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news commentary

一票

2013-03-28 23:14:34 | Weblog

成年被後見人に選挙権を与えないとする公職選挙法の規定は憲法違反だとする判決が東京地裁ででた。政府は東京高裁に控訴した。新聞報道によると、新藤総務相は「今回の違憲判決が確定すると、全国各地の選挙で直ちに成年被後見人の取り扱いが混乱する」と控訴の理由を説明したが、時間稼ぎのための控訴でもある。

法律はあちらこちらに矛盾を秘めている。民法は「未成年者が婚姻をしたときは、これによって成年に達したものとみなす」(753条)としている。だが、飲酒、喫煙、公職選挙法などでは、成年扱いされない。

逆に、成年後見制度は財産管理を主な目的にしたものだが、その制度を利用すると政治的判断能力の欠如とみなされ、選挙権を奪われることになる。重度のアルツハイマー型認知症で判断能力が希薄になっても、成年後見制度を利用しない限り、選挙権が剥奪されることはない。

もともと選挙権は選別的な権利だった。日本で初めて選挙が行われた明治時代には、選挙権は直接国税15円以上の納税者にしか認められなかった。納税額の多寡にかかわらず、成人男性すべてに選挙権が認められたのは1925年のことで、女性に選挙権が与えられたのはもっと遅れて敗戦後のことである。

「読み書き計算のできない者には選挙権を与えるべきではない」「議員は税を払う人々によってのみ選挙される」「救貧法により生活保護を受けている人、破産者、滞納者には選挙権を与えるべきでない」。このような提言をしたのは、原則的に成年者男女に選挙権を与える普通選挙を主張したJ.S.ミルである。

ミルの主張の背景には、労働者階級の政治進出への懸念があったといわれる。そこでミルは優れた知性をもつ大学卒業者、雇用者、自由職業者らに2票以上の投票権を与える考え方に賛意を示した。このことは1861年に出版された『代議政治論』に書かれている。1861年は日本では文久元年で、坂本龍馬が国事に奔走するため土佐藩を脱藩した年の前年にあたる。19世紀後半の日英の政治文化をめぐる議論にはこれだけの差があった。

シンガポールの元首相リー・クアンユーも、35歳から60歳までの既婚・世帯も持ちの人々には、2票の投票権を与えてよいのではないか、と1990年代の中ごろ記者団に語ったことがある。彼らはシンガポールの経済・社会により多く貢献しているので、かれら自身と子どものための票が与えられてしかるべきだ、という理由からだ。Han Fook Kwang, Lee Kuan Yew: The Man and His Idea, Singapore, Times Editions, 1998に書かれているエピソードで、「いつごろそうした変化が必要になりそうか」と記者が質問すると、リーは「15年か20年後かな」と答えた 。2013年の今、そろそろ変化の時期だが、シンガポールにそれらしき兆候は見られない。

民主政治と衆愚政治は表裏一体である。民主政治も衆愚政治も有権者の一票によってつくりだされる。昨年12月の衆院選をめぐる「一票の格差」をめぐる16の訴訟は、「違憲・選挙無効」2、「違憲・選挙有効」12、「違憲状態」が2となった。

議員にとって最重要な関心は議席を獲得し、獲得した議席を守ることであり、そうした議員が集まってつくった政党の最重要関心事は議員を増やして政権の座に就くことである。したがって、議員にとっても政党にとっても有権者から集める票が自分に有利になるような選挙制度を作り、守ることがまた関心事になる。国会には衆参合わせて700人を超える議員が肥しを撒いてきた地盤にしがみついている。「まだ最高裁がある!」と言わんばかりである。

日本の選挙区選挙が生み出したものは、ジバン・カバン・カンバンの3バン選挙で、それが生み出したものが自民党に多く見られる議員世襲現象である。イギリスには大ピット・小ピットが親子で首相になった例があると歴史で教わったことがあり、合衆国ではブッシュ父子が大統領になった例もある。それにしても、短期間で繰り返された福田康夫―福田赳夫、麻生太郎―吉田茂、安倍晋三―岸信介、鳩山由紀夫―鳩山一郎の、父・子、祖父・孫首相は、摂関時代のような門閥政治で、目に余るものがある。

小選挙区制導入は失敗だった。確かに自民党から民主党への政権交代はあったが、民主党はその出自からして半自民党・第2自民党的性格を持っている。小選挙区制は2大政党制による政権交代と結びつけられているが、逆に日本では今のところ、多党化が進んでいる。

背門閥政治を排除して、政治的知性に満ちた議員を議会に送り込むために、今度は比例代表制を前面に出した選挙制度の実験をやってみる価値はある。

(2013.3.28 花崎泰雄)

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キャパと周恩来

2013-03-17 22:42:37 | Weblog

3月16日の土曜日、写真展「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」を見るために横浜美術館へ行った。

1936年から37年にかけて二人の写真家が共和国軍側からスペイン内戦を取材した写真の前で、中学生らしい少女にその母親がこれらの写真が撮影された時代の歴史を小声で教えていた。

左派の共和国軍、フランコが率いる右派の反乱軍、共和国軍を支援するソ連、フランコを支援するドイツやイタリア。共産主義勢力とファシスト勢力のぶつかり合い。共和国支援のために編成された外国人義勇兵による国際旅団。ヘミングウェイ、オーウェル、キャパたちによる内戦の報道。代理戦争としてのスペイン内戦。

おそらくは高校か大学の西洋史の先生だろうか。母親は行き届いた説明を娘さんにしていた。幸せな娘さんだ。ジャワハルラル・ネルーが獄中から一人娘のインディラに長い手紙を書いて世界の歴史を教えたように、この母親は娘さんに口うつしで歴史を教えているのだった。

それはさておき、私には1938年キャパが中国に渡り、漢口の中国共産党中央委員会本部で撮影した周恩来の写真が興味深かった。周恩来40歳の時の写真である

キャパは1954年には日本を訪れ日本の風景写真を撮った。そのあと、東京からインドシナ戦争の現場へ取材に向かい、地雷にふれて死んだ。

キャパが日本で撮影した日本の風景は凡庸である。報道写真が人の心をわしづかみにするのは、写し撮られた絵の向こうにある歴史的事件の訴求力であることをあらためて痛感する。報道写真家にとっての核心は、機材でもなく、撮影術でもなく、時代を象徴する現場にいかにして立ち会うか、その才覚と運である。戦争の現場に立たないキャパの名は時間とともに色あせ始める。だからキャパは第1次インドシナ戦争の現場に跳び込まねばならなかった。

カール・マルクスの肖像のそばに立つ40歳の周恩来の写真が私を釘付けにするのも、このエレガントな壮年の周恩来が、やがて新中国建国達成から1976年の死に至るまで、『周恩来秘録』などに書かれているような毛沢東との危険な関係から生じた権力の暗部で、生き延びるために砂を咬むような思いで苦闘を続けねばならなかった――新中国は周恩来にとって作品であり、その完成に向けてわが身を削ってでも描き続けねばならなかった――その悲劇に思いがいたるからである。

(2013.3.17)


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F-35

2013-03-04 22:55:00 | Weblog


第2次世界大戦で敗戦国になった日本に対して戦争放棄の憲法を持つように迫ったのも、朝鮮戦争が始まるや否や日本に再軍備を迫ったのも、戦闘機やイージス艦、ミサイルの類を日本に売ったのも、ショウ・ザ・フラッグ、ブーツ・オン・ザ・グラウンドと声をあげて、自衛隊を海外に出かけさせるよう仕向けたのも、みんな、アメリカ合衆国である。

何十年もの間、敗戦国日本は戦勝国アメリカのいいなりに雑巾がけに励んできた――こんな言い方をすると、石原慎太郎の口真似のように聞こえるが、それは、戦後日本の経済復興と繁栄の代償であった。吉田茂が敷いた軽武装・通商国家の路線を自民党政権は引き継いできた。

武器輸出3原則もそうした路線の中でできた原則だ。まだ、日本の政治家の間に、平和国家というイメージが国際的にアピールするという認識があった時代である。

先の野田内閣が、日本と安全保障面で協力関係があり、その国との共同開発・生産が日本の安全保障に役立つ場合、兵器の共同開発を実施する、と武器輸出3原則の例外規定を決め、この3月1日、安倍内閣が次期主力戦闘機F-35の共同開発に参加すると発表した。

その理由は①F-35の使用は日本の安全保障に役立つ②日本の防衛生産とその技術基盤の維持・育成・高度化に役立つ③日米安全保障体制の効果的な運用に寄与する、としている。

ベトナム戦争で米軍がソニーのビデオカメラを使ったスマート爆弾を使ったことがあった。家電製品の軍事応用である。今では多くの人が米国の軍事衛星を使ったGPSのお世話になっている。こちらは軍事技術の民生利用である。

武器の定義は難しいが、さすがにステルス戦闘機F-35となれば、これを武器と呼ぶことに異論のある人はいないだろう。

その武器輸出3原則も、米国向けだけは①武器技術の供与②弾道ミサイル防衛システムの共同開発・生産関係の武器輸出などが例外として認められてきた。これは米国に要求に応じることが、日本の安全保障に役立つという観点からだ。

F-35の共同開発の参加も、これまでの武器輸出3原則の対米例外措置の延長線上にある――という見方は大間違いで、「日本の防衛生産とその技術基盤の維持・育成・高度化に役立つ」と、日本の防衛産業育成を正面切って理由にあげた点が新しい。

尖閣など中国との反目、韓国との竹島摩擦、北朝鮮の核とミサイルなど、四海波高いおり、国民の不安に乗じて、武器商法で世界に販路を拡張しようというたくらみの始まりではないかと疑ってみたくなる。

戦争放棄の規定は原則であるとされているが、あの時代の政治を取り仕切ってきた人々にとってはそれが戦略上の方便であったように、武器3原則も時代の政治環境に合わせた方便だったのであろう。

戦後日本政治の本音とたてまえの間に生じた囲碁でいう「コウ」のようなものが次々とつぶされてゆく。日本の衆議院議員の平均年齢は52歳。憲法の戦争放棄の規定の解除まであと何年残されているだろうか。歴史は進歩するとは限らない。

(2013.3.4 花崎泰雄)

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