経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 コロナ対策、5000億円では少ない

2020-03-06 19:33:26 | Weblog
コロナ対策、5000億円では少ない
 コロナ対策に日銀総裁は5000億円を供給すると言う。正直この額は少なすぎる。この程度の緩和では焼け石に水だ。コロナ事件による経済への打撃は、リ-マンショック時より大きいのではなかろうか。あの時米国も中国も50兆円から100兆円規模の資金供給をしてしのいだ。日本は確か5兆円くらいの供給だった。おかげで本来リ-マン事件には一番かかわりの薄い日本の経済の方が立ち遅れた。この愚を繰り返してはいけない。そういう反省に立てば今回のコロナ事件での供給緩和は50兆円から100兆円に上ってもいいのだ。
 考えても見よ。コロナ肺炎の恐怖でほとんどの催し物は中止された。また人と人の往来自身が激減する。うかつに買い物にも美容整髪に行くのも慎重にならなければならない。外国との交流も大きく阻害される。ショックは日本だけではない。中国はより大きいショックを受けるだろう。米国ではカリフォルニア州が非常事態を宣言した。イタリアも非常時だ。コロナはより大きな広がりを見せるだろう。
 安倍総理はじめ政府の要人、さらに与野党の幹部だって感染する可能性は充分にある。その対策はしてあるのか。対策はちびちび小出しにするのではなく、一気に大胆にすべきだ。対策の根本は人と人の往来を一時中断する事だ。この措置はどう少なく見ても最低一か月はかかる。一か月でコロナが収まれば稀な幸運だろう。それでも経済への影響は計り知れない。政府は救済措置を取らねばならない。それも大規模に。日銀の供給緩和のみに限っても100兆円の額は必要とされるだろう。
(付)コロナヴィ-ルスは米国欧州にも飛び火している。おりから米国では大統領の選挙が行われる。この行事をまともにしていると感染経路は増大する。
(付)中国ではコロナは終焉に向かっていると言う。信用はできない。周辺諸国に広がっているのに肝心の中国内部では終焉とは。この国では真実は封鎖される。信用できない。
(付)コロナ事件でほとんどの催し物が中止になる。世間の気分は憂鬱になる。世間の気分を引き立てるためには減税が第一だ。消費増税は中断ないし廃止されるべきだ。代わって必要なら富裕税を徴収すればいい。

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  日本の良いところをもっと良く知ろう。

  経済人列伝 藤田伝三郎(一部付加)

2020-03-06 16:13:40 | Weblog
経済人列伝 藤田伝三郎(一部付加)

 今までこの列伝で描いてきた人物の、少なくとも名前は、私は知っていました。しかし藤田伝三郎に関しては初耳です。大倉喜八郎、小林一三、山辺丈夫、豊田佐吉、古河市兵衛などの伝記では、必ずと言っていいほど、伝三郎の名前は出てきます。偶然大阪市立図書館で彼の伝記を見つけたので、興味をもって読んでみました。そして彼が行った多くの事業を系統だって知る事ができました。極めて多くの事業に伝三郎は何らかの形で関与しています。あまり事業が多いので列挙するに留めます。後は読者の方でその事業の意味を考えて下さい。
 藤田伝三郎は1841年(天保12年)長州(山口県)萩の城下で生まれました。家業は酒造業です。小野妹子を祖先に持つと言われています。高杉晋作の奇兵隊にもなんらかの形で関係があったようで、少なくとも高杉を尊敬していた事は確かです。この事は明治新政権内での長州閥と、従って政権の要人と親しい関係をもたらし、彼の事業遂行には役立ったと思います。木戸孝允の勧めで実業家を目指し、大阪に進出します。最初の商売は陸軍の兵隊さんの軍靴の製造でした。長州出身の陸軍軍人山田顕義の勧めです。ついで明治初年に大阪の高麗橋を鋼鉄製で作ります。1871年に始まる大阪京都間の鉄道建設も請け負います。それまでの部分的請負ではなく、全業種を一括して率いる新しい型の総合的請負です。
また井上馨達と協同で大阪先取会社を作りました。この会社は長州藩あるいは山口県内の産物特に米を、一定の利益を保証して買い上げ、売買する商売です。米の多くは年貢米ですから、納める先は政府です。新政府は旧幕布と違い、すべて金納であり、租税の額は地価により決められました。ですから最初のうち、農民が個別に販売すれば、米穀商人に買い叩かれてしまいます。先取会社はこの様な事を防止する目的で作られました。言ってみれば政府の徴税機能の一部を代行している事になります。このような事は三井組をはじめとする大商人はみなしていました。
 西南戦争では軍靴のみならずあらゆる軍需物資を陸軍に売り大いに儲けます。大倉喜八郎の仕事と同じです。作戦を遂行するために必要な、土木建築作業の請負も当然しました。伝三郎は38歳、西南戦争で彼は実業家としての地盤を固めました。以下彼の事業を列挙してみます。だいたい継時的になっています。
大阪商法会議所設立の斡旋
 商法会議所とは現在の商工会議所です。政府官界と民間企業を仲介する組織です。
大阪築港計画
大阪合同紡績会社の頭取就任
 この会社は日本で始めての、大規模な西洋式紡績会社で、日本の紡績業発展の先駆となりました。渋沢栄一が斡旋し、山辺丈夫を技師長にして日本人だけの経営にしました。伝三郎はこの計画に積極的に参加し、頭取の役を引き受けます。
阪堺鉄道会社設立
松本重太郎に協力して大阪(難波)堺間の鉄道敷設を行います。現在の南海電車の前身です。
日本郵船の設立に協力
 岩崎弥太郎のところですでに述べましたが、西南戦争で稼いだ岩崎の郵便汽船三菱会社の独占に対して共同運輸会社が作られ、両社は激しい競争を行います。共倒れになるのを避けて両社は合併します。協調合併の斡旋に藤田伝三郎は活躍します。
神戸桟橋会社設立
 港神戸の陸揚げ作業を請け負う会社です。
天神・天満・木津・渡辺・肥後橋の建設
 水害で流された大阪市内の橋の中で特に重要な上記五つの橋の建設を請負い完成します。
琵琶湖疏水の建設
佐世保と呉軍港の建設
有限責任日本土木会社の設立(1887年)
 資本金200万円、内藤田伝三郎90万円、大倉喜八郎80万円の出資。会社設立の目的は近代的な土木建設業を行うためです。当時の請負業社は小規模なものが多く、技術と組織そして責任感において欠けるところが多かったのです。この会社が行った事業は多彩です。利根運河、東京湾月島造成、東海道線天竜川大府間の建設、讃岐鉄道丸亀琴平間の建設 九州鉄道博多遠賀川間他建設、帝国ホテル、歌舞伎座、日本赤十字病院、東京郵便電信局、京都国立美術館、女子学習院、日本銀行、滋賀県庁、そして京都大学・東北大学・東京大学の一部の建設も行っています。
小坂鉱山再開発
 秋田県の小坂鉱山は銀山として有名でしたが、銀はほぼ取り尽くされていました。伝三郎は久原房之助に経営を任せます。努力の末豊富な銅を産出精錬する事に成功します。当時としては古河市兵衛の足尾銅山に継ぐ産出量を誇りました。なお久原房之助はこの事業をを皮切りに、機械・電機・化学・造船などの総合的な会社群、日立グル-プを作り上げます。
児島湾干拓
 岡山県の児島湾の干拓事業を藤田組で行います。機械化された大規模農業の発展を伝三郎は志しました。1902年一部完成します。全部が完成した時の耕地総面積は5000町(ヘクタ-ル)でした。干拓事業は藤田組にとって完全な赤字であり、また戦後の農地改革で藤田家の所有する耕地はすべて没収されます。
大阪毎日新聞の育成
 大阪日報の経営を援助し、大阪毎日新聞と社名を改めます。一時官を辞した原敬を社長にします。やがて経営は本山彦一に委ねられます。本山は経営を安定させ、やがて東京日日新聞を合併して、毎日新聞を作ります。
金本位制主張
 小坂鉱山は銀を産出していたので、金本位制は伝三郎個人にとっては、不利になるはずですが、彼はあえてそれを主張します。当時金本位制に反対する人が多かったのです。伊藤博文もその一人です。
湊川改修会社設立
大阪ガスと大阪市のトラブルの仲介
 大阪ガスのガス管は市内の公道を通るので、道路使用料などで会社と市がもめました。
北浜銀行設立
 頭取に三井銀行大阪支店長の岩下清周をもってきます。岩下も経済人としては極めて有能な人で、彼の影響下に小林一三の阪急電鉄ができました。また岩下は近鉄電車の創設にも深く関わっています。
大阪商業学校の設立に関与
 設立に際し150万円を寄付しています。この学校はやがて国立になり大阪商科大学を経て、現在の大阪市立大学になっています。
藤田美術館
 伝三郎は多趣味な人でした。特に古美術品への関心と造詣が深く、彼の死後藤田美術館が建てられています。
男爵に叙せられ、1912年に死去します。

藤田伝三郎は独立独歩の人でした。義侠心に富み世話好きで、加えて極めて多趣味な人でした。自己宣伝をほとんどしません。彼を非社交的な人という人もあります。しかし彼はメディアに乗らないだけで個人としては相当以上の人脈をもっていました。彼が経済人になりきれなかったと言われるのは、銀行を持たないのを信念にしていた事にあります。財閥は必ず自前の銀行を持ちます。伝三郎の仕事は多岐になりますが、かなりの部分が世話・斡旋・仲介が多く、また彼が資本を出しても経営は他人に任せる傾向が強いようです。ですから彼の事業は藤田個人のものとしては残る事が少なかった、と言えます。
藤田伝三郎の主たる事業は、土木建設と鉱山経営にあります。明治20年代までの日本の主な企業できる産業は、この二つに金融と運輸です。建設・運輸・金融は産業発展のインフラ投資です。鉱山は銀や銅を産出し、当時の重要な輸出品でした。外貨を稼ぎます。この四つの事業で下固めをした日本の産業は明治20年代に入り、製造業が、まず繊維工業から猛烈な発展を始めます。日清戦争前後に第一次産業革命を成し遂げ、外資を導入します。軽工業で稼ぎ、外資を使用しつつ、日露戦争以後重化学工業が発展します。
藤田伝三郎は、主として、産業インフラ投資時代に活躍しました。この時代は業種が業種ですので、どうしても政界官界に結びつかざるを得ません。伝三郎も例外ではありません。井上馨と長州閥、そしてそれを通じて政界一般に顔が効いたと思われます。この点では政商です。明治の前半に活躍した経済人で、この意味で政商でなかった人は稀です。そういう点、特に当時の経済界ににらみを効かしていた井上馨と昵懇である点では、渋沢栄一に似ます。渋沢も多くの事業に関係しつつ、彼個人の残した企業としては第一銀行(現在の瑞穂銀行の一部)くらいです。あとは世話、仲介、斡旋、助言、指導などです。伝三郎は渋沢より1歳下ですが、出自は似たようなものです。渋沢の知名度が抜群なのは、渋沢の事業が全国的規模であった事にもよります。しかしなによりも渋沢は旧幕府にも新政権にも出仕し、権力の中枢にいた経験があります。彼が遣欧使節に随行できたのもそのゆえです。ですから伝三郎に比べれば視野は広くなります。ただ伝三郎が高杉に憧れ、また渋沢が尊皇攘夷を唱えて京都に出奔した点の類似などは、興味をそそられます。
明治12年伝三郎38歳の時、突然警察に逮捕されます。容疑は偽札作りです。当時洋行中であった井上馨の偽札つくりを幇助したという、疑いです。結果は明白な白、無罪でした。偽の通報をした人物は逮捕され、関係した警察陣もそれなりの処分をされています。薩長藩閥間の争いに巻き込まれた可能性があります。伝三郎の事業展開から考えても、彼が偽札つくりをするなどとは考えられません。しかしこの評判は彼の人生についてまわり、彼を誤解させるような像がでっち上げられました。そのせいもあって伝三郎の事跡は、彼の功績の割には、我々一般の人間には伝えられていません。私が彼の名を知ったのはつい1年ほど前のことです。

参考文献  藤田伝三郎の雄渾なる生涯  草思社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


天保の改革-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-03-06 13:06:54 | Weblog
天保の改革-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 徳川家斉が1839年に死去し、家慶が第13代将軍になります。家慶は水野忠邦を老中首座兼勝手係に任命します。江戸時代、元禄期から以降は勝手係(財政専管)に任命された老中が、いわば首相として政治を領導しました。忠邦は今までの政治を大胆に改革します。松平定信の寛政の改革がどちらかというと保守的反動的であるのに対して水野忠邦の天保の改革(1841-1843年)は大胆で進歩的な面を持っていました。改革の内容はの主たるものは三つです。まず奢侈禁止と物価値下げ、株仲間解散、そして上知令(あげちれい)です。
 物価値下げは徹底的にそして強制的に行われました。贅沢品は消費禁止です。例えば煙管などに金銀の装飾をほどこしてはいけないとか、櫛・かんざしなどに金や鼈甲は使用してはいけないとかなどなどです。大衆的なものを作って売れ、高級品は物価の上昇に連なるから(事実そうですが)ダメという事です。一例を挙げれば豆腐は一丁60文を52文にせよと奉行所から命令がきます。地代や店賃も抑えられ値下げされました。初物や促成栽培の野菜(当時でも室にたどんを入れてキュウリ・ナス・インゲン豆・ササゲなどは人為的に栽培されていました)は高価になるから、栽培も売買も禁止されます。祭礼は地味にするべく命令され、芝居はほとんど禁止されました。歌舞伎などのみならず、庶民が通う寄席も禁止されました。当時有名な役者市川團十郎などは、人気があって庶民が高い金を払って見に行くので、街では顔を見せてはならぬとお達しがあり、編み笠使用が義務付けられました。江戸市中の物価を統制するのですから、奉行所の与力同心以下総動員です。これらの役人にも監視のスパイがつきます。要は大衆的な物、安い物を作って売り、奢侈品を抑制禁止して物価を強制的に引き下げる事です。物価は下がりました。しかし経済の法則に従えば不景気になります。忠邦は改革の数年前に天保の大飢饉と大塩平八郎の乱を見ているので、物価高が一揆打ちこわしなどの暴乱に繋がるのをなにがなんでも避け、為に物価抑制従って消費抑制の政策を取ったのです。
 第二は株仲間の禁止です。株仲間は吉宗の頃から始まります。特定の業者の中の有力者に仲間を作らせ、その証拠に幕府か仲間が発行した株を持たせます。そしてこの株仲間は商売上の特権を有する代わりに一定の上納金(税金になります)を収めさせます。株仲間は意次のころ盛行し、以後もずっと続いていましたが、次第に特権化し価格を操作するようになります。特に大阪江戸間交通の大動脈である菱垣廻船を牛耳る、大阪江戸の十組問屋は両都市特に江戸の物価高の原因とみられました。水野はこの株仲間を、そして次第に他の業種の仲間も禁止します。ここで江戸北町奉行である遠山景元(巷談で言う、遠山の金さん)が株仲間解散に反対します。遠山の意見は、株仲間の存在ゆえに物価は安定している、となります。加えて仲間の株は金融資産、担保になります。株仲間が禁止されると業者は資金繰りが困難になります。つまり市場に商品を安定的に供給できません。当然不景気になります。水野は遠山の反対を押し切りますが、問題は水野辞任後も残り続けていました。つまり経済は進化していたのです。幕府首脳の古典的常識を超えて、株仲間は銀行化しつつあったのです。
 第三の問題が上知令です。これは江戸と大阪特に後者の近辺の大名旗本領を遠方の地に移し両都市近辺は幕府直轄領にしようという政策です。つまり幕府財政の、従って政治全体の中央集権化を計ろうとしました。非常に開明的で、幕府存続には必要不可欠な政策です。問題は移封される側の都合です。仮にある大名が大坂近辺の尼崎で2万石の領地をを領していると仮定します。それが奥州などの僻地へ同じ2万石で移転させられると、数字は同じですが、実収は1/3くらい減ります。理由は両方の土地の生産性の違いです。尼崎では当時商工業が更に発展しつつありましたから、移封される側の損は更に大きくなります。また江戸や大坂近辺の大名は幕府を支える譜代大名や旗本がほとんどです。幕府は創立当初から江戸大坂近辺は譜代大名と旗本領を天領(直轄地)と複雑に組み合わせていました。反乱を防ぐためです。つまり軍事的見地からそうしてきましたが、経済が発展するとその措置は桎梏になります。水野はそこで上知令を出し改革しようとしました。幕府首脳の老中たちも総論賛成、各論反対です。ついに有力老中の一人が反対し、これを機として水野政権つまり天保の改革はついえさります。同時に幕府財政再生の可能性もなくなります。水野退陣後10年してペリ-が浦賀に来航します。水野は欧州諸国の東アジアへの進出には敏感で、国防の急務は知り尽くしていました。
 当時経済の中心は大坂でした。極端に言えば経済において江戸は二次的存在でした。幕末鳥羽伏見の戦で幕府軍が負けると、外国の領事たちは、いっせいに新政府支持に回りました。理由は新政府が名古屋以西の領地を支配し、経済力で圧倒したと判断したからです。また最後までもめた兵庫港開港問題も、あそこまで外国が強硬に出たのは、大阪京都に経済力が集中していたからです。彼らは金の成る木を見逃しません。
 次に当時の政治状況を知る手段として、薩摩藩主島津斉彬、幕府能吏二人、川路聖謨と小栗忠順を紹介してみたいと思います。その前に天保の改革とほぼ時期を同じくして起こった思想弾圧事件「蛮社の獄」について触れておきます。