Podium

news commentary

弱いロシア

2022-04-28 00:00:25 | 国際

ロシア正教会の最高指導者であるモスクワ総主教キリル1世(ウラジーミル・ミハイロビィチ・グンヂャエフ)がプーチンのウクライナ侵攻を支持し、ロシア軍の兵士を祝福している。日本のメディアもこの話題を取り上げている。戦争が膠着状態に入り、都市破壊、民間人殺戮といった話題にニュースの消費者が飽きを見せ始めたせいもあるのだろう。ロシアとウクライナの戦争はウクライナ正教会に対するロシア正教会の影響力を増大しようとする宗教戦争でもある、という見立ては、プーチン政権のウクライナ侵攻はよこしまな領土拡張政策であるという見方をカモフラージュする効果がある。

プーチンもグンヂャエフもサンクトペテルブルク出身である。グンヂャエフは2009年にモスクワの救世主ハリストス大聖堂で着座式を行ってキリル1世となった。着座式が行われた救世主ハリストス大聖堂は2000年に再建されていた。ロシア正教会の本山ともいうべきこの聖堂は、1931年に爆破されていた。爆破を命じたのはスターリンである。

権力は対抗勢力になりそうな組織の出現を嫌う。中国共産党政権が気功の組織である法輪功を危険団体として取り締まっているのも似たような恐怖感からだろう。日本の天草一揆もキリスト教が関係していなかったらあれほどの騒動にならなかった。幕府はキリスト教徒の背後には海外の国の陰謀があると感じていたのだろうか。織田信長が比叡山を焼き討ちにしたのは、仏教の僧侶が比叡山に逃れた浅井・朝倉の軍勢を差し出すように求めた信長に比叡山延暦寺の僧侶が応えなかったからだとされている。アメリカがオサマ・ビン・ラデンの身柄を要求したがアフガニスタンのタリバン政権はそれに応じなかった。そこでアメリカはアフガニスタンで戦争を始めた。

ロシア革命以後ボルシェビキは宗教を抑圧した。宗教がボルシェビキの権力維持を妨げる可能性を恐れた。ロマノフ王朝の時代、ロシア正教会がロマノフ王朝の支配の正当性を長らくにわたって農民に教え込んだ。ロシア皇帝の庇護の下で、正教は勢力を拡大した。ボルシェビキが権力を握ると、今度は革命勢力がロシア正教の教会を破壊した。空き家になった教会は倉庫として使われた。都市部の名高い聖堂は博物館になった。例えばサンクトペテルブルクのネフスキー大通りに面したカザン大聖堂は無神論の歴史博物館となり、聖堂での礼拝は禁じられた。

ソ連邦解体の後、信教の自由が徐々に回復し、博物館の一部を使っての礼拝が認められるようになった。政府によって占有されていた教会が正教会に返還された。教会の施設・不動産を取り戻し、献金で潤ったロシア正教会にとって、プーチンの時代はボルシェビキに奪われた富と影響力を取り戻すチャンスなのである。

ソ連邦が解体した1992年にウクライナが独立国になった。ウクライナではロシア正教会系の組織と、ウクライナ独自の組織が混在している。

17世紀の「三十年戦争」はドイツのキリスト教新教徒と旧教徒の宗教戦争として始まり、ヨーロッパの国際戦争に拡大した。この戦争の終結あたって取り決められたウェストファリア条約によって、主権国家が並立する現代のウェストファリア体制の原型がつくられたと国際政治学の教科書は説明する。

ウェストファリア体制は主権国家のうえに立つ組織がない世界である。核大国のロシアが隣国に侵攻して軍事力を誇示し、今は失ってしまったかつての栄光を取り戻そうとしている。政治権力の庇護の下で、キリル1世はプーチン政権の帝国主義的手法を祝福する。アナーキーな世界なのだ。

アメリカ大統領だったロナルド・レーガンは1983年のキリスト教団体の集会で当時のソ連を「悪の帝国」と非難した。冷戦の時代だった。冷戦初期に出版されたケネス・ウォルツの『人間・国家・戦争』で、ウォルツはこんなことを書いている――ソ連が戦争の脅威になっているというのは本当かもしれないが、ソ連が消滅すれば残る国家が平和に暮らせるというのは真実ではない。

ソ連は消えたがロシアは残り、ロシアがヨーロッパに戦争の火種を持ち込んだ。

ウクライナを訪れたオースチン米国防長官は「ロシアがウクライナ侵攻のようなことができないところまで弱体化する」のがアメリカの望みだと表明した。ロシアの弱体化がアメリカの戦略目標であると受け止めらる可能性のあるオースチン発言がプチーンを刺激し、生物化学兵器や戦術核兵器の使用へと走らせる恐れがある。バイデン米大統領は米軍機をウクライナ上空に飛ばすことはないと、早々と言明した。米ロの直接交戦を避けるためだ。一方で、国防長官が「弱いロシア」を望むと言えば、国際環境はかつての冷戦時代に逆戻りする。

(2022.4.27 花崎泰雄)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時代の錯誤

2022-04-20 23:17:51 | 国際

1968年8月20日の事だった。ソ連軍を中心にした東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの軍からなるワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアの首都プラハに侵攻した。当時のチェコスロバキアではドプチェク第1書記が「人間の顔をした社会主義」を提唱して政治の自由化を進めていた。その自由化路線を阻止するのが目的だった。

1965年から始まったソ連共産党のスターリン批判の高まりの中で、チェコスロバキアではソ連に近いノボトニーに代わってドプチェクが自由化を推し進めていた。のちに「プラハの春」と呼ばれるようになったこの政治運動には多くの知識人が賛同していた。

チェコスロバキアの自由化路線が加速すると、やがてワルシャワ条約機構からチェコスロバキアが離脱して西ヨーロッパの勢力に加担するのではないかとソ連は心配した。そこで、ワルシャワ条約機構軍をプラハに送り込んで、ドプチェクを排除し、フサークをチェコスロバキア共産党の第1書記にすえた。

チェコスロバキア侵攻を正当化する理由としてソ連が掲げたのが「制限主権論」という理屈だった。「ブレジネフ・ドクトリン」とも呼ばれた。社会主義に敵対する内外の勢力がある社会主義国を資本主義体制の方向へ捻じ曲げようとする場合、その国の社会主義の大義の脅威が発生した場合、社会主義共同体全体に対する安全保障上の脅威が生じた場合、これらは単に当事国だけの問題ではなく全社会主義諸国の共通の問題であり憂慮すべきことがらとなる。社会主義の大義は国家主権を超える、というのがブレジネフ・ドクトリンの要旨である、と当時のジャーナリズムは伝えた。

第2次大戦終了後に、ヨーロッパは2つの陣営に分断され、それぞれ相手に対する警戒を怠らず、冷戦を持続させた。米ソの核戦力を背景にして、米国は西ヨーロッパ諸国と北大西洋条約機構(NATO)を1949年に結成した。対抗して1955年にソ連が東ヨーロッパ諸国とワルシャワ条約機構組織した。

ソ連はスターリン時代の1939年にフィンランドに攻め込み、フィンランドに領土の一部を割譲させた。続いて1940年にはリトアニア、ラトビア、エストニアを併合した。第2次大戦後に米ソ冷戦の時代が始まった。米国はベトナム戦争の泥沼からなんとか抜け出したが、ソ連はアフガニスタン紛争のあと、ゴルバチョフ時代の改革路線を契機にソ連邦崩壊に行きついた。

ワルシャワ条約機構は1992年に解散。加盟のヨーロッパ諸国のすべてがこれまでにNATOの加盟国になった。かつては西側諸国にたいする防波堤だったワルシャワ条約機構消え、ロシアの首都モスクワのすぐ近くまでNATOの勢力圏が迫った。

ベトナム戦争を戦う理由として米国はいわゆるドミノ理論――ベトナムで共産主義を食い止めないと、タイが共産化し、マレーシア、インドネシアなどが次々に共産圏に入る――を声高に唱えた。いまでは、共産主義のドミノ理論は冷戦が生んだ神経症的な神話にすぎないと多くの人が考えるようになった。現在のヨーロッパではアメリカ風の資本主義や自由主義が、かつての東欧諸国をドミノのように倒し、いまやモスクワに迫っていると、プーチンは認識しているのだろう。

ウクライナのネオナチがロシア系住民を迫害しているのでその救済のためにウクライナにロシア軍を派遣した、というプーチンの説明は面妖のきわみだが、「ネオナチ」を「NATO派」、「ロシア系住民」を「ロシア」と言い換えると意味は通じる。ロシアの兄弟国であるウクライナで西欧崇拝のNATO支持派が力をつけてきた。そこでロシアの救済のためにウクライナのNATO加盟を阻止するのが進攻の目的である。こういう言い方をすれば、1968年のチェコスロバキア侵攻のさい、社会主義を守るためにはチェコスロバキアの主権は制限されうるとブレジネフが考えたように、ロシアを守るためにロシアの兄弟国ウクライナの主権は制限されなければならない、とプーチンは考え、行動した。

(2022.4.20 花崎泰雄)

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

迷走する世界の回転木馬

2022-04-07 15:47:50 | 国際

ロシアは何を求めてウクライナに侵入したのだろうか。2月下旬からこれまで、テレビで画像を追い、新聞の分析報道を読んで戦争の原因を知ろうとした。だが、はっきりしたことは今のところ何もわからないままだ。

多くの専門家たちが偉大なるロシアの残像に対するプーチンの憧憬を開戦の動機として説明しようとした。「タタールのくびき」というモンゴル支配の歴史から、ナポレオンの軍勢と戦った「祖国戦争」、さらにはヒトラーの軍隊を迎え撃った「大祖国戦争」までを引き合いにして。

過去への思い入れが新しい歴史をつくることもある。トロイ遺跡の発掘はホメーロスが語った神話世界に対するシュリーマンのあこがれから始まった。シュリーマンはそれにもましてプリアモスの財宝に強い関心があったという説もあるにはあるが。

トロイ戦争の原因はトロイの王子がスパルタの王妃をさらった事だと、神話時代のホメーロスは説明した。女を略奪するのは悪人の所行だが、女が略奪されたことで報復するのは愚か者のすること。女の方にその気がなければ略奪されるはずもない。ヘロドトスは『歴史』の中で神話的でない言い方をしている。

トゥキュディデスになると戦争の原因究明はドライである。「既存の覇権国家を脅かす新興の覇権国家が生まれると戦争の原因になる」と『戦史』で述べている。これは現代的にも通用する戦争誘発の状況の祖型である。グレアム・アリソンは「トゥキュディデスの罠」という言葉を創った。衰退を感じさせる米国と拡大する中国の衝突が彼方に見える。

 

アレクサンダーの東方遠征の目的は何だったのだろうか。遠征隊は各地に「アレクサンドリア」という名の都市を築いた。支配地の拡大が目的だったのだろうか。十字軍はエルサレムの聖地奪回という宗教的熱情でスタートした。しかし、のちにはローマ・カトリックの十字軍がギリシア正教の国である東ローマ帝国を略奪目的で攻撃するようになった。遠征にはカネがかかるし、地中海にはベネチアのような有力通商国家が通商圏の拡大を画策していた。

 

ナポレオンの軍がエジプトに攻め込んだのはロゼッタストーンを探すためではなかった。エジプトにいたイギリス軍を攻撃するためだった。同じようにイギリス寄りのロシア皇帝アレクサンドル1世を嫌ってナポレオンは雪のロシアに侵攻した。ヒトラーがロシア侵攻のバルバロッサ作戦を開始したのは、食糧、石油などの供給地が欲しかったからだ。さらにロシアの西部を手に入れてアーリア人の新しい天地にしたかったからだと言われている。ナポレオンもヒトラーもそれまでの勝ち戦の興奮の余韻に酔ってロシア侵攻を始めた。プーチンが祖国戦争や大祖国戦争を引き合いにして、核兵器を持った途上国に転落したロシアを再び世界政治の場で覇権を求める国家にしようと夢見てウクライナに攻め込んだ「プーチンの戦争」仮説の対極である。

 

20世紀ではソ連がキューバで建設を進めていたミサイル基地をめぐって、世界は米ソが熱核戦争の崖っぷちに立って、暗い奈落を覗いた。1962年の事だ。カリブ海に展開する米軍の艦船の映像がテレビや新聞で伝えられた。世界中が「もはやこれまでか」と、暗い気分につつまれた。21世紀のロシアのウクライナ侵攻では、NATOも米国も、ウクライナでロシアと直接戦火を交えるつもりはないことを早々と明らかにした。核戦争に発展する恐怖感は1962年のキューバ危機の時ほど強くはなかった。

キューバをめぐるミサイル危機のあとで読んだホルスティの『国際政治―分析の枠組』(第3版)の冒頭に驚きのエピソードが紹介されていたことを思い出す。ベルンハルト・フォン・ビューローの回顧録によれば、フォン・ビューローがドイツ帝国宰相に第1次世界大戦が始まった理由を尋ねたところ、「それがわかってさえすれば…」と宰相が答えたというのである。戦争の機能はほどほどのコストで軍事力をつかって政治目的を達成することであるから、1914年のドイツの政策立案者たちは合理的に行動していなかった、とホルスティは説く。

ウクライナ侵攻を決断したプーチンの頭の中には何があったのか。その答えはこの戦争が終わるまで推測の域を出ることがないだろう。朝鮮戦争をめぐって先に攻撃をしかけたのは北か南か。真相はながらく謎のままだったが、ソ連邦の解体にともなって公開された資料に、いまが南解放のチャンスであると金日成がスターリンを開戦支持へと説き伏せた、と事の次第が書き残されていた。これがはっきりするまでに40年もかかったのである。

 

(2022.4.7 花崎泰雄)

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする