ここ数年、南信州の、ありとあらゆる桜の写真を撮ってきた。
特にここ南信州は一本桜が多い。
あちこちに立派な桜があり、
今や、どこに行ってもカメラマンがいて、
SNSやFacebookや雑誌に紹介されていて、
画像がグルグル回っている。
桜を撮るには青空でなくちゃダメ、とか、どの角度が一番きれいに見えるか、とか
この時間に行かなくちゃとか、
桜を愛でる純粋な心がなくなってきた。
父の生まれ故郷の家を壊す事になった。
過疎の集落で、もう人が住んでいない。
誰も住んでいなかった家なのに、いざ壊すとなると寂しいもので、
そんな日の来ることは、父が一番よく知っていた。
山の中の、
鹿やタヌキやイノシシが住人の様に歩き回っているこの土地が、
数年もすると雑木林に変わっていく事は、
言葉にこそ出さないまでも、誰もが感じていた事だった。
十数年前、
父が桜を植えたのは、
桜の根元に一つの石碑を立てたのは、
誰も行かない山の中でも、
1本の桜が生き続けてほしいと思う気持ちからだったと思う。
この地に人が生きたという証を、
残したかった。
それだけだと思った。
石碑には
「布る里の(ふるさとの) 峪のこだまに今もなほ 籠りてあらむ母が筬(おさ)の音」
「さと恋えば、見ゆる恵那山 霞む谷」
と、父と弟が詠んだ句が刻まれている。
山道を上って、上って、
家の跡地の近くまで行ったとき、満開のピンクの花が見えた。
満開に咲いた桜を見た時に、涙が出た。
忘れていた感情を思い出した。
どの桜も、
どの一本桜も、
どんな気持ちで植えられたのだろう。
どれほど長くその地を守り続けたのだろう。
忘れちゃだめだった。