三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 2

2024年04月16日 | 海南島近現代史研究会
 3月31日早朝、海口を車で出発し、高速道路を南に向かい、定安県・瓊海市を通過し、11時過ぎに万寧市万寧鎮に着いた。
 新型冠状病毒肺炎流行のため、海南島近現代史研究会が海南島に行くのは訪ねるのは5年3か月ぶりだった。
 初めに蔡徳佳さんの家を訪ねた。蔡徳佳さんは、2年前に亡くなられていた。
 わたしが、初めて蔡徳佳さんに会ったのは、2002年4月5日だった。その後、わたしが蔡徳佳さんに10数回話を聞かせてもらってきた。
 初めにあった日に、万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行資料専輯)』(『万寧文史』第五輯、1995年7月)をいただいた。その書には、蔡徳佳・林国齋「日軍占領万寧始末——制造“四大屠殺惨案紀実”」、楊広炳・陳業秀・陳亮儒・劉運錦「月塘村“三・廿一”惨案」が掲載されていた。
 3月31日午後1時過ぎに、月塘村の朱振華さんの息子さんを訪ねると、朱振華さんは2年前に脳の病気で入院し、いまはほとんど記憶を失っていると話した。
 わたしが初めて朱振華さんに出会ったのは、2007年5月24日だった。
 朱振華さんは、1980年代末から、月塘村虐殺の犠牲者の「調査」をはじめ、犠牲者と幸存者全員の名簿をつくった。虐殺三年後の1948年に月塘村で生まれた朱振華さんは、成人後、獣医をしながら、村の家を一軒一軒、なんども訪ねて聞きとりをし、月塘村虐殺の実態を知ろうとしていた。
 月塘村の追悼碑(三・廿一惨案紀念碑)は、2008年農暦3月21日(4月26日)に除幕された。
 追悼碑の建設は、朱振華さんと朱学基さんが中心になってすすめた。
 1945年5月2日明け方、日本軍は、北方の万寧市のほうから、月塘の西側の道を通って、村に入ってきた。その道は、いまでも残っている。
 月塘のすぐ近くの朱光清さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったという。その家のあった場所で、朱光清さん(一九三四年生)は、
   「とつぜん家にはいってきた日本兵に、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
   手でおさえて逃げるとき、右足を切りつけられた。血がいつまでも止まらなかった。
   門のそばで母が殺された。四三歳だった」。
と、ときどき遠い所を見つめるようにして、低い静かな口調で話してくれた。
 朱光清さんは、傷跡をみせてくれた。腹部の傷跡が深く残っており、右足首上部の傷が細長く残っていた。
 2024年3月31日に朱光清さんの家を訪ねた。妻の黄玉金さんが、朱光清さんは家のなかで転んで骨折し、1か月ほど寝込んで農歴2023年2月10日に89歳で亡くなった、と語った。

 月塘村を離れ、高速道路を南西に進み、陵水黎族自治県英州鎮にいった。

                                 佐藤正人
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