経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 経済均衡論の考え方、(付)経済成長論

2009-04-11 13:13:42 | Weblog
 経済は成長するのか?するのだろう。事実成長してきた。何をもって成長の証とするかはGDP等に頼るより、人口とエンゲル係数と鉄鋼生産量を見れば直感的に解る。一目瞭然だ。既に述べたように、限界効用論(均衡論)からは経済成長という考えは出てこない。ケインズが実物経済と貨幣経済の間に亀裂を作る事によってのみ成長を保証する考えが可能になる。成長理論の第一号はケインズの弟子ハロッドとフランス人経済学者ド-マ-の理論だ。称してハロッド・ド-マ-モデル。このモデルに従えば、
  貯蓄率 = 産出量/資本量 x 人口増加数/人口数
記号で表現すれば
  s = v x n  
になる。右辺の前項を資本産出比率と言い、後の項は人口増加率だ。つまり資本の生産効率と人口成長率の積が貯蓄率に等しい時にのみ経済は安定成長できる。と彼らは言う。ところでこの三つの数値、資本産出比率(v)も人口増加率(n)も貯蓄率(s)も定数とされる。三つの数による上記の等式が成り立つ事は全くの偶然となる。人口増加率が大きくなり過ぎると賃金増加によるインフレ、資本産出比率が過大になると資本過剰によるデフレと失業者の増加、に傾くだろう。等式が成り立つのは刃の上を歩くようなきわどさがある。だからハロッド・ド-マ-モデルはKnife-Edged-Theoryと言われた。
 
 ソロ-はこのモデルに一考察を加える。
  
  まず資本と労働力を互換的なものとする こうすれば資本産出比率も人口増加  率も変数になる
  
  一応貯蓄率は一定と置き、各貯蓄率におけるvとnの関係を考える
  全体は収穫逓減に従うものとされる 収穫逓減は資本と労働の互換性を導入し  た段階で既に決められているようなものだが

そして縦軸に産出量/資本量、横軸に労働力/資本量を取り、貯蓄率一定の過程で函数
を描く。以下の図になる。

  グラフ(成長理論 割愛)

上記のグラフでs/vを一定として、nと言う人口増加数に呼応するQ/Kを超えるか、L/Kがnを超えれば(同じ事だが)、資本と労働力が相互に制約する事により、常にK/Lがnになるべく減少する。逆にnを下回る場合はnに向かって増加する。とソロ-は言う。

 グラフだけからでは以上の推論は成り立たない。肝心な事は資本と労働力の互換性(移行性)だ。一方的に資本あるいは人口が増加するという事態(こんな事はあり得ないが)を回避して両者を変数としてハロッド-・ド-マ-のモデルを理解する事によりソロ-の説明は可能になる。かくしてソロ-は安定した成長の図式を手に入れた。

 資本の産出率は技術のことだ。同じ装備が量だけ増えても、資本生産性は増加しない(大規模生産の有利はさておく)。しかしここで労働と資本の互換性を考えれば技術の意義は飛躍的に増大する。労働集約的技術もあり、労働使用的技術もある。ソロ-が資本と労働の互換性を導入した時から技術の産出に対しての意義は定まった。ソロ-が1957年に書いた論文では「1909年から1957年までに労働生産性は二倍になっているが、そのうち7/8が技術の寄与に拠る」としている。資本家も労働者も面目丸つぶれだ。前記のグラフとこの論文の意味するところは相互に独立だが、ソロ-が経済成長にとっての技術の高い寄与度を念頭においてこのグラフを書いた事は間違いない。
 
 ソロ-の考え方の中には成長と技術という二つのモメントが溶け合っている。経済は安定して成長する、そのためには技術の進歩が不可欠だとなる。今では当然の考えだが、この事を理論として取り上げた功績は大きい。しかしそれ以後、つまりソロ-のグラフ以後成長理論がどう成長したのかとなると、こころもとないこと甚だしい。事実上理論の成長はこのグラフで止まる。彼以後ル-カス、ロ-マ-、グロスマンとヘルプマン、マギオンとホ-ウィット等が色々新規な成長理論を提出しているがソロ-は一つ一つ批判と言うよりケチをつけている。詳しくは2000年に出版された彼「成長理論 第二版」を参照されたい。私は偶然「成長理論」の初版と第二版を読む機会があった。内容は相当変化している。初版本ではル-カスの成長理論を高く評価していた。他の理論に対しても同様だった。第二版ではル-カス以下の新説には手厳しい。その分初版では無視されていたに等しいハロッド・ド-マ-モデルが再認識され詳しく解説されている。むしろソロ-は成長理論の原点であるこのモデルに戻った観がある。2003年に出版された東洋経済新報社の「失われた10年の真因は何か」という本の中で経済成長に対する技術の寄与の問題が論じられていた。驚いたのは論者が使用している理論モデルはソロ-のモデルそのものだった。成長理論はこの半世紀近く殆ど成長していない事になる。少なくとも現実の経済現象を分析する手段としては。
 
 しかしそれは当然と言えば当然なのだ。技術とは機械やシステムの構造機能そのものか、人間の身体頭脳あるいは感性に体化されたものなのかということになる。ソ連がアフガニスタンに侵攻した時アメリカは対空ミサイルをアフガンゲリラに供与した。しかしゲリラの持つ知識や技術では操作できず、武器は足手まといを通り越して危険でさえあったと言われた。今は知らない。フランス陸軍は数年前に徴兵制度を廃止して日本の自衛隊のように志願兵制度に変えたい由を新聞で読んだ。僅々二年間いやいや勤務する兵士には近代軍事技術を習得できないと判断されたからだ。有名なリ-ン方式と言う生産システムがある。カンバン方式とも言う。これで大成功したのが豊田自動車だ。このシステムは極力生産部署における中間資材の在庫を減らす事により生産効率の向上を目指す。そのためには機械の操作系列に対応するべく労働者の判断、操作能力、規律、体力等すべてを鍛えなくてはならない。パソコンがいい例で単なる機械であるハ-ドのみでは勝負にならない。対応する人間様の創造力いわゆるソフトの能力が必須だ。自動車運転、交通システム等どれをとっても同じ。医師の能力は確実に医師の心身に体化されたものに拠る。弁護士に至ってはその程度は更に増す。技術開発に研究資金は必要だ。しかし資金額が増えればそれで良いとはならない。もっと別の要素がいる。無批判に研究資金を与えれば何に使われるか解らない。学習時間は技術研鑽に一定度の意味は持つが、一定度までだ。研究能力になるとこの限界はより低くなる。創造に余暇は必要だ。しかしどのくらい必要なのかはなかなか解らない。数式を建てても極めて漠然としたものだ。
 
 こうして成長理論で技術技術と言っているうちに「人間資本」とか言い出すはめになった。人間資本、この言葉を嫌う人がいるが私は好きだ。人は人の役に立つから人なのだ。結局資本そして技術は人間様なのだ。それはそれでいいが、さてこの人間資本をどう数式化するのか。あえて数式化すれば人間に関して一定の仮定を置かねばならない。しかし人間が不可解でややこしい存在である以上、この仮定は極端なものか、あたりさわりの無いものかのどちらかになる。前者の仮定下では経済が安定するはずがない。あたりさわりの無い仮定で一番安全なのが、人間の理性を信じる事だ。どこまで信じればいいのかは解らないので、いっそのこと全部信じてしまえとなる。Rationalismが出現する背景はここにある。人間の理性を全面的に信じられれば経済行為なんか要らない。だからこういう前提で進められる数式ではどこかで「人間様はすべてお見通し」と言う仮定が入る。元来経済指標例えば、消費性向(流行も大切)、資本蓄積と投資意欲、貯蓄率、人口成長と教育制度、科学技術の発展、社会的インフラの整備、はては金利や貨幣供給の量にいたるまで、詳しくは解らない・経験則に拠る外はない、のだ。一部のみ経験的に解る。そして未知の部分はそれ以上に増える。

 人間の理性を全面的に信用する立場で極論すれば、人間はいずれ死ぬ、それまで必要な資源はこれこれこんだけだ、それ以上あの世に持って行っても無駄、カロリ-はこれだけでいい、魚菜畜肉や大豆卵乳では不正確だからアミノ酸の量で計ろう、衣服は年何着何ヤ-ル、必要なだけ生産すればいいとなる。これは人間の世界ではない。共産主義者も同じ事を考えていた。個々の人間すべてに関して未来永劫に需給の量が計算されてしまう。経済が発展するはずがない。何をしても最後は決まっている、元の木阿弥だ。あほくさくて何もしない方がいいとなる。

 経済は成長する。しかしどのように成長するかは解らない・解らない事の方が多い。人口、資本と労働、技術、人的資本、と成長を荷うべきファクタ-は変ってきた。ただそれだけだ。理論が進歩したとは言えない。数学的曲芸を除けば。人的資本を論じるに日本には既に故智がある。戦国武将の代表、武田晴信(信玄)に
    人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
の句がある。至言だ。成長理論はこの句を越えたのか?