田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

蠣崎波響とは? ~「ほっかいどう学」レポート №2

2009-11-05 20:13:12 | 札幌学 & ほっかいどう学
 ※ 昨日260人の訪問があって安堵(?)していたら、今日は184人と急降下です。しかたありませんね。体験レポが伝えられないのですから…。今回もまた写真なしの地味レポです。お付き合いください。
 
  蠣崎波響(かきざき はきょう)いう名を初めて聞いた。
  江戸時代に日本の絵画史上にその名を刻むほどの業績を残した蠣崎波響であったが、江戸から遠い松前にあったために中央からは注目されず、その名が埋もれていたようである。

 第2回の道民カレッジ「ほっかいどう学」~放送大学講座~は、「江戸のリアリズム~蠣崎波響とその時代~」をテーマとしたものでした。
 松前藩家老であった蠣崎波響は藩政よりは画家としてその名を残した人です。
 今回の放送を通じて新たな知識を一つ加えることができました。
 それでは道民カレッジ事務局に届けるレポートを…。

※ 放送内容に興味のある方はこちらを()クリックください。

「江戸のリアリズム~蠣崎波響とその時代~」感想レポート

 浅学な私にとって画家「蠣崎波響」という名は恥ずかしながら初めて聞く名であった。今回の放送を視聴して、その偉大さに触れ、少しく蠣崎について調べ、多少は理解することができたと思っている。
 松前藩家老でもあった蠣崎の絵が世に認められたのは、まるでそこにアイヌ人がいるかのように臨場感たっぷりに描かれた「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)である。
 放送で紹介された「夷酋列像」は美しく彩色され、細部までこだわって描かれていて、その緻密な描写には驚かされる。この「夷酋列像」については政治的な意図も絡み、さまざまな評価がされているようであるが、純粋な絵画として見たときにそのレベルの高さを思い知らされる。
 実は蠣崎はこうした技法を松前から江戸に出て学んでいる。それも1773年~1783年までと10年間に及んでいる。蠣崎が10~20才にかけてである。当時においても上流社会においては、子弟を中央に留学させて学ばせるということが当たり前に行われていたということであろうか?