ペーパードリーム

夢見る頃はとうに過ぎ去り、幸せの記憶だけが掌に残る。
見果てぬ夢を追ってどこまで彷徨えるだろう。

井月さんとの不思議なご縁

2012-04-02 15:56:41 | 暮らしあれこれ
120324.sat.


<信州の北に一茶あり、南に井月あり!>

映画関連書『井上井月と伊那路をあるく~漂泊の俳人「ほかいびと」の世界』
の帯にあるとおり、井月は江戸時代末期から明治にかけての三十年ほどの間、
南信州を放浪してひとびとに俳句の手ほどきをし、
乞われれば学問を教え、書を与えた。
生まれは新潟の長岡藩の武士だったようだが、はっきりとはわかっていない。

伊那出身の北村皆雄監督が
井月の愛好者たちが集めた膨大な句や逸話をもとに4年の歳月をかけて、
謎の俳人・井月が生き生きとよみがえらせてくれた。
出演者は、主演の田中泯さん以外は全員地元の方々なのだとか。
そうとは思えない自然な演技(演技ではなく「地」のでしょうね・笑)と
懐かしい方言、故郷に共通する人々の素朴な表情、
そして当たり前のように在る山と谷と野。

実際にあったであろうお祭りのシーンの再現や
村人と井月さんの交流はもちろん、
その井月さんが現代の路地裏や田んぼに佇んでいたり
現代の泯さんが井月の墓や辿った道を歩いてみたりと、
フィクションとドキュメンタリーを入れ子にしたような
不思議な構成が、なんの不思議もなく展開される。
ぼろぼろの着物をまとってふらつく痩せた長躯の俳人と
サイケなストールを首に巻きつけ革ジャンを着た現代舞踊家は
一体となって、私の心に飛び込んできた。
(もとより私は泯さんの大ファンですので・・・当たり前なんですが)

映画初日24日の舞台挨拶で、主演の田中泯さんがこうおっしゃった。
「撮影中、何度もいろんな人から「何をやっとるの?」と聞かれて
 「井上井月の映画を撮っています」と答えると、
 「ああ、井月さんかな」と、全員が納得して頷いてくれた。
 こんなにも地元の人に親しまれている人だった。それがすごいと思いました」

武芸は当然、俳諧、和歌、漢学、洋学あらゆることに学識があったにもかかわらず
井月は、経歴を語らず、定宿を持たず、
野ざらしとなって消えるを本望としていた(ようだ)。
しかし、大地主・下島筆次郎はその才を見抜き、村人たちは競って教えを乞うた。
そうして次第に、伊那谷のこの地が、全国にも類を見ない俳諧の地となっていった。

だが、酒飲みで汚らしい井月は子どもたちから石を投げられ、
乞食と呼ばれてからかわれた。
ここでは「ほかいびと」=乞食者ということのようだが、
本来は、ほかい」(寿・祝)、祝福することを生業とする人のことで、
呪言や寿詞を唱えて、健康や五穀豊穣を祝う信仰の担い手のことなのだとか。
井月が17文字の中に、伊那谷の自然、人々の生活を詠み、
子どもが生まれれば祝いの句を、死者が出れば追悼の句を置いていった姿は
まさに「ほかいびと」と重なるのである。

亡くなる直前に、六波羅霞松に起こされて、辞世の句を詠むシーンは圧巻。
  <何処やらに鶴(たづ)の声聞く霞かな   井月>

映画はここで終わるが、
『漂白の俳人 井上井月記』(中野三好著/彩流社刊)によれば
上句は辞世の句ではないと皆から落胆され、
次第に井月の名も忘れられていったようだ。

時代は下り、大正に入る。
東京で芥川龍之介の主治医となっていた下島筆次郎の子息・勲が
文学者との交流のなかで、井月の句集を編纂した。
芥川が跋文を書き、高浜虚子、内藤鳴雪、寒川鼠骨、小沢碧童が
賛の句を寄せるという堂々たるもの。
この『井月の句集』に衝撃をうけた俳人の一人に
種田山頭火がいた。

その山頭火が、昭和9年4月、井月の墓参りのため信州を目指したときのこと。
木曽路から中央アルプス・清内路に泊まった後、
不案内の山路をたどって鳩打峠を越えて飯田にたどり着いた。
飯田では、そのとき、荻原井泉水主導の新俳句層雲の誌友の集いがあり
私の母方の祖父・下島有輔もその席にいたらしい。
疲労と風邪で倒れこんだ山頭火を、
鍼灸医であった若き日の祖父が診療に当たった、と
自伝『空―くう―』には書かれている。
(私が井月や井泉水や山頭火の名を意識したのはここから)

祖父はこのときのことをこんな歌に遺している。

    <木曽路より山越えてきし山頭火飯田に病みて我のクランケ>

    <井月の墓参はたせず旅に病む山頭火のゆめ荒野かけたり>

   ※ちなみに、祖父の下島姓は偶然同じだが、井月を世話した
    伊那の下島家とは関係ないそうです。
    母に聞いたところ、それがご縁で、
    現在の下島家当主の家に行ったことがあるとのこと。
    これも不思議なご縁ですねえ。

肺炎を起こしていた山頭火はそのまま入院、井月の墓参は叶わなかったが、
6年後の昭和14年5月に再び来伊、伊那の美篶村へ行って
ようやく念願を果たすことができた。
墓石に酒をかけ流し、井月に供えた酒を飲み、
何度となく山頭火は井月と酒を酌み交わしたのだという。

   <月さヽぬ家とてはなき今宵かな   井月>

   <なるほど信濃の月が出てゐる   山頭火>


山に囲まれた自然だけはあふれるほど豊かな鄙びた土地に住む人々が
漂泊の謎の俳人を受け入れて、共に生きた時代があったということに
深い意味があるのだと思う。
明治になり、戸籍制度の取り締まりとともに、
井月のような生き方は否定されるようになる。
そうした生き方に沿い、助けることすらも拒まれる時代に
私たちはいま生きているのだ。

高遠の桜もきれいに咲く頃になりました。
もう一度、井月さんを見に行こうと思っています。