三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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2024年春の海南島「現地調査」報告 14

2024年05月21日 | 海南島近現代史研究会
 2024年4月12日朝8時、海口の旅館を出発して、海口市石山鎮玉榮村に行った。
 出会った村人の呉淑河さん(1950年生)に“迷人洞”に案内してもらい、話を聞かせてもらった。“迷人洞”は火山岩の割れ目にできた迷路のような細長い洞窟群で、1939年2月10日に日本陸海海軍が12キロ足らず離れた北方の天尾村海岸奇襲上陸したあとまもなく石山鎮に侵入してきたとき、村人たちは洞窟に逃げ込み、追跡してきた日本兵に抵抗しぬき、日本兵を撤退させたという。
 呉淑河さんの家のそばの崖下に“迷人洞”の入り口のひとつがあり、子どものとき長い洞窟の奥まで入って遊んだという。その洞窟の入り口はいまは大きな樹と密集した草に覆われていて見えなかった。 
 その近くに住む呉鐘齋さん(1972年3月生)の家のそばの崖下に別の洞窟の入り口があるというので、案内してもらった。2メートルほどの崖を降りてから崖沿いに20メートルほど進んでいくと洞窟の入り口があった。草や灌木に覆われた道を呉鐘齋さんが大鉈で切り開いてくれた。洞窟の入り口は狭く、わたしには入れなかった。奥を覗くと下方に深く降っていく道が見えた。
 『海南日報』2013年7月5日号に「“迷人洞”里的抗日槍声」と題する記事が掲載されている。

 玉榮村から、天尾村に向かった。 
 2003年3月31日に、わたしたちは、はじめて海南島侵略日本軍が最初に上陸した地点である天尾村に行った。天尾海岸には、対岸の広東省雷州半島の徐聞との間の列車を載せたフェリーが発着する新しい大きな埠頭がつくられていた。3月2日に、海南島三亜と広東省広州との間の粤海鉄道の正式運行が始まったばかりだった。天尾村の住所は、海口市秀英区新海村に変わっていた。
 新海港埠頭から東に1キロほど、海岸線から百数十メートルほど離れたところに、天尾村の旧街区があった。そこで、わたしたちは、当時のことを知っている人たちから話を聞かせていただいた。
 旧街区の入り口の小さな広場に座り込んでいた女性(名前を聞きとれなかった。文字は書けないという)は、
   「日本軍が来た時32歳。このあたりで物を売っていた。今は94歳。去年までならまだしっかり話せただろう。
    子どもをおなかに抱えていたとき、日本軍が来た。とても恐ろしい思いをした。魚を天秤棒で担いでいたのだが、
   日本軍が敬礼をしろと言って、できなかった。そうしたら、ひざまづかされて、おなかを棒で殴られた」
と話した。そのそばで、王乃深さん(1911年生)は、
   「日本軍が来たとき、山の中に逃げ込んだ。日本軍は敬礼をしないと殴った。日本軍は天尾村の人たちに
   娘を出せと言った。娘たちにひどいことをした」
と話した。
 林克良さん(1918年生)は、旧天尾村の自宅で、つぎのように話した。
   「日本軍が上陸する前、2~3日に1回、飛行機が海面すれすれに飛んでいた。船もきて、測量していた。天尾
   の海は浅いから、上陸地点を探していたのだろう。日本軍が上陸してくると、みんな山の中に逃げ込んだ。
   馬も一緒に来た。国民党軍が30~40人ほどいたが、日本軍が来ると逃げてしまった。
    日本軍は、子どもも年よりも殺した。わたしは、父が殺されるところを見た。後ろから3発撃たれた(左肩あたりを指す)。父は牛を飼っていた。村びとがたくさん死んだ。日本軍は女性を強姦した」。
 1939年2月9日(農暦1938年12月21日)夜9時過ぎ、天尾沖に、日本軍の艦船が侵入し、10日未明から、日本陸軍部隊が、天尾海岸に上陸し始めた。
 明るくなってから、村びとが海を見ると、日本の軍艦47隻が沖に停泊し、数えきれないほどの上陸用艇が海岸と沖合いの軍艦の間を往復していたという。はじめ兵士が上陸し、つづいて武器、弾薬、馬、食料が陸揚げされた。
 1月13日に、天皇ヒロヒト、総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣らは、海南島侵略を最終決定し、1月17日に、大本営陸軍部と海軍部は、「二月上中旬ノ頃」に海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいた。日本陸海軍合同の海南島奇襲攻撃は、1月13日のヒロヒトの「裁可」を前提にして計画的に実行された。
 2003年1月7日に海南島と対岸の雷州半島をむすぶ「粤海鉄道輪渡」の 連絡船 が運航を開始してから、天尾村に人家は無くなっていった。天尾村という地名も無くなり、天尾村のあったところに新海港埠頭ができていた。

 2024年4月12日午後、新海から海南省図書館に行った。この日は金曜日なので午後は休館で入館できなかった。
 すぐ近くに海南省史志館という名の大きな建物ができていた(2020年4月末開館。地上3階、地下1階。建築総面積9160平方メートル)。「史志館」というが海南島史にかんする史資料は、ほとんど入館者に公開されていない。地下 1階の「資料庫」で係員に海南島近現代史にかかわる基礎文献の何冊か閲覧を申し込んだが半時間後に“検索しても資料庫には見つからない”と言った。
 海南省図書館の地方文献室には海南島近現代史にかかわる多くの史資料が公開されている。これまで、わたしは海南省図書館20数回かよったが、海南省史志館を再訪することはしばらくはないだろう。

 午後4時に南沙路 の新華書店に行って、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『澄邁県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『儋州市革命老区発展史』(海南出版社、2020年4月発行)、『昌江黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『東方市革命老区発展史』(海南出版社、2020年4月発行)、『三亞市革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『中国共産党海南歴史 第一巻(1921ー1950)』(中共出版社、2021年3月発行)、『陵水黎族自治県革命老区発展史』(海南出版社、2021年12月発行)、『崖州民歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『臨高哩哩美漁歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『黎族民歌教典選本』(南方出版社、2018年3月発行)、『瓊崖紅色故事 定安巻』(海南出版社、2019年11月発行)、周仁清『民国瓊崖報刊研究』(文化芸術出版社、2022年12月発行)などを購入した。
 夕刻、海口市内の旅館に戻った。

                                  佐藤正人
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