風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

晩夏(ひとりの季節)

2020-08-31 | 音楽

今日で8月が終わる。

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危険

2020-08-30 | 風屋日記
60歳になると、定年退職となる人が多い。
私の同級生たちも例に漏れず、たまに会ったりすると
「定年後どうするの?」
という話題が必ずと言っていいほど出てくる。
「うちの会社は再雇用制度あるから、もう少しがんばるベぇ」
「ま、どこかに出向することになるかな」
「一応年度末で終わりだけど、他から声かけてもらってる」
などなど、なんらかの形で仕事を続ける人が多いが、
それでもみんなとりあえず還暦で一区切りという形なので
どこかホッとした顔をしている。
人生のひとつの大きなランドマークではあるので
その気持ちわからなくもない。

医師や政治家、自営業などはまだ先があるから
そんな話をニコニコ聞いているのだが、
ここに実は大きな落とし穴があることに最近気づいた。
特に自営業やフリーランスだ。
医師や政治家は遠からず引退が待っている。
しかし自営業やフリーランスは体が動くうちは延々と仕事が続く。
後継がいる自営業はまだいいのかも知れないが
個人的スキルで仕事をしているフリーランスは孤独だ。

60歳を迎え、実はほんの一瞬どーんと気持ちが落ちた。
先が見えない、ゴールのないレース。
それでも勤めていた頃の感覚がどこかに残っているせいか
一度ゴールテープを切ったような錯覚。
ゴールしたのに、まだ走るべきコースが
目の前にどこまでも続いているような微かな絶望。
60歳を迎えて、週末を過ごし、
さてまた今日からいつもの日常の仕事・・・と思った月曜日。
正直言って行動を起こすのに、いつも以上の気力が必要だった。

大袈裟な表現をするなら、いわば「還暦鬱」。
たぶんこれは再雇用や再就職には無いのだろう。
一度定年退職という、ひとつのゴールを経験するのだから。
特にフリーランスの方々は気をつけなければ。
社会はどこに落とし穴があるかわからないと思い知った。
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2020-08-29 | 文化
東京の友人たちとの会話の中で
「花巻に遊びに来て」
というと「遠い」と返されることが多い。
実は新幹線で片道2時間40分ほど。
出張などでこちらからの上京は大抵日帰りだ。
(それをいうと驚かれることしばしば)
東京辺りから見ると北東北は辺境のように思われがちだが
交通網の進展によって案外イメージより近い。
大阪や名古屋、福岡だって
花巻空港があるからせいぜい1時間〜1時間半。
温泉も安いところは数千円で泊まれるから
1泊、2泊してもそれほど負担にはならない。

「冬に遊びに来て」とか「引っ越してきて」と言うと
「冬は寒いから嫌だ」と言われることが多い。
確かに寒い。
一番冷えた日は最低気温が氷点下2桁になるし
日中でも氷点下の真冬日も必ず毎年数日ある。
しかし私にとって、単身赴任時代の東京の方が寒く感じた。
賃貸住宅では灯油のストーブが使えず
エアコンと電気ストーブのみ。
電車での移動が多いから外を歩く機会も多い。
花巻では、とにかく家の中は暖かいし、
移動も車なので暖房の効いた移動ができる。
外で直接寒さを感じるのはほんの一瞬だけだ。
(雪かきは面倒だけど、すぐ暑くなるので寒さは感じない)
真夏の気温の数字は他の地域とそれほど変わらないが
湿度が低くて爽やかだし、朝晩は涼しい。
昼間の暑い時間帯も移動は車なのでエアコンが効いている。

どんなことでも案ずるより産むが易し。
馬には乗ってみよ、人には添うてみよだね。
そう考えてみると、花巻ってすごくいいところ。
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勘違い

2020-08-28 | 世界・平和

先日の毎日新聞1面にこんな記事が載った。
SNSを通じて、自死した木村花さん中傷投稿した人が
勇気を持ってインタビューに応じ、後悔しているという記事だ。
これを見て、かつて女優の裕木奈江へのバッシングを思い出した。
なぜ裕木さんがバッシングされたかというと
(30年近く前のことなので知らない人も多いと思うが)
人気ドラマで不倫相手の家庭を壊す役柄を演じたことにより
「嫌われる女性」のレッテルを貼られてしまったから。
今回の事例にとてもよく似ている。

ドラマやバラエティーは作り物。
そこには台本があり、より「効果的」な演出が施される。
それを「それがその人の本当の姿」と勘違いする人たちが多い。
実はドラマやバラエティーばかりではない。
トーク番組なども、その人の生身の姿と思い込んでいる人もいるが
実は事務所側のイメージ戦略で作られた人物像である場合も多い。
(特にアイドル系に多いと思う)
私が実際に目にしたことがある、とある人気アイドルの女性たちは
テレビに映るよりもはるかに仕事人的大人の女性たちだった。
おちゃらけてばかりいる芸人さんは
周囲の人たちへの細かい気遣いができる素晴らしい人だった。
(あそこまでカメラの前でスタイルを作る姿はまるで熟練職人)
どんな人でも、テレビに映るのは虚像と思っていた方が間違いない。

テレビは必ずしも真実を映していない。
かつて、初めて海外派遣される自衛隊員たちが
防衛省を出発するシーンで大勢の人たちが万歳で送り出した場面を
テレビのニュースで見たことがあるのだが、
同じシーンをフリーの映像ジャーナリストが
もう少し引いた絵を撮っていて、あとからそれを確認したことがある。
万歳しているのはほんの十数人。
その後ろで警察に進路を塞がれた数百人の人たちが
海外派兵反対を叫んでいた。
ニュースですらも映像は操作される。

ちなみにそれは電波メディアだけではない。
本や雑誌、そしてこう言っちゃ身も蓋もないが新聞も
表現によって意図的にある方向へ世論形成を図る時がある。
そこまで意図していない場合でも
演出的に、よりキャッチーに「効果的」表現されることがある。
それによって傷つく人が出てきたとしても
版元にしてみれば売れることが最優先、勝てば官軍。
(新聞に載っている週刊誌の見出しはその典型的な例)
それも眉に唾つけて見る必要がある。

クリティカルシンキングという言葉がある。
日本語に訳すと「批判的思考」だ。
「それは本当にそうなのか?」「なぜそうなる?」と
常に疑問を持ち続けて本質を考える思考だ。
現代の日本社会では決定的にそれが欠けている気がする。
知識詰め込み型の教育では身につかない思考だからだ。
ある意味、為政者たちからは世論形成しやすい国民性と言える。
情報の取捨選択や、本質を深く掘り下げた考え方をしないと
国の方向性を誤る危険性がある。

ところで私は本や雑誌、webを中心にメディアを作る立場。
はっきり言って売れるものは簡単に作れる。
誰かを傷つけることを気にせず、よりキャッチーに演出して、
野次馬根性をくすぐればいいからだ。
しかし私はそういうものを作りたくはない。
ぼろ儲けする気はないし、意にそぐわないものを世に出したくない。
一部の人たちでいい。
誰かの背中をそっと押してあげるものを作りたい。
誰かの心の支えになるものを作りたい。
そういう企画はなかなか通らないんだけど(^^;
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農民芸術概論綱要

2020-08-27 | 文化
序論

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
                   (宮沢賢治)

ここでいう芸術とは、
出来合いの概念やジャンルである美術や
高尚な音楽ではおそらく、ない。
労苦ではない労働に伴う光る汗と笑顔、
太陽の光や風や水の煌めきなど自然を感じる感性、
そして血に刷り込まれた踊りや歌。
やらされることや義務の中に芸術は生まれない。
それは生活の中でにじみ出てくるものだ。
しかめつらで仕事をするのはよそう。
自分の行動の中で新しいものを生み出すために
前を向いて1歩踏み出す。

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うな・まぐ重

2020-08-26 | 食べ物・お店

マルカンビル大食堂の限定メニュー。
マグロとうなぎが載っていて
よく見えないけど、温泉卵のほかにも
ミョウガやオクラなど夏野菜もたっぷり。
これでなんと880円❗️
さすがのマルカンクオリティ。
このメニュー、いつまでなのかな?
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桑の実

2020-08-25 | 食べ物・お店

もちろん採ったのは6月下旬だろう。
その後冷凍していたものなので
味は薄くなっているが、ほんのり懐かしい甘み。
子どものころは自然からのおやつだった。
赤いうちは酸っぱくて食べられたもんじゃなかったけど
これぐらい赤黒くなると甘くて美味しかった。
口の周りや服まで染めて食べ、
帰ってから親に叱られたものだ。

大人になった今はヨーグルトに載せて。


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お盆

2020-08-24 | 生活の風景
いつもとは違うお盆だった。
私の家系は歴史や一族などがあまりない家なので
他の家のように親戚一同が集まってワイワイ食事をしたり
毎年決まった日の定例行事化しているわけではない。
せいぜいウチの息子たちや妹一家が集まる程度。
それも酒盛りやらがあるわけでもなく
参加できる人だけで一緒にご飯食べて終わる程度だが
それも今年はなんとなくひっそりと。

私の祖父は山口県出身と何度も書いたが
そういうことで先祖代々続く墓は、少なくとも岩手にはない。
親父の長兄が大正12年に亡くなった時
祖父は「どうせ息子たちはここからいなくなる」と
祖母の親族が眠る盛岡のお寺に墓を作った。
まさか末っ子の血族が花巻に土着するとは思ってもいなくて
せめて祖母の親族にお参りしてもらおうと思ったようだ。

祖母の親戚は盛岡にいくつかある。
すべて祖父も、親父もお世話になった方々だ。
だから小さい頃からお盆といえば
その方々のお墓や家々の仏壇を拝むために家族で盛岡へ行った。
親父が死に、私の代になってもお盆の盛岡ツアーは続いた。
あっちのお墓と家へ、こっちの墓と家へ・・・ほぼ1日がかり。
普段盛岡に勤めていたから、あまり面倒も感じなかった。
会社を辞め、花巻が本拠になってから、
なんとなくそれも滞りがちになっている。
(東京に住む、一応「本家」から「本家を譲る」と言われるが
 それもどうかと思うんだなぁ ^^; )

今年はお盆恒例の花火もなかった。
毎年8/15恒例の夜神楽もなくなった。
家人が毎日仕事だったので、私も結局毎日仕事をした。
これまでもお盆はそんなに重要なイベントではなかったが、
いつにもましてメリハリのないお盆。
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連綿と続く歴史と血

2020-08-23 | 風屋日記
さて60歳になった。

大正12年生まれの今は亡き親父が60歳だったのは昭和58年。
若い頃の病気再発による入院中で、休職のまま定年退職になった。
とはいえ息子の私は、諸般の理由により大学を自主的留年。
暗澹たる気持ちだっただろうなと、今になってわかる。

明治7年生まれの父方祖父が60歳になったのは昭和9年。
二・二六事件前年で、満州事変などあり、時代が暗くなっていった時代。
このころ確か花巻の町会議員をやっていたはず。
「兄たちと同じ盛岡中学に進学したい」と言い張る末っ子(私の親父)を
自らも設立発起人のひとりとなって創立し
4年目になっていた地元の花巻中学(現花巻北高・私や息子たちの母校)に
無理やりにでも入れるべく説得していた頃?

祖父が生まれたのは山口県。
明治7年といえばまだまだ日本の国は
祖父と同郷の長州閥が動かしていた時代だ。
15歳の時に大日本帝国憲法公布、15歳の時に施行。
19歳の時に日清戦争が勃発しているから
新しい時代の法律を学ぼうと、
長男ながら山口県の家を出奔した血気盛んな青年だったろう。
そういう時代だ。

父親(私の祖父)の指示通り花巻中学に進んだ親父は
軍事教練や実習ばかりでまともに勉強する環境にも恵まれず、
卒業時にも旧制高校(名古屋の八高と聞いた)を受験するも失敗。
東京で浪人生活を送っているうちに戦況悪化のため帰郷。
病気にもなり、鬱々とした生活だった由。

親父も、祖父も、もちろん母や祖母も、母方の祖父母も
さらにそれ以前の祖先たちも、
それぞれの人生を生きた結果として今私がここにいる。
そんなことをしみじみ感じる誕生日翌日。
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誕生日ディナー

2020-08-22 | 食べ物・お店
当日は金曜日でドタバタなので
前日にHANAMAKIモダンチャイニーズ蓮さんで
誕生日ディナーとしてコース料理を。


まずはライチのワインで乾杯。
ライチといえど甘くなく、料理にもぴったり。


前菜。
シャインマスカットのレーズンもさることながら
アイナメの春巻きが絶品。
こんなに美味しい魚だったんだね。


トウモロコシの冷製スープを挟んで


点心3点盛り。


メインは酢豚&回鍋肉をシェアしながら。
花巻産の野菜の美味しさを引き出しながら、
蓮さんの料理は優しい味。


デザートも盛り付けがおしゃれ。
誕生日スペシャルでした(^^)

ところで、我が家3人目の孫の名前が「蓮」に決定。
同じ名前ってこともあり、蓮さんこれからもよろしくです(^^)
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積み重ねてきた年月

2020-08-21 | 風屋日記
1970年 10歳
大阪万博と岩手国体があった。
時代は高度成長期。
小学校4年で、今日より明日がより輝いていた時代。

1980年 20歳
ジョン・レノンが暗殺された。
 バブル前で日経平均株価は約7千円、円相場は約250円/ドル。
大学2年で東京に住んでいた、
派手な生活するほどには金がなく、
穏やかながらちと辛い時代。

1990年 30歳
バブル崩壊直前で日経平均株価はなんと約3万8千円。
次男が生まれたばかりのタイミングで転職。
 地方に住んでいたのでバブルの恩恵はほとんど感じなかった。

2000年 40歳
イチローがMLBシアトル・マリナーズへ移籍。
20世紀が終わった。
この頃から神楽にも参加するようになった。
仕事上はストレスもあり、かなり辛い毎日だったころ。

2010年 50歳
ミャンマーでアウンサンスーチー氏が軟禁から解放され、
沖縄県勢初めて夏の甲子園優勝の興南高が春夏連続制覇を達成。
この年6月から東京へ単身赴任、東京での音楽仲間ができたと同時に
今に続く仕事上の人脈も築くことになる。
誕生日は、アルバイト先の居酒屋で長男の手料理をご馳走になった。
なんだか泣けた。


そして今日、60歳になった。
老いて亡くなったイメージがあった豊臣秀吉の享年と同じで、
どうやら高齢者の仲間入りのようだ。
日本人男性平均寿命まであと20年かな?
必要以上に気張ることなく、かといって諦めることなく
自分がしたいこと、自分にできることを淡々とやっていこうと思う。
コメント (2)
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あと1歩だけ前へ進もう

2020-08-20 | 音楽
ここ1ヶ月ぐらい頭の中を無限ループしている歌。

あと1歩だけ前へ進もう
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「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」

2020-08-19 | 読書

東京大学大学院教授で、日本近現代史の専門家が
神奈川の栄光学園高校生・中学生を相手に
対話形式の講義を行った時の記録。
学生たちは歴史研究部メンバーが中心とのことで
一般の中学生・高校生たちには、
あるいはふだんあまり本を読む習慣がない大人たちには
少し難しい内容かもしれないが、
例え飛ばし読みでも、5割ぐらいしか理解できなくても
本書は今だからこそ国民すべからく読んでおくべき1冊だと感じる。
学者らしく、記録や関係者の発言、資料などの積み重ねで
思い込みや偏向がないニュートラルな内容だ。
2010年度小林秀雄賞受賞。

私は1960年生まれだからもちろん戦争の記憶も体験もない。
しかし小学校の頃の恩師や親たち世代は直接体験者だし、
身の回りには戦争時代の痕跡がたくさんあった。
まつりの時にはハーモニカやアコーディオンを鳴らしながら
傷痍軍人たちが支援箱を前に置いて必ず立っていたし
(高度経済成長進展とともに姿を消した)
大人たちは中国や南方、シベリア抑留の話をしてくれたし、
親族が戦死したり、空襲で亡くなったりという同級生もクラスにいた。
親に叱られる時は「戦時中は・・・」と言われたし
悪さをするたびに先生から軍隊式の往復ビンタを何度もくらった。
そういう意味で、私ぐらいの世代は
戦争は遠い昔の歴史上の話ではなかった。
中でも私は小学生の頃から戦争当時の本を手当たり次第読み
経験者の話を積極的に聞いていたので
同世代の中でもそれなりに
太平洋戦争当時の知識を持っている方だと思っている。

そんな私にとっても目からウロコの話ばかり。
柳条湖事件によって満州事変が起き、
盧溝橋事件によって日中戦争の火蓋が切られたことを知っていても、
それらの事件がなぜ起きたのかここまでの知識はなかった。
それより何より、日清・日露の両戦争がなぜ起きたのか
ごく基本的はことしか知らなかった自分に愕然とした。
明治から大正、昭和にかけて、
政治家や軍、民衆が何を考え、どう動いたのか、
本書にはその周辺のことも含めて詳しく書いてある。

いろいろ挙げたいところだが、挙げきれないので、
ここでは本書を読み終えて私がどう感じたのかだけ書くことにする。
歴史は記憶の学問ではない(と冒頭にも書いてある)。
いくつかの事柄や思想が有機的に組み合わさった結果として
何らかの事象が勃発し、それが契機となって次の事象が起きる。
明治維新から(あるいはそれ以前から)歴史は続いていて
日清戦争があったから日露戦争が起きたし、
朝鮮併合や第一次世界大戦参戦があった。
もちろん満州事変や日中戦争もその延長線上にあったし、
そのまま太平洋戦争に突入したのだった。
もちろん歴史はそこで途切れたわけではない。
敗戦から現代に至るまで、全ては繋がり次の事象を生み出す。
しかも「日本史」という一直線の歴史ではない。
必ず他国とのつながりや関係性がそこに絡んでくる。
(残念ながら当時の日本はそういうことに気づかなかったようだ)
歴史を学ぶとはそういうことだったのかと再認識。
単なる記憶力の学問ではない。

さらに本書で認識したことをいくつか書く。
戦争の原因も「効用」もすべて「カネ」であるということ。
(太平洋戦争はその部分を蔑ろにしたため滅茶苦茶になった)
「五族共和」とか「八紘一宇」とかいうスローガンで言うところの
当時の日本政府や軍が言っていた「東亜」の定義について
実は「東亜=大日本帝国」だったのだという事実。
(中国も朝鮮半島も「大日本帝国の一部」という認識)
そして当時から日本政府の考え方は
「外交は仕方なく動く形で、軍事行動は先制で」だったこと。
(敵ミサイル基地攻撃論など、それは今も変わらない)
本書を読み、現代を改めて考えてみると
今もなんと危なっかしい日本という国であることか!

衝撃だったのは
沖縄基地問題やら、アメリカの核の傘やら、日米地位協定やら
そんな現代の外交的問題点を吹っ飛ばしてしまう実態。
「今も日本はアメリカの属国である」ということ。
形式上はそれぞれ独立した国の形態をとり、
日本政府もアメリカ政府もしれっと知らん顔して
そんなことはおクビにも出さないけれど、
世界の歴史を俯瞰し、戦争や外交の定義に照らしてみると
「アメリカの完全子会社」的日本の姿が浮かび上がってくる。
こりゃいろいろ反対運動しても無理だわ。
アメリカそのものを変えないと。
そして国民には知らん顔しながらアメリカに尻尾振る日本政府も。

そしてもうひとつ。
今の中国共産党独裁政権は、実は日本が遠因であることも驚き。
中華民国の蒋介石ともっと協調すべきだった。
俯瞰の視線を持たず、仮想敵国認識が間違っていたと言わざるをえない。
「アノ国が危ない。我が国を守らなければ」という名目で
日清戦争も、日露戦争も、満州事変も、日中戦争も、
そして太平洋戦争も起きている。
そういう言葉が出てきたら気をつけなきゃ。
騙されてはいけない。

20世紀の歴史を俯瞰してみてわかったことがある。
貧富の格差や、弱者の人権を蔑ろにし、政権が腐敗した結果、
かならずそこにカルト集団やファシズムが現れてくる。
ロシア帝政も、清国も、ドイツも、大日本帝国も、
一部エリートや特権階級が甘い汁を吸い、その立場を享受した結果
格差が広がり、民衆は苦しみ、その目に見えない大きな力が
スターリン、ヒトラー、中国共産党の台頭や日本軍部の暴走を招いた。
ソビエトも中国共産党も労働者・農民革命だった。
ヒトラーも元々はドイツ大衆のための社会主義を標榜していた。
日本の軍部も、小作中心の農民のための政治を訴えていた。
現代においても貧しい人たちはトランプを大統領に押し上げ、
ヨーロッパではネオナチをバックアップし始めている。
翻って日本はどうか。
自由競争という名の格差社会、
他国をルーツをする者や女性、性的マイノリティへの差別、
非正規雇用の拡大と、コロナ禍における切り捨て、
入管ににおける人権侵害。
大日本帝国下の強制労働や、鉱山、紡績工場での労働者酷使、
そして戦時下における敵兵士捕虜虐待となんら変わらない。
この先どのような勢力が台頭してきてもおかしくない。

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」加藤陽子:著 新潮文庫
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16年

2020-08-18 | 風屋日記
このブログを始めて、今日でちょうど16年。
時々数日連続でお休みをした以外は
ほぼ毎日の更新で16年だ。
文章修行のつもりで続けてきたが、
その間、本当にいろんなことがあった。

始めた時、私は44歳。
会社では管理部次長の仕事をしていた。
ストレスMAXのころだ。
長男は高校2年で夏休みを利用し、タイに短期留学中。
次男は中学3年、野球部も引退となり
進路をいろいろ考えていた時期。
もう2人とも子を持ったことを考えると
ずいぶん時が経ったものだ。

最初のエントリー記事が少しくすぐったい。

今ではFacebookものnoteも始め、
もう情報発信手段はここだけじゃなくなっているが
もう習慣化しているから、もう少し続けてみようかな。

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一品香

2020-08-17 | 食べ物・お店

私が通っていた高校の旧校舎時代(1年の時)、
学校がある坂(まことの坂)を下った先にラーメン屋があった。
一品香というその店は、行くと先輩たちもよく来ていて
一番安いラーメンをみんな食べていた。
ラーメン屋というより、いわゆる「まち中華料理店」なので
餃子や炒飯などもメニューにあるのだけれど
大抵みんな小遣いが少ないから安いメニューばかりだったのだ。
そして店の主人と「今年の野球部はどうだ?」みたいな話をした。

今この一品香は新しい市街地である桜台に移転し
昼時や夕方などは行列ができているほどの人気店となっている。
かつて勤めていた会社の産業医の先生は台湾出身の方で
よくご飯をご馳走になったりしていたのだが、
その先生イチオシの店がこの一品香だった。
「ボクの故郷の味そのままダヨ」とよく言っていた。

ひとり晩飯のため、一品香に行ってみた。
ちと早めの時間だったためすぐに席につくことができた。
注文したのは(暑かった日だったこともあり)味噌冷風麺。
(冷風麺とは冷やし中華の岩手風呼び方)



サッパリ酸味とシコシコ麺が味噌で味付けしてある。
言ってみれば「濃厚な爽やかさ」とでも言おうか。
蟹のほぐし身や旨味たっぷりチャーシューの細切りとともに
トマトや夏蜜柑も載っていて、夏にはぴったり。
錦糸卵が酸味や味噌のコクを和らげてくれているのも嬉しい。
一品香ならではのボリュームもたっぷりで
男の晩めしでもこれで大満足。
懐かしい店がこういう形で残っているのも嬉しい。
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