経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

天皇ご紹介---花山天皇

2009-04-22 00:47:51 | Weblog
   花山天皇

 花山(かざん)天皇と申し上げます。65代天皇、冷泉天皇の皇子、イミナは師貞、母は太政大臣藤原伊マサの娘懐子です。在位期間が984年から986年と短いのは、次に述べる事情によります。この時代は摂関政治が確立してゆく時期に当たります。いずれの家系が摂関家になるかで覇を競います。花山事件、また円融朝の安和の変は覇権競争において出現する典型的な事件、宮廷内権力闘争です。
 ここで天皇家と藤原氏の系図を簡単に説明しなければなりません。大化の改新で活躍した鎌足以後藤原氏の主流は次のような系図になります。

鎌足-不比人-房前-真楯-内麻呂-冬嗣-良房-基経-忠平-師輔-兼家-道長-頼道

 忠平の長男実頼の家系を小野宮流、次男師輔のそれを九条流と言います。摂関政治の典型は、自分の娘を天皇の后妃として入れ、生まれた皇子を次代の天皇として即位してもらい、自分は摂政か関白として実権を握る、という図式です。しかし必ずしも理想どおりには行きません。花山天皇の時の関白頼忠は小野宮流に属し、天皇と特に密な関係にはありません。天皇の母后懐子の父親であり師輔の長男である伊マサは夭折し、懐子の兄の義懐(よしかね)が天皇の叔父として外戚の地位を占めていました。義懐はまだ若く官位は中納言でした。ですからこの王朝は摂関政治としては不十分な制度になります。以下のような系図になります。「-」で親子関係を結び、兄弟関係は並列で示しています。

光孝-宇多-醍醐-村上-冷泉-花山ー三条
                 
            円融-一条-後一条 
                  後朱雀-後冷泉
                      後三条-白河(院政へ)

忠平 - 実頼 - 頼忠
師輔 - 伊マサ -義懐
     懐子
兼家 - 道隆 - 伊周
     道兼   隆家
     道長 - 頼道-(以下摂関家)-

 花山天皇の即位を歓迎できなかったのが兼家です。彼は先代の円融天皇に娘の詮子を配し、詮子はすでに懐仁親王(後の一条天皇)を産んでいました。兼家はすでに50歳台の半ばに達し、是が非でも自分の息のあるうちに懐仁親王を天皇にと企てます。花山天皇はヨシ子という女御を寵愛しておられました。女御が死去します。天皇にも女御の死には責任があります。妊娠して体調不良の女御を無理に宮廷にこさせて寵愛を重ねられたのですから。寵愛していた女御の死去で天皇は取り乱されます。天皇のこの心情を兼家は狙います。上手く口説いて天皇を出家させようと。兼家の次男道兼は天皇のおさななじみでした。道兼はこう言います。「そんなにお嘆きなら、いっそ出家されたらいかがでしょうか 私もお供します」と。

 花山天皇は、この方はかなり軽率な人物でした、この企てに乗られます。ある夜、側近の義懐達がいないのを見計らって、道兼は天皇を東山の花山寺に連れ出し、髪を剃ってしまいます。天皇が寺へ連れ出される道中、摂関家の武力になりつつあった清和源氏嫡流の源満仲の家来が見えないように護衛していました。天皇が出家される直前道兼は、父親に一目出家する前の姿を見せてやりたいので、と言って姿をくらませます。義懐達が天皇の所在を探し当てた時は、すでに天皇は僧形になっておられました。道兼は帰ってきません。だまされたと知った天皇は憤慨されますが、万事休すです。義懐達もいさぎよく出家します。兼家は警護の武士に、もし道兼が無理に出家させられそうになったら、武力を使ってもいいから道兼を連れ出せと、言い含められていました。
 
 これが花山事件の顛末です。天皇に同情する気にはほとんどなりません。また兼家を非難する気にもなりません。悲劇やら喜劇やら、権力闘争にはちがいありませんが、誰かが処刑されたり配流されるわけでもなく、いかにものんびりした日本的といいますか、王朝的といいますか、そういう状況を象徴する事件です。
 
 花山天皇が、今はすでに法皇なのですが、ヨシ子女御の菩提を弔って清浄な生活を送られたかと言えば、むしろ反対です。以後の法皇の生活はかなり享楽的であったようで次代の一条天皇の御代に、花山法皇への出費が削られています。
 
 花山天皇は愛情問題で、もう一度、政治に深刻な影響を与えられています。出家されて約10年後、政権は一条天皇の代に兼家から道隆に、そして道長へと推移します。道隆の長男伊周(これちか)と道長の争いの時、伊周の弟隆家と法皇の間で妙な恋争いが勃発します。藤原為光という人に二人の姉妹がいました。姉の方に花山法皇が、妹の方に隆家が通います。双方恋敵と誤認します。隆家はかなり乱暴なところがありますから、法皇の車と知って矢を射かけます。矢は法皇の警護の者を倒します。本来なら大逆罪です。一条天皇は激怒され、兄の伊周と隆家は配流されます。権力闘争に際しかかる軽率な行為をするのにはびっくりしますが、こうして摂関政治の実権は道長の方に傾きます。花山法皇はすでに政治的な存在ではありませんでしたが、結果として大きな影響を与えたことになります。いずれも天皇(法皇)の愛人問題に端を発し、結果は権力の推移の方向を決定しました。

 花山天皇の父冷泉天皇は精神病であられたようです。その血統のせいか、花山天皇にも軽滑なところはありました。紫式部の父、藤原為時は花山朝で式部丞・蔵人の地位につきます。式部丞は式部省の三等官でそう高い地位ではありませんが、人事担当の部局で、律令制が形骸化した当時にあっても稀な実質的ポジションでした。また人事担当ですから文書発給の機会が多く、漢学の素養を必要とします。ですから学者がこの地位につくことが多かったのです。菅原道真が有名です。為時はこの地位につけた事を終生誇りとします。さらに蔵人(くろうど)は天皇側近として秘事に預かります。人事担当の側近といえば実質的には相当な力を持ちます。為時の将来への期待は大きいものでした。しかし花山事件ですべては霧消します。逆に先代中枢にいた臣僚は疑われ遠ざけられます。為時は逼塞した生活を強いられます。この当時紫式部は16歳(推定)、今なら成人です。彼女はこの事件の顛末をリアルタイムで経験したはずです。源氏物語の執筆に影響を与えないはずがありません。

 花山天皇、968年生誕、1008年崩御、在位2年、享年40歳、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠)葬られておられます。
 
(同時代の世界の君主)

 花山天皇の同時代の世界の君主は誰でしょうか?天皇の在位(984-986)当時、イギリスには現在の意味での統一王国は存在しません。ウィリアム1世のノルマン征服によるイングランド統一は80年後です。10世紀後半はアングロ・サクソンとデーン人の間で抗争していました。アングロサクソンの諸王国は7-8世紀に7王国に整理されます。やがてデ-ン人(現在のデンマルク当たりに住むノルマン人)が侵攻してきます。9世紀後半には7王国のひとつであるウェセックス王国(イングランド南西部)にアルフレッド大王が現れデ-ン人をなんとか撃退します。こうしてイギリスは少しづつ統一へ向かいます。花山天皇の同時代にはアルフレッド王の4世代の子孫に当たるエゼルレッド2世がウェセックス王として統治していました。もっともデ-ン人の侵攻は続き、イギリスは征服と反撃の繰り返しの中にあり、戦禍は夥しいものでした。エゼルレッド2世の時デーン人との和議が一応成立したらしく、アングロ・サクソンのウェセックス王家とデ-ン人の王家の間で婚約が成立しています。

 フランスではカロリング王家の血統が絶え、加えてノルマン人の侵攻で国内はばらばらでした。この時セ-ヌ川のシテ島(ile-de-cite)に立てこもり住民を指揮してノルマン人を撃退したのがユ-グ・カペ-です。功績により彼は豪族や農民たちから王に推戴されます。ユ-グ・カペ-の即位は987年、以後この子孫は度々王朝名を変えつつ、1894年ルイ16世が処刑されるまで、存続します。

 ドイツでもカロリング王家の血統は断絶します。やはりノルマン人やマジャ-ル人を撃退して声望を得た、ザクセンの大豪族ハインリッヒ1世が10世紀前半にドイツ王の地位につき、彼の子供オット-1世が神聖ロ-マ皇帝として法王により加冠されます。花山天皇と同時代の皇帝(同時にドイツ王)は1世の子供であるオット-2世です。

 ロシアの最初の王国は土着のスラヴ人の中に侵入したノルマン人であるリュ-リクによりキエフ大公国として出現します。彼の3世代後の子孫ウラディミ-ル1世の時、この君主がキリスト教を国教として採用し、国の基礎を作ったと いわれています。彼ウラディミ-ル1世が天皇と同時代の君主です。

 イギリスとロシアには統一王国はなく、ドイツとフランスにはやっとそれができた、花山天皇の時代の欧州はそんな状況でした。

 中国は960年、五代の戦乱に終止符を打ち、宋王朝が成立します。創始者は趙匡胤、太祖です。この君主は中国の皇帝には珍しく、人を殺さない皇帝でした。自身は武人ですが、武断主義の弊害をよく認識していて、臣下が政治的発言で処刑されないようにという遺言を残します。この遺言はよく護られました。また同僚であった武将達には多くの財貨を与えて政権の中枢から遠ざけます。文治主義は弟の太宗趙匡義により受け継がれます。科挙制度が確立し、この試験に合格した文人が官僚として政治の実権を握ります。司馬光と王安石がその代表でしょう。こうして宋学・宋文を初めとして理知的な文化が栄えます。反面戦には弱く、いつも北方の騎馬民族の襲来に悩まされます。もっとも国が安定しているので、盛んな経済が生み出す財貨を騎馬民族に提供して、バランスを取っていました。今風に言えば国際間の所得移転です。私が中国史の中で一番落ち着いて見れるのがこの時代です。

 イスラム世界では繁栄を誇ったアッバ-ス朝のハルン・アル・ラシッド王の治世はすでに遠の昔になり、10世紀初頭、エジプトにファーティマ朝が成立します。946年ブアイフ朝がイランからバクダードに入り、カリフは形式的存在になります。そしてセルジュック朝が取って代わり、イスラム世界は混迷を深めてゆきます。