マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中山道行6日目(倉賀野宿)

2017年12月16日 | 街道を行く

2回目の中山道行を中山道行(倉賀野宿)と書く代わりに、日本橋を起点にして通算すると6日目に当たるのでタイトルを「中山道行6日目(倉賀野宿)」と書くことにした。
 11月8日は新町の宿を朝8時に出発し、倉賀野宿→高崎宿→板鼻宿→安中宿と巡る23.1km、歩数にして約4万歩の旅。ゴールの安中からは信越本線で帰路についた。ただ夕食は、前日の新町駅付近は懲りていたので、高崎で途中下車し駅ビル内の寿司処で疲れを癒した。(写真:英泉画:倉賀野宿 烏川之図)

 烏川を越え、二俣に分かれた高崎線を跨ぐと程なく倉賀野宿だった。中山道第13次の倉賀野宿の印象は全員が絶賛するほどの好印象。かつての宿(しゅく)に入っていくと直ぐに中山道と日光例幣使街道の分岐点があった。家康は死後日光の東照宮に祀られた。例幣使と呼ばれた京都の公家一行は東照宮に参拝する為、ここ倉賀野まで中山道を通り、ここからは日光例幣使街道で今市へと向かった。例幣使との名を聞くと立派そうに聞こえるが、かつて読んだ『夜明け前』での評判は芳しくない。それは兎も角、その分岐点には閻魔堂と分岐塔が建てられていた。

  

 分岐点を過ぎ、「丁子堂 房右衛門」で、熊倉さんの奢りで豆大福などを食していると、店員さんから「その先にお休みどころがあります」と言われ、「倉賀野おもてなし館」に入館しようとしたが、まだ開館時刻10時前で、戸は閉まっていた。私は未練がましくガラス戸越しに中を覗くと、その姿を目にしたらしく、開館前なのに係の人が戸を開けてくれて「どうぞお入り下さい」と。お茶の接待を受け、倉賀野宿やこの商家の歴史などを聞いた。
 高崎市は古商家・大山邸を貰い受け、旅人の憩いの場として、平成27年7月1日に「倉賀野おもてなし館」を開館した。開館してまだ2年余り、おもてなしの精神に溢れていて、心の籠った接待に私達は気分爽快になった。倉賀野の好印象はここから始まった。

 烏川は利根川の上流。ということは、ここ倉賀野は利根川水系の最上流。河港を有し、宿内人口は2千人を越え、大いに繁栄したそうな。牛馬で運ばれて来た上信越の物資はここから江戸へと運ばれ、水陸交通の要衛だった。係の人が「倉賀野宿は高崎宿より賑わっていた」と語るのも頷けた。ただ信越本線が開通し水運が衰退するとともに倉賀野宿の繁栄も終わりを迎えた。(写真:下も街道筋のお屋敷)

 その話を聞いてから街を歩くと、かつての繁栄を今に残すかのような、豪華なお屋敷が点在いることが”なるほど”と納得出来た。ここまで12の宿を通って来たが、その繁栄ぶりは一番豪勢に見えた。

 英泉画には水路や水門が描かれている。街には「五貫堀」の遺構も残っされていた。この旅では烏川まで行けなかったが、近々に河岸跡や五貫堀跡を訪れて見たい。


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