時代は、少し後戻りします。
ショッキンクな事件が起きました。時代は戦争の泥沼へと驀進していました。
やがて俳句にも暗い影を落としました。
「京大俳句」への弾圧
昭和15年(1940)2月14日、「京大俳句」の平畑静塔(ひらはたらせいとう)ら8人が、治安維持法違反容疑で京都府警特高課によって一斉検挙され、収監されました。
この弾圧により、「京大俳句」誌も、静塔の「帰還兵語るしづかな眼を畏(おそ)れる」などの句を載せた二月号を最後に、廃刊に追いこまれました。
「京大俳句」は、もともと京大関係者以外にも、またあらゆる作風に対しても自由に開かれた勉強クループでしたが、「ホトトギス」左派といわれた山口誓子(やまぐちせいし)らが加わることによって、実質的な編集長である静塔の下で、「作者の社会階層ならではの感情を以(もつ)て実生活を詠む」というところにまで至っていました。
この静塔に誘われ、西東三鬼(さいとうきんき)も「京大俳句」を主な舞台として活躍していました。
このころの三鬼には、「道寒し兵隊送るほとんど老婆」また、発表を禁じられた「塹壕(ざんごう)に眼窩(がんか)大きく残されし」等があります。
*西東 三鬼(さいとう さんき):1900年(明治33)5月15日 – 1962年(昭和37年)4月1日)は、岡山県出身の俳人。医師として勤める傍ら30代で俳句をはじめ、伝統俳句から離れたモダンな感性を持つ俳句で新興俳句運動の中心人物の一人として活躍。
時代(戦争)に反抗・・・
この時期、最初の弾圧に対し、一部の俳人たちは、そのまま引っこんではいませんでした。
それどころか、弾圧に反援(はんぱつ)し、新興俳句運動の各派に呼びかけ、総合誌の形の「天香」誌を四月に創刊しました。
そこでは寄稿者の多くが、弾圧を恐れぬという意思表示として、それまでの俳号やペンネームでなく、あえて実名を使いました。
徘衣もまた実名「軍二」で投句しました。
これに対し、当局は直ちに報復に出、東京在住の「京大俳句」同人四人が検挙されたのです。
それでも排衣はのんきに構え、「文芸春秋」の俳句欄への原稿を書いたりしていました。(no3454)
*写真:左から耕衣、一人置いて西東三鬼(昭和23年、奈良公園にて撮影)