ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

永田耕衣の風景(17) 文芸活動再開

2017-01-21 07:28:24 | 永田耕衣の風景

       新しい時代

 影を抱えていた小野蕪子は、昭和十八年に尿毒症で他界しました。

 そして、昭和20年、未曽有の犠牲を残して戦争は終わりました。

 全てが貧困の中にあったが、重苦しい空気だけは飛び散りました。

 新しい時代がはじまったのです。

 労働運動に火がつき、耕衣のいる高砂工場でも、二十年暮れ、厚生施設として自慢の大浴場階上ホールを会場にして、従業員組合創立大会が行われました。

 これには、はげしい要求を会社側につきつけました。

 そうした波は、周辺の他社でも燃え上がり、ついには日本共産党の大物・野坂参三を迎え、加古川町公会堂で人民大会が開かれる騒ぎとなりました。

 そして、その勢いで翌年春には、機械の運転をすべて停め、組合による生産管理を主張する動きにまで至ったのですが、さすがにこれにはついて行けぬ労働者が出て、三菱製紙では社外の応援とは縁を切る形で、自主再建へと進むことになりました。

    耕衣、文芸活動再開

 悲しい出来事がおきました。

 大きな体で指揮をとり続けた二國社長は、昭和二十三年、予防注射のミスでにわかに昇天してしまいました。

 何かと文芸活動に理解があった社長でした。

 一方、このころ俳句の世界では、彼は願ってもない理解者を得たのです。

 京大俳句事件で逮捕された西東三鬼(さいとうさんき)と平畑静塔の二人でした。

 特に三鬼は、耕衣と同じ明治三十三年の生まれで、戦後耕衣の活動に大きな影響を与え、耕衣の新しい世界を押し広げました。(no3456

 *写真:前列左から二人目、西東三鬼

      後列左から七人目平畑静塔、八人目耕衣(昭和2610月撮影)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする