新しい時代
影を抱えていた小野蕪子は、昭和十八年に尿毒症で他界しました。
そして、昭和20年、未曽有の犠牲を残して戦争は終わりました。
全てが貧困の中にあったが、重苦しい空気だけは飛び散りました。
新しい時代がはじまったのです。
労働運動に火がつき、耕衣のいる高砂工場でも、二十年暮れ、厚生施設として自慢の大浴場階上ホールを会場にして、従業員組合創立大会が行われました。
これには、はげしい要求を会社側につきつけました。
そうした波は、周辺の他社でも燃え上がり、ついには日本共産党の大物・野坂参三を迎え、加古川町公会堂で人民大会が開かれる騒ぎとなりました。
そして、その勢いで翌年春には、機械の運転をすべて停め、組合による生産管理を主張する動きにまで至ったのですが、さすがにこれにはついて行けぬ労働者が出て、三菱製紙では社外の応援とは縁を切る形で、自主再建へと進むことになりました。
耕衣、文芸活動再開
悲しい出来事がおきました。。
大きな体で指揮をとり続けた二國社長は、昭和二十三年、予防注射のミスでにわかに昇天してしまいました。
何かと文芸活動に理解があった社長でした。
一方、このころ俳句の世界では、彼は願ってもない理解者を得たのです。
京大俳句事件で逮捕された西東三鬼(さいとうさんき)と平畑静塔の二人でした。
特に三鬼は、耕衣と同じ明治三十三年の生まれで、戦後耕衣の活動に大きな影響を与え、耕衣の新しい世界を押し広げました。(no3456)
*写真:前列左から二人目、西東三鬼
後列左から七人目平畑静塔、八人目耕衣(昭和26年10月撮影)