ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

<備忘録>1~3月の 美をめぐる

2012-04-30 03:26:08 | 美を巡る

黄金週間に突入。
今年も、もう3分の1が過ぎてしまいました・・・。早・・・。
以下、書きそびれていた展覧会メモ。

●1月27日(金)国際キルトフェスティバル 2012 (東京ドーム)

  

毎年、足を運んでいる展覧会だが、
昨秋、『花岡瞳のウールをつなぐモダンなバッグ』(高橋書店)の
編集でお世話になった花岡先生の新作を見にいく。
3.11の震災復興への思いから作られた作品は、
異素材の組み合わせがさすが。
小さいながら力強く、希望が伝わってくるよう。

今年の特集企画は、
鷲沢玲子先生の、「不思議の国のアリス」の楽しい世界。
三浦百恵さん、すっかり定番のキルト作家に。

年々、充実度を増していくこのキルトの祭典。
ひと針ひと針、布を掬い、繋いでいく作業はほとんど本能なのでしょうか。
とは思うものの、やはりキルトは「見るもの」です。私にとってはね。


●2月7日(火)テーブルウェアフェスティバル 2012 (東京ドーム)

  

キルト展にひき続き、今度は
和洋を代表するブランドの器がところ狭しと並ぶ大会場へ。
旧知の料理家の先生方をはじめ、話題の有名人による
独創豊かなテーブルコーディネイトのコーナーはやはり目をひく。

連れのS氏と、あーだこーだと言いながら、創作器コーナーを見て歩いた。
言うのは勝手ですが、自分で作れるわけではないですからね。
毎日のことだけに、自分の好みの器に囲まれて暮らす、
あるいは特別な器をひとつ持つという幸せを、ここにくると考えます。


●2月8日(水)「没後150年 歌川国芳」展 
    2011.12.17-2012.0212(森アーツセンターギャラリー)


国芳は大好きな浮世絵画家のひとり。
山本耕史が国芳の弟子に扮して語るというのにひかれて
音声ガイドを借りてみた。
これは、結構はまるいい企画でした。
(借りてみてガッカリということも多々あるので…笑)

大胆精緻にしてアイディアマンであり、商売人でもある。
そして何より、職人。
当時輸入された洋書を資料として描かれた浮世絵など、
さりげなく遠近法を使って国芳ならではの世界を表している。
武者絵、美人画、役者絵など描けて当然、
「魚の心」「金魚づくし」のコメディタッチのもの、
16世後半のイタリア人画家アルチンボルドを思わせる
人体で顔を描いた寄せ絵など、とことん自由自在なところが国芳の真骨頂か。
まさに江戸時代のポップアーティスト!

●2月19日(日)「ルドンとその周辺―夢見る世紀末」展 
    2012.01.17-0304(三菱一号館美術館)
  

縦248.3cm×横162.9cm、
ブルゴーニュのロベール・ド・ドムシー男爵の城の大食堂を飾っていたという
ルドンが描いたパステル画「グラン・ブーケ(大きな花束)」が
三菱一号館美術館にやってきた。
その収蔵記念の展覧会。
残りの15点はオルセーにあるというから、これが日本にあるということが、すごい!

薄暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる、巨大な装飾画。
中央の青い大きな花瓶からふわりふわりと零れ落ちんばかりの花、花、花。
見とれるあまり、もし食堂にいたら、食べることを忘れてしまいそう?(笑)

不気味な石版画、黒のイメージの強いルドンだが、色彩画へと移行していく様子が
わかりやすく展示してあった。
ルドンは1840年、フランス生まれ。印象派の巨匠・モネと同じ年だ。
屋外の光を求めた印象派の画家たちが始めた印象派展にルドンが参加したのは
最後の第8回展。このとき、モネやルノワールらは参加していない。
この展覧会へのスーラやシニャック、ルドンらの参加参加は、
印象派運動の終焉と新しい傾向の画家の登場を知らしめた。
ルドンは、観念的な世界を描く象徴主義の画家といわれるが
晩年の色彩画も尽く幻想的で妖しげな世界にいざなわれるよう。

モロー、アンリ・ファンタン=ラトゥール、ムンク、ベルナール、ドニら
お馴染みの象徴派の画家たちの展示も充実。
平面的な色面をはっきりした暗色の輪郭線が覆うクロワゾニスム絵画の代表作、
ベルナールの「ポンタヴェンの市場」(岐阜県立美術館蔵)が見られてよかった。

●2月29日(水)フェルメールからのラブレター展 
    2011.12.23-2012.03.14(Bunkamura ザ・ミュージアム) 


フェルメールが来た!といえば大挙して押し寄せるイメージが
どうも拭えない昨今であるが、
この展覧会は「手紙を読む(書く)~」女を描いた
フェルメールの3点の絵を目玉にしながら、
17世紀オランダ絵画から人々のコミュニケーションを読み解くことが主題。
タイトル勝ち?な気もしなくもないが、
フェルメール以外の画家たちが描いた
最も栄えた17世紀のオランダに生きる人々の日常生活が、
そこに描かれている人々の服装、仕草、表情、居住空間から垣間見えて
面白い企画展だったと思う。
ヤン・ステーン、ピーテル・デ・ホーホらを除けば
初めて聞く名の画家が多くて、新鮮で、見応えがありました。

識字率の高かった17世紀のオランダでは、
「手紙の文例集」が相次いで刊行されたそうだが、
古今東西、人間が考える出版企画って、そう変わらないのね。

●3月23日(金)「野田裕示 絵画のかたち/絵画の姿」展 
    2012.01.18-04.02(国立新美術館)

野田裕示(のだ・ひろじ)は、ひたすら「絵画」にこだわっている。
「絵」で、どのような表現をするか。
何を考えながら制作しているか感じ取ってほしい、と言う。

枠にはめられたカンヴァスに色をのせることだけではなく、
飛び散った絵の具も「絵画」の一部。
「絵画」の本質を問うために、箱状の作品を作ったり、
ものを袋状に覆う作品を作ったり、やがて
カンヴァスを縫い合わせて重ねていくという手法で絵画を表したり。
絵画という枠の中(実は枠なんてないのかも?)の表現の自由さに
ちょっと混乱しそう。

切り出した石の切断面に、強烈な色彩で彩色された物体。
彫刻家の岡本敦生氏とのコラボレーション作品はとてもユニークだ。
これもまた「絵画」のひとつの形?

ひとりの画家の「現在進行形のかたち」を目の当たりにした、貴重な時間でした。

●3月24日(土)国立能楽堂 3月公演
・時の鼓:村瀬和子(詩人)
・長刀応答(なぎなたあしらい):野村万蔵
・籠太鼓(ろうだいこ):本田光洋

朝から雨。
普及講演ということで、最初に詩人の村瀬和子さんから演目の解説があった。
上品な着物姿で能舞台の中央に立ち、
おだやかな口調で「時」に関する解説を端的に述べられることにまず感心する。

旧暦では時刻を十二支で表していたこと。
天智天皇が日本で初めて作らせた水時計で時を計り、
太鼓で知らせたのが、壬申の乱の一年前であった。
丸を描いて時を割り、
それを4つに分けて30分毎に鐘や太鼓で時を告げていたということなど。

「なぎなたあしらい」という言葉を、村さんのお祖父様は使っていたそうな。
つまり、なぎなたで相手を扱うように、受けつ流しつして適当に相手をあしらうこと。

その言葉を勘違いした太郎冠者は、
花見客に向かって本気で長刀を振り回す・・・楽しい狂言。

「籠太鼓」は、本来「牢太鼓」と書くそうだ。
殺人を犯して牢破りをした男の妻が、
夫の身替わりに牢に入れられて、合図の鼓である時の太鼓を打つ。
もの狂いとなってひたすら夫を思い、鼓を打ち続け、
最後には夫の罪をも赦されて、夫の元へ帰っていく、
能には珍しいハッピーエンドの話。

最初の村瀬さんのような解説が、
普及公演だけでなく、いつもあれば、
素人には大変ありがたいと思うのですが・・・。

表に出ると、からりと晴天。

いのちをつなぐ「生きる形」

2012-04-26 02:33:44 | 美を巡る
120419.thu.

東京大学総合研究博物館特別展示「生きる形」展の内覧会&レセプションへ。
赤門横にある伊藤国際学術研究センターは
4月1日にオープンしたばかりの新しい建物。
その杮落としとして催されているのが、この展覧会だ。



階段を下りていくと、
光と影とが織り成す「骨」と「いのち」の世界が待っていました。
枠組、いえ、額縁に収められた個体としての、さまざまな骨、骨、骨。
これは脊椎、健康国、大腿骨、骨盤、肋骨・・・・??
そして、この大きさからすると、元の体は象か、鹿か、狸か・・・???
2年前の「命の認識」展のときと同様、展示物には一切の表示はない。
私たちは、ここでは、持てる知識を総動員して想像しなくてはならない。
いや、想像して、妄想を膨らませるのでもいいのかもしれない。
なぜなら、展覧会ってこういうふうに見なくてはいけない、なんて
決まってないのだもの。

それにしても、飽きない。
骨ってなんて美しいの?

余談ですが、2009年7月に見に行った
ミッドタウン・ガーデン内にある21_21DESIGN SIGHTでの
「骨」展が思い出されました。
このときは生物の骨だけでなく、工業製品からカラクリ人形まで網羅されていたが、
圧巻は、写真集『BORNS』にも収められたモノクロの骨の写真の美しさだった。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4152089334/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books
・・・はっ、私、もしかして、骨フェチだったのかしらん?(笑)
骨壷展(すごいネーミングだ)とかにも行ったことあるしね・・・。

えっと、それはさておき、
骨だけでなく、感動したのは今回の展示方法ですね。
骨の向こうに影があり、そこから立ち上ってくるなにやら不思議な存在。
まるでもうひとつの「いのち」のような。

 

そして、キリンの真っ二つの頭蓋骨を先頭に、
イノシシやらワニやら様々な動物の頭蓋骨の海!のなかに
妖艶に輝くマンモスを模したような頭蓋骨!?
松岡象一郎氏作、光ファイバーシリコンを使ったオブジェが3体。
・・・美しいです。



そんなアーティスティックな「光と骨と」のコーナーのほかに、
日本農業工業株式会社から寄贈された貴重な鶏の剥製、
東大が所蔵する忠犬ハチ公の心臓や肝臓の標本、
二頭体の牛の頭蓋骨などを展示した「魅入られた命」のコーナー、
それから、人間の肉体の上に動物の骨を投影して合成した写真家、
山田昭順氏の作品に囲まれた「いま、人間の生へ」のコーナー。



これら、限りない遺体の連鎖、それを輝かせる造形の思索、
そしていまを生きる人間の美。
それぞれが命の額縁を得て、確かな連絡を見せるはず、と
本展総監督でもある遺体解剖学者・遠藤秀樹教授は言う。
私たち来館者が、無数の命の形と対峙し、
命を認識するという苦悩に追い込まれていくことで、
「生きる形」展はまた新たな世界を築くだろう、と。

今回の展示を見た人から
「科学とアートを融合させたのですね」と
よく言われるのだそうだが、そうではない、と遠藤先生。
学が求めるのは、常に理(ことわり)と美である。
その理と美とは常に、
ダ・ヴィンチのいたルネサンスの頃から一体であった。
確かに、その通り。
いつの間にか対極にあるように思われているが、
本来は同じ場所にあるものなのだ。

遺体解剖学とは、死体に手を入れてその先の美を見つけることだ、
という遠藤先生のスピーチにドキリとした。
その先の骨にも、美は受け継がれていく。
美とは「いのち」そのものでもあるのではないか。
そして、いのちを宿していた骨に、
私たちは我が身の行く末を見るのだ。

展覧会とはこういうもの、という既成概念を、
またしても覆してくれた
とてもユニークで密度の濃い空間です。(9月1日まで。)

2時間近くじっくり鑑賞したあとは、
会場で会った編集仲間で、自然愛好会仲間のO嬢と
本郷のベトナム料理店ミュンでちょっと早い夕ご飯を食べて帰宅。

★ご参考までに2年前の「命の認識」展の記録を・・・
2010.01.28
「いのちを認識する」
http://blog.goo.ne.jp/ezn03027/e/23e117d8a99bdf716fc38f2a94113f00

「いのちの行方」
http://blog.goo.ne.jp/ezn03027/e/1d0a50315437eda13624e3c87cfc73b4