河童メソッド。極度の美化は滅亡をまねく。心にばい菌を。

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755- マゼール フランス国立管弦楽団 1984.3.21

2009-01-25 17:16:41 | 音楽

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今シーズン1月はあまり聴きたい演奏会がない。

それで、あいかわらず昔話の演奏会から。

今書いているのは1983-1984シーズンに聴いた演奏会観たオペラだがなかなか書き終えない。それだけ聴きまくっていたわけだ。

今日はニューヨーク・フィルハーモニックのサブスクリプションの隙間に聴いていたグレイト・パフォーマー・シリーズから。

日、月、水はニューヨーク・フィルハーモニックのサブスクリプション・コンサートがないのでこのシリーズはエイヴリー・フィッシャー・ホールでやるときはその曜日に行う。あとはカーネギー・ホールで。

グレイト・パフォーマー・シリーズというのは手っ取り早く言うとアメリカ国内他州などを含めた国内外の外来演奏団体等によるニューヨーク公演のこと。

それでは当時のまんま(ほぼ)の感想から。。

1984321()8:00pm

エイヴリー・フィッシャー・ホール

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グレイト・パフォーマー・シリーズ

フランス国立管弦楽団

50周年記念

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ドビュッシー/海

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ラヴェル/ピアノ協奏曲

 ピアノ、ブルーノ・レオナルド・ゲルバー

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ストラヴィンスキー/火の鳥、全曲

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(アンコール)

デュカ/魔法使いの弟子

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ロリン・マゼール指揮

フランス国立管弦楽団

久しぶりにマゼールを聴く。たぶんアメリカでは来て初めて聴くマゼールの指揮ぶりである。

あいもかわらず恐ろしいほどの暗記力と解析度。ほとんど信じられない。

いくら頭が良いとはいえあの暗譜力には本当に感心の度を越してそれはほとんど驚きとさえいえる。

例えば、このストラヴィンスキーの火の鳥全曲を楽々と暗譜でこなすのは言うに及ばずそれにもましてすごいのは各楽器に対する全く適切な指示。あの指示の仕方を見ていると彼は絶対に全てのパート譜を暗譜しているとしか思えない。それでもってその指示の仕方がまた不安感を伴わないものだからオーケストラの団員も安心して演奏ができる。というよりも尊敬の念とさえいえるのではないか。彼は自分で顔を向いていない方向にさえ何の苦もなく完璧な指示を常に送っているのだから。

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今日のプログラム・ビルディングはフランスものとストラヴィンスキーのバレエ音楽であるから、色彩的になかなか統一感のとれたものであり、なおかつ中身の充実度が高く、大曲を3曲聴いたような感じとなる。

そしてアンコールで魔法使いの弟子などというこちらでは全く予期していない思いがけない拾いものの演奏もあった。

休憩時間をいれて2時間半という最近の普通の演奏会ではあまり考えられないような長さであったが、充実度の方もそれに比例するように高かった。

この頃なにかと噂のマゼールの登場である。

この前のニューヨーク・タイムズにはマゼールはウィーン国立歌劇場の総監督の再契約をしないだろうという記事がでかでかと載っていて、彼はアメリカでも音楽通にとっては噂の人である。ずいぶんとマンハッタンで演奏会を聴いてきたが、聴衆の空気も彼には一目も二目も置いているというのがヒタヒタと伝わってくる。

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彼の指揮ぶりは昔から激しい。

そのリズミックな動きはたまにエイトビートを越して16ビートにさえなる。それは例えばストラヴィンスキーのような変則のかたまりみたいな曲でさえあいも変わらずひたすら激しい。

しかし、マゼールの動きにははたして誇張があるかと問われれば、無いと言わざるをえない。なぜならば湧き出てくる音楽もその通りなのだから。

それに風格も例えば、メータ、小澤、ムーティのような年齢の連中とはやはり一線を画すと思う。彼らは動きそのもののために音楽に乗るといった現象がたまに見られないこともなく、それが不自然さとなってあらわれる。しかしマゼールにはそのような不自然さはみられず、そこにあるのは恐ろしいほど完璧な楽譜への理解力である。聴衆がこのようなところを目の当たりに見せられたらやはり感心せざるをえないし、羨望みたいなものが湧いてきても不思議はない。

マゼールと彼らのようないわゆる有名な指揮者と言われる人たちの間にはやはりまだ隔たりがあり、彼らはそれを乗り越えていくべきなのだろうと思う。格が違うとはよく言ったものだと思う。

ただ、マゼールも