「新しい村運動」にあこがれる
多彩な文芸というか、遊芸の世界と比べれば、耕衣の日々の勤務は単調であり、また肩書が物を言う世界で、いかにも味気なく感じました。
こうした生活が三十年、四十年続くかと思うと、若い耕衣はやり切れなくなったのです。
性に合わぬ、人間らしくない。ここを脱け出し、理想の人間として生きたい。
そんな風に考えこんでいるとき、武者小路実篤が日向(ひゆうが)の地ではじめた「新しき付運動」のことを知りました。
そこなら、大自然の中で文芸に親しみながら、心の通う仲間たちと晴耕雨読の理想的な暮らしができる。
「新しき村の精神六箇條」の中には、「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」と、はっきり呼びかけています。
「妻・ユキヱに相談するまでもない。わかってくれる、ついてくるはず」と勝手に決めてしまいました。
いまこそ会社をやめ、「新しき村」へころげこもうと思ったのです。
両親の嘆きや妻子の困惑などは、とりあえず棚上げでした。
新しい村への入村を断念
彼は入村申込書を取り寄せ、誰にも見せずに記入しました。
だが、最後になって、破りすてました。
右手の拳(こぶし)で紙を押さえ、左手の指だけで引き裂きました。
彼に入村を断念させたのも、その手のせいでした。
役に立たぬ右手。それは、農耕で生きようとする場合、大きなハンディキャップになります。
仮に入村を許されたとしても、その分、確実に他の同志たちの負担や迷惑になります。
「自分は理想的な人間として生きたいからといって、そうした犠牲を払わせてよいのか」と考えました。
「入村の資格がない」と耕衣は、自分で自分に言い渡しました。(no3449)
*写真:耕衣愛蔵の武者小路実篤の著作