河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

PC版に一覧等リンクあり。
OCNから2014/12引越。タイトルや本文が途中で切れているものがあります。

742- レナード・バーンスタイン ウィーン・フィル カーネギーホール 1984.3.1 =3=

2009-01-03 00:10:00 | 音楽

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ちょととびとびになってますが、1983-1984シーズンの聴いたコンサートから書いてます。

今書いているのはバーンスタイン指揮ウィーン・フィルのアメリカ公演。

735-

736-

739-

の続きです。

198431()8:00pm

カーネギー・ホール

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モーツァルト/交響曲第40

マーラー/交響曲第4

 ソプラノ、アラン・ベルギウス

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レナード・バーンスタイン指揮

ウィーン・フィルハーモニカー

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これはまた光り輝くマーラー。本当にウィーン・フィルそのものの為に捧げられた曲である。ほとんど典雅とさえいえる。

まるで自分がその頃のウィーンにいるような、良いことも悪いことも全てなにか昔の思い出の中に吸い込まれるようであった。この静かでひたすら美しいマーラーの4番。まさにウィーン・フィルにふさわしい本当に本当に素晴らしい珠玉のような名演であった。

真珠が音となってこぼれおちるそのフォルム。クラシック音楽を好きな人なら一度は味わってみたい感覚に違いない。

そして、それに輪をかけて素晴らしいバーンスタインの指揮。昨日も感じたことなのだが、バーンスタインはいつからこんなにロマンティックな方向に傾斜し始めたのであろうか。実にロマンティックな演奏である。テンポがスローなところはほとんど一音ずつ味わいながら進みゆく雰囲気であり本当におそい。今までにレコードや実演をいろいろ聴いたが、

このようにおそいテンポは初めてである。ちなみにこの演奏時間はポーズも入れて約1時間5分であった。

彼の演奏は一見非常にロマンティックであるが、細部がぼやけずにはっきりとしているため、なにかクリアできっぱりとしたものも感じとれることができる。やはり現代に生きる演奏家だと思う。

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1楽章。

このマーラーの第4番の中で一番メロディックで一番好きな楽章なのだが、そのほれぼれとする美しさ。なぜにこうも美しいのか。それを表す言葉がない。弦のアンサンブルの美しさはほとんど信じがたい。そして時として木管のまるで生き物のようにうねる波。本当にこの第4番第1楽章にはしびれた。

バーンスタインの指揮は極度におそく細部をかみしめるようである。そして時としてあるマーラーの短い盛り上がりは、ほとんど即興とさえ思えるような急なテンポの変化を見せる。そしてこれらを統合したように唖然とするほど見事なコーダのまとめ方。

もしフルトヴェングラーがマーラーを指揮していたらこのようになっていたのではないか。

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2楽章。

これはスケルツォのイメージだと思うのだが、バーンスタインはここでも比較的スローなテンポで進む。この楽章にはなにかグロテスクなものを本来は感じるべきなのかもしれないが、そのようなものはまるで存在しなかったような気がする。半音、音が下がったヴァイオリンでさえソロとしてこのように美しく響くのです。

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3楽章。

二分音符や全音符のひたすらただのばすだけのような楽譜から音楽が全く美しく響くその姿はベートーヴェンの第九の緩徐楽章を聴いているような清らかさである。

弦と木管のこの清らかなハーモニーをなにに変えることができるというのか。

そしてかえがたいこのバーンスタインの超スローなテンポも!

かみしめているとしか言いようがない。ああ美しさの極み。このような美しい音楽が世の中に存在していたのか。ふさわしいバーンスタインとウィーン・フィル。

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そして第4楽章。

ソプラノではなくボーイ・ソプラノであった。配置はオーケストラの前ではなくオーケストラの一番後ろ。声量はそんなになく力強くはないのだが、あのヴィヴラートのかからない透明な声は魅力的であり、ウィーン・フィルとマーラーのこの曲の清らかなイメージによく合うと思う。但し、遠くの方に座っていた聴衆には声がとどかなかったかもしれない。

それにしても波のような弦とともに静かに静かに終わるこの曲の美しさ。

このマーラーの第4番は東京にいたときにハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団で聴いたことがある。その時はやはりこのオーケストラの非常な美しさに魅了された覚えがある。

弦の粒立ちがよくわかり、あの時の演奏はいまでもある程度思い出すことができる。そのような美しい思い出のあるこの曲に対してまたしてもこのような素晴らしい演奏の思い出が加わった。第4番を特に好きな私としては、これも大切なマイメモリー。

但し、この音楽に対する解釈はバーンスタインにおいてはあからさまにはっきりしている。彼の解釈は大胆であり、これはマーラーだから許される表現であり、またこのように自由自在に表現されうるマーラーこそ、そのマーラーとしての価値があるのであり、何の問題も提起しないようなマーラーの演奏には興味がないし、またマーラーに内在するこのようなある意味では大胆不敵とさえいえるものを隠したままでいては、その面白さは自ら半減してしまう。その観点からいってもバーンスタインの表現は、大きくロマンティックな方向に傾きつつも、やはり表現の新鮮さを失うことがない。というよりもむしろ求めているとさえいえる。とにかくバーンスタインは大きく変わりつつあると思う。

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あまりのマーラーの素晴らしさに前半のモーツァルトが飛び去ってしまったような気がしないでもない。

しかしウィーン・フィルの演奏するモーツァルトが悪いはずがない。バーンスタインはここでもやはり比較的おそいテンポで進む。但し、バーンスタインの指揮するこの第40番には悲しさがなく、短調であるにもかかわらず、なぜか明るさみたいなものを感じとることができる。これはモーツァルトに対する彼の解釈が他の作曲家の曲に対する思い入れと同じだからではないだろうか。彼はモーツァルトに対しても一段と大きな解釈を示していると思うが、そのスペシャリストではないと思う。彼にその意欲があればモーツァルトだけで一晩のプログラムを組むはずである。

いずれにしても、マーラー&バーンスタイン&ウィーン・フィル、の組み合わせに感謝あるのみ。

現在最もホットなグット・コンビネーション。

おわり

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