河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

1116- フランツ・ウェルザー=メスト クリーヴランド管弦楽団 めくれるような美しさのブルックナー7番2010.11.17

2010-11-19 15:53:16 | コンサート

 

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2010年11月17日(水) 7:00pm  サントリーホール

ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲

武満徹 夢窓

ブルックナー 交響曲第7番

フランツ・ウェルザー=メスト 指揮    クリーヴランド管弦楽団


この前聴いたミスターSのブルックナーとはまるっきり違う。
アプローチが違っているといった話ではなくて、美観、がまるで違ってた。美しすぎる演奏。
曲は第1楽章から始まりますけれど、第3楽章のスケルツォ冒頭、弦の回転に続きトランペットのソロが短くあるが、このピアニシモの品の良さ、滑らかさ、柔らかさ、これが、セル時代から続く圧倒的室内楽的美しさの一つの証左である。アメリカのビック5のなかで他とは全く異なる抑制の美学が綿々と生き続けている。
第1楽章と第2楽章は、それこそ、もう、ほぼ、室内楽状態。ブラスをほぼ一列に広げているのも室内楽的響きの追及と納得できる。弦楽四重奏のスタイルの相似的拡大の極限をみるようだ。その意味では指揮者ともども同じスタイルを指向していて美しさを求める方向感が一緒だ。
コントラバスが右に9挺並ぶが、強じんさよりも柔らかさ。全体の中にあって決してバランスを崩さない。
全体に、この第1,2楽章においてビック4とはあきらかに音量が1レベル控えめ。自分は今までなんとうるさい音を聴いてきたのだろうか。奏者は耳をそばだてて同一セクションの他の奏者の音を聴く。一緒になることにより、ひとつとなった音は他のセクションと真のアンサンブルが可能となった。室内楽的美しさの形成。
シカゴ響みたいにストリングがビーンとまるで強じんな馬のような音は決して出てこない。飽くまでも柔らかく、美しく、音そのものの美しさを求める。たとえ巨大オーケストラという楽器であっても。
セルが形式の美学を追求するために作った楽器が、結果、音楽の持つ第一義的な意味合いでの美の要素を持つに至った。まことに美しい響きが今の今でも光り輝く。

今日の演奏のタイミングはざっとこんな感じ。
Ⅰ:19分
Ⅱ:22分
Ⅲ:8分
Ⅳ:12分

ミスターSのそれよりも一回り早い。向きが違うので比べてもほとんど意味がないだろうね。


ダニエル・マジェスケも、焼鳥を一緒に食べたダイアン・マザーもこのステージにはもちろん、いない。そして音も変化した。しかし、フィラデルフィア管のようになにか地球のマグマの中心の一点に凝縮しようとするサウンドとは明らかに異なる、ニューヨーク・フィルのような拡散系の響きでもない、フラットで透徹したそれでいて決して分散することのない明瞭なクリーヴランドの抑制の響き。このオケは日本でアメリカで何度も聴いたが、セル後のマゼールは音を開放したと言われたものだが、むしろ柔らかになったのだ、といった印象が個人的には強い。ドホナーニは、あのラインゴールドのクリスタルなサウンドを作り上げた。いや、こちらが開放したのかもしれない。まるでヨーロッパの抑制された響きの開放、そのような素晴らしさのラインの黄金。
メストとクリーヴランドの組み合わせは年数こそ長くなったがどのくらいの頻度で振っているのだろうか。メストはウィーン国立歌劇場の音楽監督となり、顔もかなり気合が入ってきているとみた。しかしウィーンでの責務が増えれば、クリーヴランドでの回数は減ることはあっても増えることはないだろうね。このオーケストラはメストの作り出す音楽に違和感はなく、共感の棒で、しっかりついていっている。合うんだ。きっと。


それでメストは結局、形式感の出来上がった曲に対してはそれを焦点としていない。むしろいかに美しく響かせるか、美しさを求めるか、そのようなことに力点を置いているように見える。
とにかく音がよく流れる。第1楽章の第2主題を第1主題より早めにとり、いたるとろこにあるパウゼもなし。まるで第1,2,3主題が一個の連関した提示部的まとまりとしているかのような流し方だ。滑らかなチェンバー・ミュージックはあっという間に展開部に入る。静寂な音楽は音と音がつながりを失うことなく緊密に連携しながら彫を極度に深くすることはなく、むしろフラットな感じさえするのだが、日常、濃い大音響の爆演を聴いている耳には慣れるまで時間がかかるかもしれない、いや、本来の音を思い出してほしい。音楽の響きがクリーヴランドは一つの個体として昔から身についている。伝統とは個体の連続性。個体になれるオーケストラはそうは、ない。自分個人を殺して一つの個体が出来る。遠い昔にセルが作り上げた音楽が今もこうやって共鳴している。この第1楽章の展開部の静けさにはうたれた。静かであればこそしみいる。蝉の声と同じなわけです。
従って、再現部も流麗に美しく流れ、あっと言う間にこの楽章は最後の響きが地響きをたてることもなく昇天する。あっという間だ。

第2楽章においてもメストの求めるものは同じ。完全なものが既にあって、あとはどう響かせるかに注意を払う。飽くまでも隙間の無い、流れるような美しいサウンドは、パウゼ的禅問答が入り込む余地がない。
左奥にホルンとワーグナーチューバが並び、トロンボーンの横に日本人チューバが一個。この楽章が始まる前にチューバは歩き出し、ワーグナーチューバの後ろに移動。何気ないことかもしれないが、アンサンブル重視というより、室内楽的ひらめきといった方がより近いと思う。ひとつの個体としてのセクション群を指向している。
2個の主題が流れ、なだらかな丘陵となり最大音も爆発することなく、もとの丘陵に戻り、肩の力が完全に抜けたチューバ群がワーグナーを葬送する。あっさりしたものだが、室内楽的限界の長さとはこのようなものではないのだろうかとふと思わせてくれる。

第3楽章については冒頭に書いたとおり抑制のトランペットがこのオーケストラの特性をものの見事にあらわしている。
スケルツォ後半からようやく少し全開となったブラスセクションの響きはアメリカ的ぶっきらぼうになったりするが、これはこれで。
なんというか腰のおれない、芯が上方にしなったようなブラスの全開音は、やっぱりアメリカ的と言うしかない。歌の前に楽譜がある、そんな感じかな。
第4楽章もブラスは同じ傾向が続くが、メストの棒は提示部展開部再現部あまり見境なく流れていく。これはこれでいいが、もう少し深みが欲しいという人もいるに違いない。アメリカ的にはこれぐらいが中庸の節度かもしれない。
コーダはゆっくりめ。そのテンポで締めくくる。息の長さと、弦の上に展開するウィンドの美しさは慎ましやかでさえある。


前半一曲目の牧神ですが、意識して縦の線をぼかしているように思えました。柔らかさを前面に出し、また、ピアノ(弱音)にも奥行き感があり、比較的明るいサウンドも相まって、滴り落ちるしずくのような響きが印象的。
武満の曲は、滴ではなく広がる波紋のような印象だが、例によってよくわからないのでスキップ。個人的には武満ではなく、もう一曲ドビュッシーをやってもらいたかった。遊戯、とか。

ということで若干空席がありましたけれど、見事なブルックナーにうたれた一夜となりました。
アンコールはありませんでした。
おわり