晩 年
80歳を過ぎた耕衣夫婦の一日は、ゆっくりと明けました。
耕衣は、まずラジオの天気予報に、やや難聴の耳を傾けます。夏や冬は、とくに温度が何度になるかを気にしました。
気は若くても、年齢相応の用心というものがあり、夫婦ともども、それを心得ていました。
庭に出て、雑草をふくめた草花や野菜の手入れをしたり、落ち葉たきをしたり、野鳥の声に耳を傾け、拾った小雀を育てる・・・
そうした点では、よく見られる老いの暮らしでした。
妻ユキエが死んだ
ただ、ふつうとちがうのは、物の見方というか、好奇心の異様な強さでした。
耕衣は、子供のころ水やりをやらされた思い出もあって茄子づくりにはとくに熱心といっても、鉢物なので幾株も育てるわけではありません。
その限られた株の中で、人生と同様花は咲いても実を結ばぬものも出てきます。
多くは、「元気な茄子振り」を見せ、食べころを迎えすが、盛りでもぎとっては残酷であり、その終焉(しゆつえん)を見届けるべきではないか、と思いつきました。
やがて、茄子はしぼみはじめ、皺(しわ)をふやす。
耕衣はそこに人生を重ね合わせ、最初のうちは、「茄子や皆 事の終るは 寂しけれ」などと詠んでいたが、そのうち、衰えることも生の一部であり、エネルーは成長するのに必要なだけでなく、衰えるにも、やはり必要ではないか。
茄子にそれを見てやろうという気になりました。
このため、盛りをすぎた茄子を鉢こと部屋に持ちこみ、その衰えぶりの観察をはじめました。
そんな時です。
妻のユキエは疼痛に苦しむようになり翌年の夏入院をするようになりました。
入院してほぼ1年後(昭和61年)ユキエは83歳で亡くなりました。
「主人がおる間は死なれまへん」と言い続けていたユキエは86歳の耕衣を残して亡くなりました。
耕衣の心に大きな空洞をつくって・・・(no3465)
*写真:枯れた茄子を観察中の耕衣