の諮問に対して岩倉具視は賛成の意見を具申します。肝心の和宮は降嫁には絶対反対でした。理由はいろいろありますが、京都の公卿世界に慣れた内親王が、異文化(と思えたでしょう)である江戸城中の生活を嫌がったこともあります。もっとも天皇・将軍レベルの人たちにとって政略結婚はあたりまえなのですが。
 1861年4月和宮内親王宣下、諱を「親子」と定められます。翌年1862年文久2年和宮と家茂の婚儀が執り行われます。降嫁に際して天皇は和宮に「将軍に攘夷断行の旨を伝えるように」との内意を示されます。家茂との結婚生活は1862年2月から家茂死去の1866年6月までの4か年半になります。しかし幕府は大変で家茂はその間三度上京しています。徳川将軍が上京するのは三代家光の寛永以来です。ですから和宮と家茂の結婚生活は極めて短いものでした。ただ両者の関係は鴛鴦の契りならずとも円満なものでした。家茂和宮の間の問題は二つあります。一つが前記した攘夷の問題です。幕府は違約を重ねますから、その度に和宮の京都帰りの問題が持ち上がります。特に家茂死去後は和宮の朝幕間における存在意義がなくなりますので京都帰還の問題はきつくなります。もう一つは江戸城内大奥との関係です。当時江戸城の大奥の実権者は天璋院でした。天璋院は薩摩藩主島津斉彬の養女で13代将軍家定の御台所・正妻でした。天璋院も幕府と西南雄藩との結びつきを強化するための政略結婚の当事者でした。和宮と天璋院との関係は下世話に言う嫁姑の関係にあります。両者とも引き連れる侍女の数は300名に及びます。京都と江戸の気分・文化の差もあります。侍女たちの待遇の問題もあります。騒動の種はそこら中に転がっていました。しかし和宮と天璋院の関係は穏当に行きました。原因は両者とも自分の置かれた立場・使命を心得ていたからです。天璋院に関しては逸話があります。明治になり徳川家の台所が苦しくなった時、明治政府の薩摩閥は天璋院に対して実家の薩摩藩から援助しようと言い出します。天璋院は、自分は徳川に嫁いできた者、としてその申し出を断ります。
 家茂が死去し徳川の後嗣を決める時、和宮は夫家茂の遺言である田安亀之助(家達)を退けて、成人し英明の聞こえの高い慶喜を後嗣に挙げ、慶喜の次を家達に決めました。もちろん和宮の単独の意志でそう決められるものではありませんが、そういう確固とした意志を持った人であったようです。家茂死去後、和宮はてい髪し静寛宮と呼ばれるようになります。この頃作った和歌に、
   空蝉の唐織ころもなにかせむ、綾も錦も君ありてこそ
があります。和宮も家茂も結婚時はともに17-18歳でありました。和宮の方が少しだけ姉さん女房であったようです。なお和宮は15代将軍慶喜に攘夷断行を懇請しています。また兵庫を開港した事で幕府も朝廷も共に開国に踏み切ったわけですから、和宮降嫁の意義もなくなります。
 家茂死去後情勢は急変し続けます。孝明天皇の崩御、薩長同盟、第二次長州征伐の失敗、大政奉還、鳥羽伏見の戦いと事件は次々に展開され、15代将軍慶喜は江戸に逃げ帰り朝廷に対して謹慎の姿勢を取り続けます。朝廷の側では、特に西郷隆盛などは慶喜の切腹を要求していました。慶喜から和宮に助命嘆願の訴えが届きます。朝廷の方でも和宮の安否を気遣い、幕府内和平派である大久保一翁や勝海舟に和宮の保護を依頼しています。
 和宮の存在は徳川家存亡の危機においては重要な意味を持ちます。ある意味では彼女は人質でもあります。そして同時に朝廷官軍に対する窓口でもあります。慶喜はまず天璋院に目通りし徳川家と慶喜自身の救済斡旋を依頼します。天璋院の取次で慶喜は和宮にも同様の事を依頼します。和宮は救済の斡旋のみ引き受けます。官軍の鎮撫総督は和宮の母方の実家橋本家の人物ですから、まずそこに侍女を遣わします。さらに京都朝廷に救済依頼の慶喜の手紙を言づてします。和宮は慶喜に手紙を書き替えさせました。和宮の手紙には、仮に徳川家が滅亡すれば朝廷がいかなる措置を施そうとも自分は自害する、という意味の一節があります。天璋院と和宮はこの事態にあって、本来敵側の人物です。このような人物がいて徳川家の為に尽力してくれたことは徳川家のみならず、日本全体の運命にとっても大吉とすべきことです。徳川家と官軍の交渉は後宮のみで為されてわけではありませんが、和宮と天璋院の存在は無視できないでしょう。
 1869年(明治2年)正月、和宮は京都に帰ります。聖護院を住居とします。1874年(明治7年)すでに東京と改名した旧江戸に帰ります。1877年(明治10年)死去、享年32歳です。