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news commentary

パンドラの箱の蓋が開きはじめた

2007-10-29 23:15:07 | Weblog


10月29日の午後は、衆院テロ対策特別委員会での守屋武昌・前防衛省事務次官の証人喚問中継を見た。質問する議員の側の準備不足が目立ち、多くの疑惑の解明が隔靴掻痒に終わった印象だった。

軍需専門商社の元専務から5年間だけで100回以上のゴルフの接待をうけ、このほかマージャン、飲食に誘われていた接待漬けの前事務次官が、金を支払ってくれた元専務にたいして、便宜を図ったことは一切なかった、と証言した。もしこれが本当のことであれば、供応接待した元専務は無駄金をつかった間抜けな民間業者であり、とっくに専務の職を解かれていたことだろう。

部品を含め総額で1000億円にのぼるといわれている航空自衛隊の次期輸送機のエンジン調達を(CXエンジン)をめぐる、元専務と守屋の動きも、この日の質問でははっきりと浮かび上がってこなかった。

すべては東京地検特捜部の捜査待ちということなのであろう。

ところで、この証人喚問が終わってまもなく、福田首相と小沢・民主党代表の党首会談が30日午前行われるというニュースを聞いた。

小沢は安倍前首相からの党首会談を、話すことなんか何もないという態度で拒絶した。今回小沢が党首会談に応じたのは、首相が福田になったからなのか、あるいは小沢の方に何らかの事情の変化があったせいなのか、興味津々である。

さらに、29日夜には、久間章生・元防衛相が、元専務に料亭で1度だけだが会食したことを認め、さらに、解離性大動脈瘤の手術を受けるため、30日から入院することを明らかにした。

ふむふむ。展開を注視しよう。

(2007.10.29 花崎泰雄)
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Does size matter?

2007-10-24 15:16:52 | Weblog

“Does size matter?” といえば、普通は男性生殖器のサイズの話であるが、ここで話題にするサイズは人口のそれである。

中国共産党大会の後をうけて第17期中央委員会全体会議で2期目の胡錦濤体制が発足した。メディアは50代で政治局常務委員になった習近平と李克強の後継レース予想や、胡錦濤派と江沢民派のさや当てなどについてさまざまな政局情報を教えてくれた。習近平と李克強のレースはこれから紆余曲折をたどるだろうし、そもそもダークホースが現れないとも限らない。引退した江沢民の影響力は時間とともに薄れてゆく。胡錦濤が江沢民から自由になれる日は近いことだろう。だが、総体としての中国の政治がどこへ向かって進んでいるのか、あるいは漂流しているのか、少し先の話になると、話は五里霧中である。

筆者が大学で教えていたころ、「中国は…」と言って、「中国は地域によってさまざまで、『中国は』と一言でいえるような中国はない」と、中国からの留学生に指摘されたことがある。広大な地理的広がりの中に、巨万の富を蓄えた者から明日の暮らしを思い煩う層まで、多様な13億の人々が暮らしている。四海平和ではなく、チベットや新疆のように、漢民族による支配を不快に思っている非漢民族がいて、しばしば緊張もただよっている。

中国共産党にとっては、その多様な中国を何とか一つの枠にとどめおき、そこに共産党の支配を徹底させ、党と中国を永続化させることが最大の仕事である。総理の温家宝はかつて、発展のレベルが低い国が膨大な人口をかかえていること、これが中国最大の問題である、と言ったことがある。「どんなに小さな問題でも、13億でかければ大問題になり、どんなにたくさんのカネとモノがあっても、13億で割れば、非常に低い一人当たりのレベルになる」(温家宝総理、ハーバード大学における講演、2003年12月10日)。

中国共産党の一党支配を支える2つの柱は経済成長と抑圧である。小平以来の路線である急速な経済成長が中国共産党の支配の正統性を支えてきた。一方で、中国共産党は反体制派、分離主義者に対しては徹底的な弾圧をためらわなかった。1989年のチベットの戒厳令(このとき胡錦濤はチベット自治区の共産党書記で、北京の指示通り戒厳令を敷いた)や同じ年の天安門事件がその例である。

さて、中国は事実上、ロシアとともに権威主義的資本主義大国になった。その過程で経済成長が中国共産党支配に支配の正統性をあたえた。その一方、経済成長が新しい問題をつくり出したことがはっきりしてきた。一つは分配の問題であり、いま一つが成長の代価としてのエントロピー、つまりは環境汚染の増大である。

分配の問題については、ネオリベラリズムをもじってネオコム(neo-communism)と居直らない限り、中国共産党は社会主義の理念としての公正な分配を看過するわけにはいかないだろう。

環境汚染の問題は分配の問題よりもさらに解決が難しい。13億の人口に職と収入を保証し、ここちよい衣食住を提供し続けるには、経済の発展拡大が必要である。だが、その経済拡大の過程で資源の枯渇と環境の汚染は避けられない――現在の中国の急速な環境劣化を見る限り、いずれ致命的な環境汚染へと進み、経済そのものが崩壊するだろう。

こうした危機感から「和諧」「科学的発展観」が唱えられた。この2つのスローガンは支配する側の危機感の表明であり、実現可能な政策の段階に至っているわけではない。

さらに、民主化への圧力がじわじわと強まっている。中国共産党存続のためにも民主化圧力との妥協は避けて通れない問題だ。しかしながら、中国共産党は党の独裁を揺るがさない範囲内での政治的民主化しか認められないわけだから、そのような厳しく限定された民主化が中国においては正統な民主化であるという理屈を市民に納得させるという難しい作業に直面する。

経済が発展すれば資源の枯渇と環境汚染が進み経済成長は減速する。経済発展の結果、公正な分配と政治的自由化を求める声が高まり、中国共産党の一党支配への批判が強まる。そこで、中国共産党が一党独裁をあきらめ、中国が多党制民主主義へ移行すれば、その移行期にチベットや新疆での分離主義運動が活発化する。ソ連邦解体、ユーゴスラヴィアの分解、東ティモールのインドネシアからの分離独立などにこの種の例がある。

胡錦濤体制は以上のようなタイトロープを渡って行かねばならない。一歩踏み外すと、そこに待っているものは、胡錦濤にとって中国共産主義青年団の先輩である胡耀邦、趙紫陽がたどったのと同じ運命である。

(2007.10.24 花崎泰雄) 

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無駄口はつつしみたまえワトソン君 

2007-10-20 15:44:09 | Weblog
ジェームズ・ワトソン(James Watson)の名前を久しぶりに新聞で見た。

フランシス・クリック(Francis Crick)と2人で1953年にDNAの構造が二重らせんであることを見つけ、1962年にノーベル生理学医学賞を共同受賞したアメリカの学者だ。

メディアが伝えるところによると、ワトソン君は近著 Avoid Boring People のイギリス版(Oxford University Press)が2007年10月22日から英国の店頭に並ぶのに先がけて、販売促進の目的でイギリスに渡った。

ワトソンの英国訪問に先立って、10月14日の『サンデー・タイムズ』がワトソンの紹介記事を掲載した。この記事の中で、ワトソンは、

「われわれの社会政策のすべては、彼ら(アフリカ人種)のインテリジェンスがわれわれ(ヨーロッパ白人種)のインテリジェンスと同じであるという事実に根拠をおいている。ところが、あらゆる検証がそうではないことを示している」

と発言したと引用された。記事はさらに、ワトソンは過去にも、皮膚の色を性欲と関連付けて、

「皮膚の色の濃い人々にはより強いリビドーがある」

という仮説を提示したことも紹介した。

そういうわけで、ワトソンはイギリスに到着はしたものの、英国で予定していたロンドンの科学博物館での講演やブリストルの行事参加などを、主催者から断られて、アメリカに帰った。帰りついたアメリカでは、ロングアイランドのコールド・スプリング・ハーバー研究所の理事会がワトソンを所長の職からはずし、同研究所はワトソンの発言と何のかかわりも持たないと声明を出していた。

批判の嵐の中でワトソンは発言の根拠となる証拠を示すことができず、結局、「弁解の余地のない謝罪」を公式に表明せざるをえなかった。

インテリジェンスとDNAの関連についてはよく分かっていない。そもそも、インテリジェンスとは何であるのかの定義が難しい。この文章の筆者もintelligenceをどう日本語に翻訳するか思い惑い、とどのつまり、インテリジェンスとカタカナ表記することで逃げをうった。ワトソン君にノーベル賞をもたらしたものはある種のインテリジェンスであろうし、彼に今回の失言をさせたのも彼が持ち合わせているインテリジェンスの一部によるのであろう。

トランジスターを生み出したウィリアム・ショックレーもノーベル賞を受けたが、この人のインテリジェンスもバランスに欠けていた。「インテリジェンスは遺伝子によって伝えられ、黒人は遺伝的に白人に劣る。しかし、黒人は白人に比べ出産率が高いので、これによって人類は進化するよりも、むしろ退化する」と主張した。さらに、遺伝的に劣る者が不妊手術に応じたら報酬を与えるというアイディアまで持ち出して、世間のひんしゅくをかった。

ワトソンもショックレーも、ある分野で業績をあげた人々なら別の分野でも同じような優れたインテリジェンスを持っているという信仰のばかばかしさの好例だろう。ノーベル賞は科学の世界では権威の象徴だが、ノーベル賞のもとなっているのはノーベルの作ったダイナマイトで、それは戦争に使われ、戦争からノーベルは利益を引き出した。

気楽にしゃべるとき、人はその人の本音であるところの偏見をふともらす。その点でお気楽な日本の政治家たちは、「こどもを産む機械」発言だけではなく、黒人とインテリジェンスの関係について、信じられないほどの気楽さで偏見を吐いている。

「日本はこれだけ高学歴社会になって、相当インテリジェントなソサエティーになってきておる。アメリカなんかより、はるかにそうだ。平均点からみたらアメリカには黒人とかプエルトリコとか、メキシカンとか、そういうのが相当おって、平均的にみたら非常にまだひくい」(1986年、当時の中曽根康弘首相の発言)

「日本人だと破産は重大に考えるが、クレジットカードが盛んな向こう(米国)の連中は、黒人だとかいっぱいいて、『家はもう破産だ。明日から何も払わなくてもいい』。それだけなんだ。ケロケロケロ、アッケラカーのカーだよ」(1988年、当時の渡辺美智雄・自民党政務調査会長の発言)

日本人の間では政治家はもともとインテリジェンスのある人たちがやる職業とはされておらず、また、日本の政治家の存在感は海外でさほど大きくない。そういうわけで、かれらの発言が国際的には大きな批判を巻き起こすことはなかった。

(花崎泰雄 2007.10.20) 
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反則、インチキ、八百長、談合……

2007-10-17 22:59:19 | Weblog
伊勢の赤福のインチキがばれて「伊勢の赤恥」になった。金髪染めのプロボクサーが反則でライセンス停止の処分をうけて、金髪頭を丸めて青坊主になった。世の中、色々だ。

ついでにいえば、ついこの間のNHKの夜のニュースの首相ぶら下がり会見で、内閣総理大臣に金髪ボクサーの反則について感想を求めたメディアがあった。福田康夫も閑だったのか、あるは低姿勢戦術の一環だったのかよく分からないが、「そんなことオレに聞くことか」などとは言わず、丁寧な返答をしていた。ぶら下がり会見がましなインタビューになった例をテレビで見た事がない。とはいえ、ボクシングの反則行為についての感想が一国の首相にわざわざ尋ねるにあたいすることか?

スポーツに反則、インチキ、八百長、談合はつきものだ。最近の例では女子陸上のオリンピック金メダル選手をはじめとする、さまざまなスポーツでのドーピング疑惑がある。なぜ勝敗を争うスポーツでインチキが多いかというと、それは一種の「公平さを求める行為」だという説がある。

みんながインチキをやっている(ようだ)。したがって、公平の原則から、私が不利にならないように、私もインチキをやらねばならない、ということなのだそうだ。これは、どこか、冷戦中の米ソ核軍備競争に似ている。双方がミサイルギャップをとなえ、核とミサイルの備蓄に励んだおかげで、米ソ双方に使えもしない核兵器が山と詰まれることになった。

最近のアメリカでは、はこうしたスポーツのインチキの動機解明に経済学者が興味を示しているそうである。その草分けが、シカゴ大学のスティーヴン・レヴィットで、日本の国技の相撲の星取を分析してみせた(スティーヴン・レヴィット『ヤバい経済学』東洋経済新報社、2006年)。

レヴィットが相撲専門誌20年分ほどを集めて星取表を分析した結果によると、千秋楽で7勝7敗になった力士が、すでに勝ち越しを決めている8勝6敗の力士と相撲をとった場合、7勝7敗の力士の勝率は79.6%の高率だった。レヴィットの集計によると、相撲の八百長報道があった後の本場所では、7勝7敗で千秋楽を迎えた力士の、8勝6敗の力士に対する勝率は50%であったという。レヴィットはそこに日本の相撲界のある種の相互扶助的なつながりをみてとっている。

競り合いが激しくなれば、渦中の人々は生き残りのためにますます反則、インチキ、八百長、談合などに頼ることになるのだろう。

いや、スポーツ界の話ではなく、日本国の国会論戦の観戦心得です。

(2007.10.17 花崎泰雄)


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豪腕小沢投手の失投か

2007-10-12 14:55:24 | Weblog
民主党党首・小沢一郎のISAF(国際治安支援部隊)参加発言に対する批判が広がっている。新聞が伝えるところによると――。

OEF(不朽の自由作戦)参加の一環としてインド洋での給油活動を継続したい自由民主党が批判を浴びせている。「インド洋での海上自衛隊の給油活動と、アフガニスタンに地上軍を送り、武力行使に加わることでは、どちらが憲法違反なのか」「きちんと憲法を改正してからやるべきだ」など、ISAF参加の方こそ憲法違反だと強調している。

社会民主党党首の福島瑞穂も「憲法はいかなる場合でも武力行使を認めていない。小沢見解は違憲である。政府に対して野党が結束して迫っていこうという今、なぜこういう主張をするのか理解できない」と批判した。

民主党の中からも「無理がある」との批判が出ている。この党内からの異論に対して小沢は「党の方針に従って行動しなければ党人ではない。いやなら離党する以外にない」と語った。そのうえで、ISAFは治安維持、軍事部門だけでなく、いろんな民生活動が入っているので、参加する場合は民生支援中心の活動を念頭に置いているとした。

このあたりが小沢一郎という人間のどうも信用しきれないところである。彼は『世界』に寄稿した論文の中で「国連活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」とはっきり書いていた。

憲法変更へ向けて作られた2005年の民主党の「憲法提言」は、「何らかの形で憲法の中に、国連が主導する集団安全保障活動への参加を位置づけ、曖昧で恣意的な解釈を排除し、明確な規定を設ける。これにより、国際連合における正統な意志決定に基づく安全保障活動とその他の活動を明確に区分し、後者に対しては日本国民の意志としてこれに参加しないことを明確にする。こうした姿勢に基づき、現状において国連集団安全保障活動の一環として展開されている国連多国籍軍の活動や国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にする。それらは、その活動の範囲内においては集団安全保障活動としての武力の行使をも含むものであるが、その関与の程度については日本国が自主的に選択する」としている。

この「憲法提言」に基づいて、小沢は①インド洋での給油活動は現行憲法に違反する②そんなことをするよりも、むしろ現行憲法を変更したうえで、武力行使を伴う国連活動に参加するほうが、日本の国益に寄与する、と主張しているのだろうか。

どうもそうではないらしい。小沢は現行憲法下でも武力行使を伴う国連活動への参加は可能であると考えているらしい。五百旗頭真他編『小沢一郎 政権奪取論』(朝日新聞社 2006年)によると、日本が国連の強制措置に参加しても、国連の行動は従来の戦争ではなく国際警察行為だから交戦権の行使にはあたらず、現行憲法に抵触しない、というのが小沢の理屈である。

しかしこの本の中で、国連中心主義の実際的政策選択の面では、小沢の思考は極端なブレを見せている。

「国連にはほぼ全世界の国が参加しているわけですから、多数の国がいいと判断したものに従う以外にないのです」

と、極端な国連中心主義を表明するかと思うと、一方で、

「小沢さんの考えは、何もかもを国連の判断にゆだねて、国連が決めたら、何であれ『行きます』といっているように見えます」

という編者の質問に対して、

「それは全くの誤解です。もちろん、憲法上の問題がないことが大前提です」

と答えている。また、

「実際にそれをやるかどうかは、日本の国益に合致することが必要だということですね」

という編者の質問に対して、

「そう。もちろんそうです。何でも行かなきゃいけないということじゃないです」

と答えている。

学位論文の口頭試問でこのような答え方をしたら、致命的だろう。

ドイツは1955年に基本法(憲法)を変更して軍を持った。同時にNATO(北大西洋条約機構)に加盟した。ただし派兵はNATO域内に限られていた。1994年にドイツの憲法裁判所が域外派兵を合憲とする見解を出した。こうした手続きを踏んで、ドイツはISAFに参加している。つまり、ドイツでは国連治安活動参加への軍の参加は海外派兵であると正しく認識されている。

ISAFは国連安全保障委員会決議1386号で、国連認可の国際治安支援部隊の指定を受けている。国連がNATO軍に指揮権をあずける形をとっている。

一方、OEFも国連安全保障委員会決議1368号に基づく国連認可の治安活動であると主張する向きもある。しかし、国連が指揮権をアメリカ軍にあづけたとはっきり読める文言は、決議1368号には示されていない。

したがって、インド洋給油活動の根拠となっているテロ対策特別措置法は、「国連安保理決議第1368号において国際の平和と安全に対する脅威と認められたことを踏まえ……テロ攻撃による脅威の除去に努めることにより国連憲章の目的達成に寄与する米国等の軍隊等(「諸外国の軍隊等」)の活動に対して我が国が実施する措置等」などを目的とすると定められている、と苦しい説明をしている。

日本政府はOEF参加を国連の治安活動参加の一環であり、日米安全保障条約に基づく活動ではないと説明している。一方、オーストラリアは、自国のOEF参加の根拠は米国との軍事同盟アンザス条約の発動であると、国民に明言している。

というわけで、理屈はますますこんがらがってゆく。この間に、国会の議論や世論が奇妙に単純化され、

「政府が主張するインド洋での給油活動と、小沢の言うアフガニスタンでの武力行使をともなう治安活動参加では、違憲性が少ないのはどちらの方か」

という選択に発展する可能性がある。政府・自民党はこの対比をうまく利用して、世論を「給油」の方へ誘導するだろう。

小沢発言は、結果として、政府の「給油」継続を助ける失投におわる可能性が高い。なんとも間抜けな第五列効果といえよう。

(2007.10.12 花崎泰雄)

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論理の迷路

2007-10-07 00:10:57 | Weblog
いま開かれている国会の焦点は、インド洋で自衛隊が行なっている給油活動の継続問題だ。小沢一郎率いる民主党はこの給油活動の法的根拠であるテロ対策特別措置法をめぐる与野党の攻防を、衆院解散の突破口にするといっている。

10月9日発売予定の雑誌『世界』11月号に小沢が書いた論文が、まるで攻撃開始の狼煙のといわんばかりに新聞などで話題になっている。雑誌がまだ書店に並んでいないので、筆者はまだ読んでいないが、新聞が伝えるところによると、小沢は、インド洋での給油活動を「国連活動でもない米軍等の活動に対する後方支援」とし、「(憲法が禁じる)集団的自衛権の行使をほぼ無制限に認めない限り、日本が支援できるはずがない」と批判しているそうだ(10月5日付朝日新聞夕刊)。

その一方で、小沢は「国連の活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」とし、「私が政権を取って外交・安保政策を決定する立場になれば、ISAFへの参加を実現したい」と書いているそうである(同紙)。

国連の旗は錦の御旗で、その下であれば自衛隊が海外で武力行使しても憲法違反にはならない、むしろ憲法はそれをすすめているという判断である。

1929年に発効した不戦条約は、「国際紛争に決着をつけるために戦争をしない。国家の政策の手段としての戦争を放棄する」ことをとりきめた。百科事典によると、この条約には期限がないため、理屈上は今日でも有効なのだそうだ。この考え方が、日本の敗戦後、日本国憲法第9条に持ち込まれた。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

この条文を虚心坦懐によめば、日本という国は国際社会の中で、この憲法を理由に「良心的兵役拒否」を申請せざるをえない。だが、1929年の不戦条約がいわゆる“ザル条約”となったように、日本国憲法第9条も諸般の国際事情、ありていにいえばアメリカ合衆国の事情で、ザル条項になっていった。

1946年に新しい憲法の審議が始まったとき、共産党の野坂参三が衆議院で9条について「自衛のための戦争は正しい。戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とすべきだ」と質問した。これに対して首相の吉田茂は「多くの戦争が国家防衛権の名においておこなわれた。自衛のための戦争を認めるは有害である」と自衛権を全否定した。

1950年に朝鮮戦争が起き、アメリカの要請で警察予備隊が創設され、やがて保安隊に成長したころ、政府は、「戦力」とは近代戦争遂行能力に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいい、保安隊を「防衛力」として備えることは憲法に違反しないと説明した。

1954年に自衛隊ができた。政府は、自衛のための必要最小限度の実力は「自衛力」であって、これは「警察力」を超えるが、なお「戦力」には至っていないので、憲法に違反しないと説明した。

やがて「自衛力」の定義のシーリングはどんどん高くなっていった。大陸間弾道弾、長距離戦略爆撃機、攻撃機を主力にした航空母艦などは保持できないが、戦闘機程度なら保持しても憲法に違反しないという解釈になった。また、理論的には、核兵器や生物化学兵器を保有しても自衛のための必要最小限の範囲内であれば憲法はそれを禁止していない、戦略核兵器はだめだが戦術核兵器は持てる、というところにまでやってきた。

自衛隊の海外派遣についての議論が高まるのは、1980年以降である。1980年の政府見解は①国連軍の任務や目的が武力行使を伴う場合は、自衛隊の参加は憲法上許されていない②武力行使を伴わない場合は参加が許されないわけではないが、自衛隊はそのような任務を与えられていないので、参加できない、とした。

1990年になると、湾岸戦争を機に政府見解が変化する。国連平和維持軍(PKF)などいわゆる「国連軍」への関与には「参加」と「協力」があり、「参加」は国連軍の指揮下に入りその一員として行動することなので、目的・任務が武力行使をともなう場合、憲法上ゆるされない。一方、「協力」は国連軍に対する参加を含む広い意味での関与形態を示すものであり、国連軍の組織の外にあって行う「参加」に至らない各種の支援を含むと解される。こうした参加に至らない「協力」については、国連軍の目的・任務が武力行使を伴うものであっても、それがすべて許されないわけではなく、国連軍の武力行使と一体となるようなものは憲法上許されないが、国連軍の武力行使と一体とならないようなものは憲法上許される、とした。

では、武力行使の一体化とは何か。1997年の政府見解によると、直接武力の行使または武力による威嚇をしなくとも、他者が行う武力行使への関与の密接さから、自らも武力行使を行ったと評価を受ける行為である。神学問答のようであるが、具体的判断として、政府は、イラク人道復興支援特別法で武器・弾薬の陸上輸送は武力行使の一体化ではないので、可能であるとした。武器・弾薬を運ぶ行為とそれを戦闘において使用する行為とは密接に関与していないと判断されると考えたのである。

自衛権をめぐる政府の憲法解釈は、まるで古い温泉旅館の継ぎ足し増築のように、自衛権の拡大をはかってきた。一方で、最高裁判所は統治行為論をお題目にこの問題に対する判断を避け続けた。

背景にあったのは、アメリカの世界戦略の一翼を担ってくれという、アメリカ合衆国の要望だった。最近の際立った例は、2004年7月、当時のアーミテージ米国務副長官と当時の自民党国会対策委員長だった中川秀直との会談だった。この会談で、アーミテージは「憲法9条は日米同盟関係の妨げだ。国際的な利益のために軍事力を展開できないようだと、日本の国連安保理常任理事国入りは難しい」と、集団的自衛権の行使を禁止している憲法9条の改定を促した。

「国連の活動に積極的に参加することは、たとえ結果的に武力の行使を含むものであってもむしろ憲法の理念に合致する」という論理的とはいえない解散狙いの小沢節が今後どんなふうに燃え広がってゆくのか。見ものである。

(花崎泰雄 2007.10.6)
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覆鉢

2007-10-02 22:18:50 | Weblog
ビルマ/ミャンマーで軍事政権批判の大規模デモを行なったビルマ仏教の若い僧侶たちは托鉢に使う鉢を伏せてデモ行進した。

ビルマやタイの上座部仏教では世俗の人は僧侶にお布施をすることで徳をつむ。施しをうける僧よりも、施しをうけてもらう俗人の方が感謝をあらわす程度が高い。そういう約束事になっているからだ。

したがって、托鉢は僧にとって重要な義務である。僧が施しを拒否する覆鉢をおこなったのはきわめて異例である。それは僧が俗人の魂の救済を見捨てたという意思表示である。

ビルマの僧たちの覆鉢はタン・シュエ国家平和発展評議会議長ら軍事政権関係者に対して行なわれた。(ビルマの僧からのアピール

僧の軍関係者に対する覆鉢や軍の僧侶に対する暴行は軍事政権に対する怒りを増幅させた。だが、それだけでは軍事政権はひっくり返らない。

ビルマの軍事政権は権力維持のため、かつてはスハルトのインドネシア統治術を参考にし、いま、北朝鮮型の強固な軍事独裁政権をモデルにしているといわれる。

独裁政権はどのような条件がそろえば崩壊するのか。韓国の軍事政権や台湾の国民党の権威主義政権の交代、フィリピンのマルコス政権の崩壊など、その条件はさまざまであった。

東南アジアで権威主義政権が倒れ、民主化の道へ踏み出した直近の例はインドネシアである。1998年にスハルト政権が崩壊したときは、以下の条件があった。①アジア金融危機によるインドネシア経済の麻痺②国民からの広範な政権打倒運動③スハルト配下の政治家・高級官僚の離反④軍のスハルト見限り⑤国際世論の圧力である。

ビルマのタン・シュエ政権に対しては、いまのところ、国民からの政権批判の声が盛り上がっているだけである。軍事政権崩壊の予兆はない。ビルマの民主化は①有効な経済制裁を行ってビルマ経済を窮地に追いやる②これにより、必ずしも一枚岩ではない軍事政権の内部分裂を呼び起こす(軍事政権が民主化の話し合いに応じる可能性は非常に小さい)③民主化勢力が軍事政権の離反派を呼び込む(フィリピンのマルコス政権打倒のときこの例がある)④マルコスをアメリカが受け入れたように、タン・シュエらの亡命先を用意するといういりくんだ、そのうえ実現性が高いとはいえない道筋をたどるしかないだろう。

タン・シュエ政権はアウンサン・スーチー拘束を非難するアメリカやEUの経済制裁で、経済は順調とはいえない。しかし、天然ガスの輸出でしのいでいる。2006年には20億ドル相当の天然ガスをタイ向けに輸出した。これはビルマの輸出総額の4割に当たる。アメリカとEUの経済制裁も軍事政権にねをあげさせるほどの効果をみていない。

バンコク発9月29日のAPの記事によると、ビルマの僧侶がデモをしていた9月29日、インドの石油相がビルマの軍事政権関係者とガス・石油開発事業の契約書に署名しあった。インドもビルマのエネルギー資源を重視している。インドはビルマに軍事用ヘリコプターを供与する計画があり、EUから批判を受けている。

そのEUのメンバーであるフランスのトタール社も、中国石油化工、韓国の大宇グループなどとならんで、ビルマの天然ガス生産に一枚かんでいる。

これらの収入でビルマは中国から武器を買い、インドから軍用ヘリコプターを買っている。国境をはさんで警戒しあうインドと中国は、ミャンマーの関心を買う競争もしている。ロシアもこの競争に参入している。ロシアはビルマに研究用の原子炉やミグ戦闘機を提供した。

ビルマの主要輸出先は、IMFの2006年の統計によると、タイ(49%)、インド(12%)、中国(5%)で、輸入先は中国(34%)、タイ(21%)、シンガポール(16%)である。

民主主義の輸出に熱心なブッシュ政権は、イラク政策による不人気を、ビルマで挽回しようという気があるようだ。オリンピック開催をひかえた中国にビルマに影響力を行使するよう求めている。

9月29日付のワシントン・ポスト紙によると、私的な意見交換の場で、アメリカの某高官が中国の某高官に対して、中国がビルマに影響力を行使することをもとめ、「新政府への移行をスムーズにするため、何らかのかたちで軍事政権の指導者を受け入れはどうか」と話したという。気の早い話である。

ともあれ、ビルマを変えるには中国を動かすしかなく、中国を動かすためには、人権がらみの政治問題では制裁にしり込みする日本と、アセアン諸国をアメリカやEUとならぶ経済制裁派にひきこんでおく必要がある、とアメリカは考えているようだ。

このように、対ビルマ政策については、国際的な意見の一致が見られていない。ビルマの民主化に向けての影響力行使の入り口にあたる、国際的な意見の一致でもたついている状態だ。先は長い。捨て鉢にならないで、希望をつないでゆくしかないだろう。

(2007.10.2 花崎泰雄)

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