河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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1106- 春の祭典 巨人 メインディッシュ2皿 ズービン・メータ イスラエル・フィル2010.11.06

2010-11-08 20:59:07 | インポート

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2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月6日(土)7:00pm
東京文化会館
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ストラヴィンスキー 春の祭典
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マーラー 交響曲第1番
     (*花の章付き)
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(アンコール)
ヨハン・シュトラウスⅡ ウィーン気質
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ズービン・メータ指揮
イスラエル・フィルハーモニー
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久しぶりに多彩な客が一階の招待席あたりを占めているのを見た。極上なシングルモルトの上澄みだけちょっと口にしてあとは蹴散らすような人種は、このような国外来日トップオケしか聴かないし、社交的な色彩が強く、このなかにフリークはいない。でも点と点だけ結んで極上オケしか聴いていなくても、輪郭はわかる。点と点の間にはたくさんの普通のオケがひしめき合っていることを。
この人種はどうゆう場合でもエンジョイの仕方、エンタメの作法を心得ていて、これはこれで一方の文化水準をそれなりに引きあげてはいる。
一方、俗が、どのような場合でも小汚い破れたジーパンで来ていいというわけではない。超一流のプロフェッショナルなものに接することにより、際限無い上を確かめることも自己研さんの一つ。心身ともにただして聴くのもたまにはいいもんだ。このイスラエル・フィルに続き、ウィーン・フィル、クリーヴランド管、コンセルトヘボウ、等々やってくるので、これを点で追っかけるのもたまにはいいかも。最近国内オケばかり聴いていて、別に悪くありませんけど、やっぱり一枚上の極上品を飲んでみたい。そんな感じ。
ただ去年今年は来日オーケストラの数がさっぱりです。(一流どころ)
ちょっと前のサントリーホールはすごかった時期がありました。3年前2007年の11月です。

見よ。11月のサントリーホール

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このときは来日ラッシュしすぎ。東京のそれも赤坂のサントリーホールでやらなければ話にならんということもないと思いますが、ウィスキーも極上品が集まっているバーは限られる。資金、企画、利便性、融通性、立地条件、ビフォアとアフターのエンタメ、などなどシステマティックに用意されつくしているのがここなんでしょう。極上品とそれを求める人たちによるシナジー効果抜群なところなんだね。
よく、
国内のオケを聴いた後で、外国のオケと比べても遜色ないし、むしろいいのではないか、といった話を耳目しますが、たしかに来日オケのうち最近やたらと多い、二流三流に比べたら日本の在東のオケの方が全然いいです。でもこれって何を言いたいのかわかりません。自分が聴いたものは全ていい、そんな感じの感想ということであれば、ちょっと耳も怪しい。二流三流の来日オケばかり聴いているとこのような感想もあながち間違いではないんですけど、何事も自己研さんするには一段上のプロフェッショナルをたまには覗いてみましょう。自分を高める為にはお金がかかりますけど、自分の将来への投資と思って、終わりかかっている人は純粋極上エンタメのエンジョイとして、それぞれいろいろと楽しみ方味わい方があるはずです。
それと、この現象、オペラ公演でもまるっきり同じです。
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この日は昼夜、はしごしました。昼はメッツマッハーの振るマーラーの6番。最近の生ではアシュケナージの方が一枚上手でしょう。オーケストラも含めて。
それで夜は、ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルによるメインディッシュが二皿です。
両方ともに通常はプログラム後半に置いてある曲です。同オケは今回の来日でバレエ共演をしており、特に11/3にはハルサイをモーリス・ベジャール・バレエ団と共演。その流れがあるとはいえ、大胆なプログラムであることに変わりはありません。
メータは両手に持った長刀を振り下ろすのではなく斜めに横にシュインシュインと漕ぐように振る。この大ぶりは昔から変わりません。昔、メータ&ニューヨーク・フィルの組み合わせはたぶん100回は聴いていると思いますが、グレリーダーは聴いたことがあれど、ハルサイは初めて。メータはNypのミュージック・ディレクターを長く振っており、最近の日本のオケように、1シーズンに数回しか振らない音楽監督とは異なり相当回数をこなしておりました。それだけ人気指揮者でしたし、その名称に足る実力指揮者。プログラムの解説にはメータ&Nypの組み合わせは1000回ぐらいと書いてました。そのうちの100回は聴いている。今回のように別のオケやオペラなどを含めるともっと多いかな。
ついでにリンカンセンターのエイヴリー横のメトではレヴァインさんだけでも50回ぐらい聴いていると思います。たぶん。
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それで、メータも七十四五才になります。この御歳でハルサイを譜面なしで猛然と振り、後半ではマーラーを振るんですから、指揮者界の寿命は昔から長いとはいえ、ますますその感を強めるだけですね。いくら力の抜きようやさじ加減を分かっているとはいえそうたやすいことではないでしょう。手兵のイスラエル・フィルだからこそというのはあるかもしれませんけど。
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ハルサイは、言葉の真の意味で適当に始まります。棒的アクションのない原始的アンサンブルの発端のようなところから徐々に高まりを魅せていきます。指揮者無しの原始時代から絶対必要性のあたりまでの振幅の大きな音楽を包括しているこの曲を見事に表現してくれました。ビートを聴かせた破天荒音楽は100年ののちもこうやって説得力あるものですが、かといってクラブでたやすく踊れるような代物でもない。譜面を全部理解していないと踊れません。逆にこんな感じの方が最近の子たちには刺激的な部分もあるかもしれません。何度聴いてもクレイジーな曲ではあります。みなさんハルサイを。
イスラエル・フィルと言えばその昔は、世界一きれいなストリング・サウンドで定評がありました。今回もそれまでの印象は思い浮かべることはできます。極上ウィスキーの上澄み部分しかないと思ってください。中が真空で表面張力したあたりだけです。この極上部分しか飲めない。ほかは真空ですから。
ちょっと例えも膨らんでしまいましたが、美しいサウンドです。個々人の技術的能力の高さ、演奏会での本気度、オーケストラを個体にできるアンサンブル能力。この3点が見事に一体化。ルーチンワークのレベルがたぶん全然そこらへんのオケとは違うんでしょう。
ハルサイにおける弦の美しさ、暴力的な符が多いがそのような音まで含めて神経の無いような細かいところまで表現しつくしている。常日頃の練習とハイスキル集団であることの証明。
ところでこのイスラエル・フィルの弦の美しさ、泣き節には昔やられました。最初に印象にあって今でもこれ以上ないと思っているのがこれ。

泣きのバーンスタイン

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今日の演奏では弦の美しさと、それに加えてブラスの響きが一段と磨かれてきていると感じました。ホルン以下踏み外せませんから、技術レベルの高さは言うに及ばず、音色の綺麗さというものに一層踏み込んできているような気がしました。現代の流れに沿っていると言えそうです。なんだか全部美しいものを聴いている。おいしいものだけ飲んでいる。そんな感じ。曲が粗野にできているので、それ以上汚さなくていい。譜面を美しく演奏すれば粗野な音楽がそのように表現される。不協和音の音圧バランスは困難を伴うと思います。聴衆も耳を鍛える必要がありますね。
ティンパニとバスドラの大音響は、下手をするとそれしか聴こえてこない、みたいな音響になりかねませんが、力の抜き加減とブラスの強奏、深く弾く弦、などとのアンサンブル的出し入れが絶妙でした。ほかの楽器を聴きながら演奏している。やっぱり能力高いな。
生贄のびくつき感が現代風にスタイリッシュに(変な表現だ?)描かれている様は、これはこれで圧巻。メータの棒さばき見事でした。
かくして破天荒な曲に身を委ねられる。ハッピーなときを過ごしました。
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ここまでで割と満腹感あり。
後半はマーラーの第1番です。この曲は構造的にはスカスカです。ただ、花の章が演奏されるのを知らなくて、連れには全部で4楽章あるよなどとほざいてしまいました。あとでおこられました。花の章が奏でられたとき一瞬判断がつかなくて目がまわりましたので予期せぬ出来事に弱いのかも。
それで、この曲は構造ではなく、多彩でデリケートで若々しくも妖しく彩られた過去の青春を思い浮かべる、そのような色彩とグッド・リメンブランスをイメージして聴いてみましょう。曲を聴いて何かを思い浮かべる、そのような曲です。花の章を挿入したことにより曲感はぐっと2番以降に近くなります。
美しいストリングの響き、それと相似形になっているブラスセクションの比較的明るい色彩感。弦の歌の艶やかさは日本のオケでこのレベルまでは到達しているところはありません。方向が違うとか言ったレベルではなくスキルレベルの話。身と耳を座席に浸しながら聴く真の美しさ、最高ですね。
ただ、マーラーのやにっこさ、フレーズを決めて一端デクレシェンドしクレシェンドするようなやにっこさは見られません。指揮者にもよりますが、昔のイスラエル・フィルではチャイコフスキーなどでもそのような泣き節が聴かれました。今の時代、そのようなものを廃しているというよりみんなそのようなアクセントを忘れてしまっている、または知らない、そんなところでしょう。文化の平板化は、世代の忘却も伴うんだろうね。全部インターナショナルになってしまったらつまるところ技術の争いになってしまい、違いはただ単に、この種の技はAオケが得意だけど、別の技はBオケの方が得意だ、そんなレベルの話になっちまうんだろうね。そのうち。
来日トップオケは今のところ、技量では日本のオケの上をいってますので来日の意義、聴きに行く意義は大いにあると言えます。
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それで第1楽章ですがここではやっぱり立体感がポイント。冒頭のうちふるえるようなフラジョレットから刻んだ音型が大胆なエンディングまでデリカシーの塊。一面、血管が透けて見えるような神経質極まりない曲かもしれず。
昔アナログディスクで初めてこの曲を聴いた時のような新鮮な気持ちで音楽に集中出来ました。淡くも美しい第一楽章です。祖国を持たないマーラーへのイスラエル人の共感なんていうとあまりにも陳腐ですけれど、絶対に手抜きはしないということが最初から染み込んでいるし、そんなことは思ったこともないんだろう。日本のオケもこのくらい真剣にやってほしい。音楽への大人の対面だよ。
オケはあまりうまくなかったけどブルーノ・ワルターの指揮したコロンビア響の同曲の演奏。あれも身をゆだねて聴くことが出来た。何故か出てくるマイナスイオン。精神の安定を呼び起こす演奏というのはいいものです。あれにくらべたら今のイスラエル・フィルはベラボーなうまさなんですが、双方同じような、身をゆだねるマイナスイオン感覚、感じました。
ゴージャスとはちょっと違うけれど光り輝くサウンドが美しい第1楽章でした。
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次の第2楽章、スケルツォの身構えでいたら花の章が奏されました。1000円のプログラムのおもてうらどこにもそのようなことを大っぴらに書いているわけではなかったようですし、そもそもプログラムって買いますけど、記念買い。ほとんどめくりません。メンバー表のチェックをするぐらいです。これからはこんな変な癖を改め、しっかりと読破するように努めたいと思います。
そんなわけで花の章が演奏されただけでなんだか得した気分。前後しますがアンコールでかなり得した感じがあったのですがそれと似ている。
弦とそれに続くミュート付きのトランペットで弱くなぞられるいい節。降下音形で恋の空しさが最初から見えていたのかしら。でもこのトランペットのニュアンスはどことなく2番以降のイメージを強く想起させるところもある。その前に、この第1番の第1楽章で舞台裏から既に細かい波形がトランペットで吹かれてますね。曲想ではなく音色で思いだされるマーラーの曲のつながり。やっぱり我々はマーラーを既に聴きすぎているのかもしれない。
とにかく、この下降するメロディーは儚くも魅力的。この第1番はやっぱりいつまでも終わってほしくないと思う方にはお勧めの挿入となった。
イスラエル・フィルの弦はピアニシモでも限りなく美しいですな。
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第3楽章スケルツォはこれまたスカスカの形式なんですが、メータによるとあまり狂った感じまでもっていくことはない。スケルツォ最終部分であまり駆り立てない。この楽章が折り返しであるといった主張があるのかどうか知らないが、折り返し点としての安定感みたいなものがある。
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第4楽章はなんだか望郷の念にかられるところもある節回しがあるが、セレクトした奏者による室内楽的な弦のメロディーラインは美しいですね。メータはこうゆうところはあまり浸らない。綿々としすぎることはない。昔から。
この日の演奏ではむしろ少しずつアップテンポにもっていき、結尾で大きなタメを作り、呼吸を整えて第5楽章に突入。この第5楽章も構造はシンプルで2度大きな波が来て終わるだけです。ですので、やっぱり響きの多様性に集中すべきでしょう。目をみはるのは右から左まで中央に並んだホルンセクションなんですが、トップの安定感がすごい。グリッサンドも決してはずさない。見本を見せればみんな真似できる。トランペットとトロンボーンが右奥に並び、その前にホルンが居座るかたち、なんだか懐かし。メータ&ニューヨーク・フィル時代はいつもああだったな。
むき出しのブラスセクションはなにか一本の線でつながっているようでもあり、アンサンブル能力の高さが歴然としている。
よく、
音大生あがりとかが、トップオケのブラスを指して、あのチューバたいしたことなかった、みたいな話をするのを聞くことがあるが、じゃぁあすこに座ってかわってマーラーのソロ部分吹いてみろ。といいたくなるがそういう意味じゃなくて、君たち、なにを聴きに来たのか、と問いたいだけですよ。私は。
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それでこのフィナーレ楽章は自然に高揚するように出来ているのですが、この日の演奏で注目すべきは2回にわたる弦の歌ですね。圧倒的な歌です。途中からホルンとブラスが追奏してきますけれど、全楽器で臆面もなく歌われ尽くされる圧倒的な青春の抒情詩。浸るだけです。
荒れ狂うコーダは疾風怒濤です。そしてここでマーラー&イスラエル・フィル的やにっこさが全開となります。いいですね。このデクレシェンドクレシェンドの執拗なやにっこさ。音が遠い彼方に去ったり近づいてきたり。やっぱりDNAは残っていた。
綺羅星のようなオーケストラのクリスタル・サウンド。すぐに音がつぶれてしまう日本のオケとは相当な開きがある。腰がブインと立って、透明に持ち上げられるようなあのような響きのオーケストラになるには、まだ少しかかる。
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この終楽章の終わり方なんですけど、なんで、ジャ、ジャ、と短く終わってしまうんでしょうね。マーラーの交響曲で言うとこの曲だけなんです。つんのめってしまったような奇妙な終わりかた。
確かにコーダの曲想的には今となってみればこれがベストマッチのような気がしますが、なんだかあっけにとられてしまうようなエンディングですね。第1楽章の冒頭のかっこう音形で終わりをむかえたかったのでしょうか。
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ということでメインディッシュ二皿でお腹がいっぱいになりました。銀座で早く日本料理を食べようと予約していたので帰ろうとしたら、忘れてました。アンコールがあるのを。
日本の聴衆はお開きになっても立ちません。座ったままブラボーコール、拍手の山。これがアンコールのリクエストのように映るらしいですね。立って讃えるマナーがありませんのでしょうがない。
お腹いっぱいのところ、ウィンナ・ワルツといってもかなりへヴィーな、ウィーン気質。
確かに花の章に続くお得感はありました。なんでこの曲がアンコールなんだろうというのはありますが、爆な曲二皿のあと、じゃなにをやれば皆さん気が済むの?みたいなところもあり、受け入れるが勝ち。
この曲の序奏部分で奏されるトップ弦による絶妙なアンサンブル。美しかったですね。アンコールにあれだけ耳を奪われてしまうのも久しぶり。味わい深い曲です。たぶんメータの好物なんでしょう。ここは一緒になって食べて、目がまわるほど酔いつぶれましょうか。
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おわり

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1105- マーラー 交響曲第6番悲劇的 インゴ・メッツマッハー 新日フィル2010.11.06

2010-11-08 00:21:54 | インポート


2010-2011シーズン聴いたコンサート観たオペラはこちらから
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2010年11月6日(土)2:00pm
すみだトリフォニー
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マーラー 交響曲第6番悲劇的
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インゴ・メッツマッハー指揮
新日本フィルハーモニー交響楽団
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アシュケナージの爆演と方針が同じかどうかということはあるけれど、もっともっと追い込める余地はありそうだ。

この日のタイミングはこんな感じ。
Ⅰ:23分(提示部繰り返しあり)
Ⅱ:13分(スケルツォ)
Ⅲ:16分
Ⅳ:30分
メッツマッハーは11/2の日もそうだったが割と譜面を見ながら振る。いいとか悪いとかという話ではない。昔クレンペラーはどんな場合でも譜面を見ながら振っていたようだし、だからどうのこうのというつもりはない。メッツマッハーはいい指揮者に変わりはない。音楽を生成している感じがする指揮者であることには変わりはない。第一楽章提示部をリピートしているが、リピート時は譜を戻すこともなく振っているので一種保険のようなものなのかもしれない。
ここのリピートに関しては、第一楽章だけでモーツァルトのシンフォニー1曲分ほどの長さがあるので、約5分の提示部の繰り返しは相対的なバランスを考えると妥当なのだろう。昔はリピートしない演奏が普通だったような気がするのだが。
第一楽章は冒頭から最後までヒステリックな音楽的絶叫が絶え間なく続く。これほど絶叫が説得力を持つ音楽はほかに知らない。着ぶくれ以上に身にまとったものが過多で究極の行き過ぎ感があるのだが、なにせソナタ形式を踏襲しているため、締め付けられた説得力も普通ではない。ジョージ・セルが正規盤で残したくなる6番ではある。シェーンベルクは新たな音楽語法を見つけ出したのに、形式は以前どおり。打破すべきものではなかったのかもしれない。形式の意味はもっと別のところにあるのかもしれない。
とにかく、6番はそのような曲だ。メッツマッハーがなぎ倒す第一楽章はいかにも着ぶくれ状態の曲なんだ、この6番は。と言いたげな演奏だ。
線をくっきり出していくので縁どりが明瞭、かといって分解されている感じでもない。太いラインが堂々と出てくる。物々しさもある。メッツマッハーがこの曲を得意にしているのかどうかはわからないがそんなに回数はこなしていないのでは?
分解能力はオーケストラの水準にも左右される。悪い意味ではなく、このオーケストラの表現を考えるとこのような肉厚な演奏表現でいくしかないというか、成り行き任せとは言わないが、オーケストラの特質をとらえた演奏でもある。たとえばホルンのソロトップの音は太い。それをベースにした音楽づくりということ。ヴァイオリンは第一と第二が若干バランス的に問題というか、異質的な部分があるような気がする。その上での音楽づくりということ。極度に肥大化されている音、あらゆる音が聴こえてくるというわけでもない。このオーケストラだけ頻繁に聴いている人がいれば、こうゆうもんだと思ってしまう。明らかにもっとスキニーに出来る個所が散見される。
今の時点でメッツマッハーのマーラーはこうだというものは見当たらなかった。ただ、ヒステリックな曲だという再認識は出来た。
第一楽章はエネルギッシュを通り越しヒステリックすぎるわけだが、形式感がそれをうまくくるんでいる。そして第二楽章なんですが、この日はスケルツォを置いてます。いわゆる通常の演奏なんですが、通常という意味、変かもしれません。第二楽章にスケルツォですから。
ベートーヴェンの第九のインパクトの比ではありませんけれど、破壊して再構築した作曲家の真似をしたことになるかもしれません。ただし、あまりにクレイジーな第一楽章のあとにアダージョが似合うかどうかというのは考える余地がありますし、息せき切った余韻をまともに受け止めるにはスケルツォが妥当な気もします。
この第二楽章に置かれたスケルツォですが、メッツマッハーの棒は(棒は持ってませんけど)、あまり滑らかではありません。マーラーがわざとゴツゴツしたワルツにしたかったのをうまく表現した?と言えるのかもしれませんが、この一部変拍子が絡む三拍子の音楽を滑らかに流れるように表現できていない。起伏を丘のように表現できて初めて、曲を知り尽くした、オーケストラをコントロールできた、ということになります。曲のゴツゴツさをうまく表現できたというのは適切な物言いではありませんね。
第三楽章第四楽章は全てアタッカではいります。
第二楽章のスケルツォが静かに終わりそのまま至福の第三楽章が始まる。これはこれでいいものです。第四番の第三楽章と双璧だと思います。調子っぱずれなホルンのメロディーラインのように、意識された調性の破壊のような個所も見受けられますが、総じて、浸ることのできる音楽です。第一楽章や第四楽章と対比も見事ですし、アンダンテ・モデラートとして、この交響曲の形式を踏まえながら浸れる唯一の楽章かな。
この第三楽章におけるメッツマッハーは浸れる音楽というよりも暗中模索といった感が強い。ここでも音楽の縁どりは見事で美しい音楽が気持ちよく響きます。ただ、音楽のせり上がり感というか、熱をもって濃くなる部分、微熱を帯びるようなところがない。アンサンブル重視、バランス重視はそれはそれでいいのですが、音楽の熱も欲しい。
それで静かに気持ちよく第三楽章を終えここもアタッカで第四楽章にはいります。第四楽章は序奏付きです。序奏だけで5分。30分の長さがありますので序奏も濃い。この第四楽章も音響的には爆だが形式感はシンプルです。
メッツマッハーは、2回のハンマーにそんなに思い入れや未練があるわけではなさそうで、どちらかというと、通過、といった感じ。割と淡々とこの繰り返し音楽は進んでいきます。
よく言うとオーケストラの肉厚感を生かした演奏。換言すると、もっと絞り込んで俊敏な演奏スタイルを模索。そんな感じの演奏でした。その昔は日本人には演奏不可能と言われたこともあるマーラーの6番ですけれど、今では聴きすぎで陳腐化してしまった?
第四楽章は三度の焦点がありますが、どれに合わせているのかもしくは合わせないようにしているのか、譜面を越えて来年戻ってきて答えを魅せてくれることでしょう。
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なおオーケストラに関しては、ブラスが一部、雰囲気で流してるところがある。スキルの均質化に問題ある。トラ多数による当公演だけの問題点かもしれない。
ストリングは非常に美しく、マーラーの紅い炎の核がめらめらと燃えているさまが良く表現できていた。
おわり
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