経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

法然と式子内親王---「後鳥羽天皇」補遺

2009-04-20 03:08:37 | Weblog
  法然と式子内親王

 後鳥羽上皇に縁のある人物としてこの両名をあげました。式子内親王と上皇との関係は順縁です。内親王は後白河法皇の皇女で上皇の叔母にあたります。のみならず二人は定家・家隆・慈円・西行などと並ぶ新古今和歌集の代表的歌人です。対して法然と上皇の仲は逆縁です。逆縁もいいところで、法然は上皇により宗教上の弾圧を蒙りました。そして上皇と順逆の縁に連なるこの御両名が深い関係にあるかも知れないのです。深い関係とは恋情です。かといって二人の間に何か実際的な関係があったわけではありません。言える事は式子内親王が法然の説教の座に連なったであろうということだけです。後に述べますが彼女の和歌は艶麗そのものです。

 法然は1133年、現在の岡山県久米町に生まれました。父親は武士・地方豪族です。9歳、父親は豪族同士の争いで殺されます。最期に望んで父親は法然に報復を戒めたと伝えられています。母親も前後して死去。法然は近くの寺に預けられますが、法然の利発さに驚いた僧が、彼を比叡山延暦寺に送り、勉強させます。(法然13歳)15歳で得度し、西塔黒谷の別所の指導者叡空のもとで念仏者としての修行をします。やがて奈良に遊学しそこで彼の理論的指南となる唐の善導の書に接します。ただし善導と法然の間には500年の時間差があります。やがて1175年東山大谷に入り、専修念仏を宣言します。1198年「選択本願念仏集」を著します。この本の出版は既成寺院の反発を呼び起こし、また弟子たちの不祥事も加わり、1207年法然は土佐へ流罪となります。周囲の嘆願もあったのでしょう、彼の年齢も考慮されて、実際は讃岐国まで行き、やがて赦免されます。1212年没、享年80。

 法然の思想の歴史的意義に簡単に触れておきましょう。かれは「専修念仏」を唱導しました。この思想は極めて過激な思想です。「専修念仏」とは、南無阿弥陀仏と唱えてさえいればいい、それで極楽に往生できる、信じるも信じないもない、ただ唱えるだけでいいのだ、という考えです。叡山・南都の法師たちが憤激するのも解ります。
法然はその論拠を唐の善導に全面的によります。しかし善導と法然を隔てるものは決定的に大きいのです。法然は信仰における主体性(回向心)を一刀両断に否定しました。これは数学で言えば「0・ゼロ」の発見です。世界史上このような論理を開拓したのは法然が初めてでしょう。同時にこれは鎌倉新仏教あるいは日本仏教の原点になります。凡俗な一般大衆も救済に預かれる可能性が初めて開発されたのですから。

 その意味で法然の宗教家としての意義は甚大です。彼の門下から親鸞が出て、より過激な「悪人正機論」を唱えます。また後年、日蓮は法然を非難し否定して「法華一乗」を唱えます。日蓮の法然批判は猛烈なのですが、この日蓮でさえも法然の影響を深刻に受けているのです。もし法然がいなかったら、親鸞はもちろん日蓮も出現していなかったでしょう。

 難しい理論はこのくらいにしましょう。別の面から法然を捉えれば、彼は当時(平安末から鎌倉初期、1200年前後の数十年間)の社会のピープルスヒ-ロ-でした。当時は動乱の時代でした。律令制が完全に崩壊して、新しい武家政権が生まれようとする時期、人の運命は不安定でした。このような時、法然の「専修念仏」は多くの人の心を捉えます。彼の説教の座に臨んだ有名人は多いのです。関白九条兼実、宜秋門院(後鳥羽上皇の女御、兼実の子女)、熊谷直実と平重衡、後白河法皇、そして式子内親王です。内親王には法然が丁重な書簡を送っています。(典拠、「法然」---吉川弘文館・人物叢書)室の津の遊女と法然との会話も有名です。直実は一の谷で平敦盛を討ち取り、人生の無常に目覚めます。重衡は東大寺大仏殿を焼き、後捉えられて南都の僧に斬られます。彼の後生を約束するのが法然です。そしてここに挙げた人達はなんらかの意味で日本史上での有名人です。彼らはそれぞれ自身の宣伝機関を持っています。平家物語とか玉葉とか新古今集とかの。浄土思想が敷衍したのは、その信仰の鋭利さ簡便さもありますが、発生の原点において法然がこのようなピ-プルスヒ-ロ-であったことも見逃せません。

 法然の生き方には武士出身らしいある種の逆説があります。彼は僧侶俗人を問わず、一切の戒律は信仰に不要と言い切りました。しかし彼自身は生涯不犯です。当時の僧侶にあっても不犯の戒律は護り難く、妻帯者も多かったのです。

 式子内親王は後白河法皇の第三皇女、母は藤原成子(高倉三位)、同母兄弟には高倉宮以仁王他がいます。1153年(推定)出生、6歳で加茂齋院となり16歳で退下、1201年没(推定)とされます。それ以外のことは解りません。平氏全盛の時代にあっては影の薄い皇女であったでしょう。この内親王の事を語るには彼女が作った和歌の鑑賞が一番です。歌人あるいは詩人はその作品で評価されます。いたずらによく解らない生活や内面に立ち入る必要はありますまい。
彼女の和歌を鑑賞する前に当時の内親王が置かれていた地位について一言。内親王は原則として独身を要求されました。と言いますのは内親王と結婚した臣下は血統において天皇家と同格になるからです。藤原北家が摂関家として台頭し、他の氏族に対して超越した地位を獲得できた一つの契機は、藤原良房が桓武天皇の子女潔姫(きよひめ)を配偶者として頂戴した事にもあります。ここから摂関家への道が始まりました。当時皇族の子女は原則として臣下との縁組を禁止されていました。平安中期以後ほとんどの内親王は独身でした。式子内親王も同様です。法然と式子内親王の間に恋があったとすれば、僧侶と内親王、ともに禁断の園に住む両者のかなわぬ恋になります。なお法然と内親王との関係に関しては、石丸晶子著「式子内親王伝-おもかげ人は法然」、を参考にして下さい。

 私なりに二人の関係の現実性に関して考えて見ます。傍証です。浄土教はその演出を情緒的に行います。その種の技法はこの宗派にあってはよく発達していました。法然の教団が弾圧されたきっかけは、彼の弟子である安楽達が後宮の中で六時礼賛をしていたからです。また当時の動乱期にあって貴族の多くも浄土教に救いを求めました。特に女性には人気がありました。なぜなら浄土教では特別に、救済は男女平等でありえたからです。ともかく易行ですから。それまでの教派ではどうしても女性の救済は不利でした。六時礼賛とはざっと以下のようなものと思ってください。阿弥陀如来の像を中心に、灯明を施し、各自花をもってゆっくりと弥陀像の周りを回ります。この間、南無阿弥陀仏とか、弥陀を称え往生を願う文句を一定のリズムと旋律をもって口唱します。実際そういう儀式に参加すればわかりますが、光と色彩と朗誦とゆるやかな運動などが作用し、集団催眠が効いて非常にエロティックな雰囲気がかもし出されます。美男・美声の若い僧侶が演出をし、聴衆が女性だったらどういうことになるかは想像がつきます。法然はそういう集団のボスでもあったのです。この教団の周辺には常にある種のエロティシズムがつきまとっていた、と考えても不合理ではないでしょう。
 
 手元にある新古今和歌集(岩波文庫)から内親王の歌を抜粋しました。だいたい記載できていると思いますが、漏れがあるかも知れません。彼女の和歌はすべて恋歌に聞こえます。事実「忍ぶ恋」を主題とする歌が多いのです。注釈は私なりのものです。

1 山ふかみ春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水 (春上 3)
 (春をまだ知らない深い山 紫の内に住む内親王の心の内でしょうか 松は「待つ」 息も絶えんばかりに崩れるような心情 もうだめとも聞こえます 玉は皇族の証 尊貴な冷たい雪もまさに解けようとしていると 紅と緑と白という配色も霊妙です 絶唱です)

2 ながめつる今日は昔になりぬとも 軒端の梅はわれを忘るな (春上 52)
3 はかなくて過ぎにしかたを数ふれば 花に物思う春ぞ経にける (春下 101)
 (過ぎる・経る、時間の経過は深層心理学的には恋情です)

4 八重にほふ軒端の桜うつろひぬ 風よりさきに問うふ人もがな (春下 137)
5 花は散りその色となくながむれば むなしき空にはるさめぞ降る (春下 149)
6 忘れめやあふひを草にひき結び かりねの野辺の露のあけぼの 〈夏182〉
7 声はして雲路にむせぶほととぎす 涙やそそぐ宵のむらさめ (夏 215)
 (ほととぎすは冥界を意味することが多いのです かなわぬ恋と見るべきでしょうか)

8 ゆふだちの雲もとまらぬ夏に日の かたぶく山にひぐらしの声(夏268)
9 白露のなさけ置きけることの葉や ほのぼの見えし夕顔の花 (夏276)
 (この歌は源氏物語の夕顔巻を思わせます 内親王は夕顔?)

10 うたたねの朝けの袖にかはるなり ならすあふぎの秋の初風 (秋上 309)
  (秋の扇は捨てられた、従って用のない女の意味)

11 ながむればころもですずし ひさかたの天の河原の秋の夕ぐれ(秋上 311)
12 花薄まだ露ふかし穂に出でば ながめじとおもふ秋のさかりを (秋上 349)
13 それながら昔にもあらぬ秋風に いとどながめをしずのおだまき (秋上 368)
14 ながめわびぬ秋より外の宿もがな 野にも山にも月やすむらむ (秋上 380)
15 秋の色はまがきにうとくなりゆけど 手枕馴るるねやの月かげ(秋上 431)
16 跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ 露のそこなる松虫のこえ (秋上 474)
  (松虫は「待つ人」の意)

17 千たびうつ砧のおとに夢さめて 物おもふ袖の露ぞくだくる〈秋下 484〉
18 ふけにけり山の端ちかく月さえて とをちの里に衣打つこえ (秋下 485)
19 桐の葉もふみ分けがたくなりにけり 必ず人を待つとならねど (秋下 534)
20 見るままに冬は来にけり鴨のいる 入江のみぎは薄氷りつつ (冬 638)
21 日数ふる雪げにまさる炭かまの けぶりもさびしおほはらの里 (冬 690)
22 行末は今いく夜とかいわしろの 岡のかや根にまくら結ばむ (き旅 947)
  (万葉集所収の有馬皇子の歌を踏まえているのなら死を暗示する歌です)

23 松が根のをじまが磯のさ夜枕 いたくな濡れそあまの袖かは (き旅 948)
  (この歌、少し淫らな感じもします) 

24 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする (恋 1034)
  (百人一種に乗っている歌 玉の緒は自らの存在 「絶える」は「耐える」と読んでも宜しい 最終5字の「ぞ」は強調、耐える恋の強調です 1の歌とほぼ同意です)

25 忘れてはうち歎かるるゆふべかな われのみ知りて過ぐる月日を (恋 1035)
   (「過ぎる)は時間の経過、恋情の変容形 3の歌と同意」

26 わが恋は知る人もなしせく床の なみだもらすな黄楊の小まくら (恋 1036)
27 しるべせよ跡なきなみに漕ぐ舟の 行方も知らぬ八重のしほ風 (恋 1074) 
   (万葉集所収の沙弥満誓の歌を思わせます)

28 逢ふことを今日まつが枝の手向草 いく世しをるる袖とかは知る (恋 1153)
29 君待つと閨へも入らぬまきの戸に いたくな更けそ山の端の月 (恋 1204)
30 今はただ心の外に聞くものを 知らずがほなる萩のうはかぜ (恋 1309)
31 はかなくぞ知らぬ命を歎きこし わがかね言のかかりける世に (恋 1391)
32 ほととぎすそのかみ山の旅枕 ほのかたらひし空ぞわすれぬ (恋 1484)
 (ほととぎすは冥界の存在あるいは同性愛の対象の比喩として用いられることが多いよ
うです 禁じられた恋と読みましょう 「ほのかたらいし」が独特の陰影を与えます)

33 斧の柄の朽ちし昔は遠けれど ありしにもあらぬ世をもふるかな (恋1670)
34 暁のゆふつげ鳥ぞあはれなる 長きねぶりを思ふまくらに (恋 1810)