カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

作曲家・浅井暁子氏

2008-06-23 15:37:13 | Weblog

日本の作曲家メモです。。。

作曲家・浅井暁子氏(金沢大学人間社会学域学校教育学類准教授)
http://blog.livedoor.jp/blumenk/archives/12708926.html

1977年静岡県生まれ。
3歳からヤマハ音楽教室に通い、ピアノを6歳より始める。椙山知子氏の指導・影響下にて、創作のおもしろさを見つけ、同教室のジュニアオリジナルコンサートにて意欲的に作品を発表。中でも「飛竜」は、ニュー・ワールド・シンフォニー、チェコフィルハーモニー、フランス国立放送交響楽団、仙台フィルハーモニーと共演。指揮者マイケル・ティルソン・トーマスの知遇を得て、PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)にも招待された。

大学入学以前に和声学、対位法、管弦楽法などを学ぶ。また偶然テレビで目にした「ビデオダンス」作品に衝撃を受け、以来様々な空間における独自の「音」の在り方を探求している。

2001年東京藝術大学音楽学部作曲科卒業(在学中は、佐藤眞氏に師事)。
2002年夏に渡米しニューヨーク大学大学院に入学。
Certificate of Recognition for Outstanding Leadership in Graduate Music Compositionを二年連続受賞。
2003年 NYU Orchestra Composition Competitionにて優勝。
2003年7月、ルーマニア コンスタンツァにてオーケストラ作品「貪」がOlga Danovski Ballet Theatreによって舞台初演される。
2004年春、The 2004 NYU Graduate Music Composition Awardsを受賞し同大学院修士課程を修了、卒業公演としてWilliamsburg Art & Historical Centerにて発表した自作の能オペラ「マクベス」が国内外のメディアに注目され、各地で再演が期待されている。

2005年、混声合唱団ブルーメンクランツ第2回定期演奏会のための作曲委嘱を受ける。

現在、金沢大学人間社会学域学校教育学類准教授。

[代表作品・活動]
2004年 NOH-OPERA "MACBETH"
2002年 混声合唱組曲「月慕」~李白の漢詩による~(合唱活劇集団「風鈴花山」委嘱)
2002年 ピアノソロ組曲「Love Letters」~朗読とライブ演奏のための~(合唱活劇集団「風鈴花山」委嘱)
2002年 ダンスパフォーマンス"ある日"vol.2にて音楽監督を務める(振付家上原智子、竹澤薫両氏による委嘱)
2001年 初のビデオダンス作品「儚し」が第15回ひたち映像コンクール自由部門で優秀賞を受賞。(朝倉千絵振付け協力)
1999年 バレエ組曲「不思議の国のアリス」~室内オーケストラのための~(甲斐ひかるバレエアトリエ委嘱)

 *****

能とオペラの融合(3月28日)
(by dognorah氏 | 2006-03-30 02:07)
http://dognorah.exblog.jp/3723152/

N-Operaという能とオペラを融合させた舞台(マクベス)のロンドン初公演を見ました。日本人の演じる能と欧州人の独唱者、欧州人と日本人による合唱とアンサンブルが見事に調和してとてもすばらしいパフォーマンスでした。場所はRoyal College of Musicの中のBritten Theatreです。

作曲:浅井暁子
台本:Kazuko Matsuoka
演出:Kan Yuki
照明:Miwa Sakaguchi
衣装:Kana Hashizume

出演者
マクベス
 能:Ryoko Aoki
 テノール:Tyler Clarke
マクベス夫人
 能:Shintaro Ban
 ソプラノ:Kimberly Robinson
マクダフ
 能:Hiroko Akai
 バリトン:Håkan Ekenäs
バンクォー
 能:Maiko Aoyagi
 バス:Lukas Jakobczyk

合唱
Maho Ino (S)、Eva Karell (S)、Susanne Hawkins (A)、James Armitage (A)、Hiromitsu Maeda (T)、Ben Eastley (T)、Alan Tsang (B)

器楽
Makiko Nishio (Percussion I)、Nicholas Reed (Percussion II)、Eri Kaishima (Percussion III)、Andrew Aaron (Piano)

指揮:Sofi Jeannin

舞台は蝋で作った白い柱が7-8本立っている(Wax Art by Yoshiki Ban)以外は後ろの蝋柱数本をを隠す紗のカーテンが上下するのみの簡単なもの。

幕が上がると、マクベスは黒の羽毛で作ったと思われる衣装で座っている。能面は前においてあるがマクベス自身による謡が終わるまでは装着しない。マクベス夫人は同じデザインで赤色、バンクォーとマクダフは白い装束で、この3人は能面はつけない。髪の毛はすべてヴォリュームのあるものがデザインを違えて付けられている。

筋はシェイクスピアの原作にほぼ準拠しているが、歌詞による説明が主で能役者の舞台上の行動は単純化されている。歌詞はすべて日本語で、英語字幕が出る。
感心するのは歌手がほとんど非日本人なのに独唱者も合唱も結構日本語がよく理解できること。筋の進行に従って奏でられる音楽はよく出来ており、能役者の動きも美しく様式化されて、休憩なしの1時間半のパフォーマンスに集中できました。最後のマクベスとマクダフとの一騎打ちの動きもなかなかすばらしいものがあります。なお、マクベスの衣装には進行と共に白い羽がどんどん刺さっていき、最後に討ち取られたときには天井からどさっと大量の白羽が落ちてきます。黒いマクベスの勢力がマクダフの白に圧倒されていく様を表しているのでしょう。

ところでマクベスとマクベス夫人をやる人が男女入れ替わっていますが、ロンドン在住の能役者Aokiさんが主役をやるということでこうなったのでしょうか。

これは既に東京とニューヨークで上演されており、昨年夏にロンドンでお会いした作曲家の浅井暁子さんから、ロンドンでもやりたくて準備している、という話を伺っていましたが、多くのバリアを乗り越えてここまで持ってこられた皆さんの努力には敬意を捧げます。特に、ロンドン在住の非日本人歌手によるパフォーマンスにこだわっていらっしゃった浅井さんの希望がほとんどかなえられたものの、かなり困難なことであったこととお察しいたします。

思えば、昔東京で初めて能というものを鑑賞した時、西洋のオペラをとことん昇華させると能という様式に到達するのではなかろうか、と感じたことがあります。こうして目の当たりにこういうパフォーマンスを見ると、自分の直感は大きくは間違っていなかったのではないかと思います。

最後に、このBritten Theatre、初めて経験しましたがとても立派な劇場で、さすがにロンドンを代表する音楽大学だけのことはあるとひたすら感心しました。オーケストラピットも舞台も広く、客席もこじんまりながら馬蹄形の席配置でランプなどの装飾も凝っています。ストールから天井桟敷まである点も一流劇場並です。座席数約400。

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高田商会

2008-06-23 13:33:20 | Weblog
 最近読んだ興味深い一冊。TBS出身のノンフィクションライター、鈴木明氏の書かれた「追跡―一枚の幕末写真」(集英社、1984/07)。その中に、著者の鈴木氏がパリに住んでいる「高田商会」創業者子孫に会いに行くエピソードが綴られていました。

Amazonサイトより
http://www.amazon.co.jp/%E8%BF%BD%E8%B7%A1%E2%80%95%E4%B8%80%E6%9E%9A%E3%81%AE%E5%B9%95%E6%9C%AB%E5%86%99%E7%9C%9F-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E6%98%8E/dp/4087724921
 幕末戊辰戦争の最終戦・五稜郭の戦い前夜、箱館で写された一枚の写真。仏軍人と幕府士官、それぞれ4人が写っていた。8人によって醸しだされる何ともいえない信頼と親しみの雰囲気。いったい彼らは何を話したのだろうか。日本人武士とガイジンとの束の間の出会いに秘められた歴史の影にはナニがあったのか―。一枚の写真に写された男たちの会話を聴きとるために追跡が始まった。一枚の写真が明かしたもうひとつの幕末とは果して何か。
(レビュー記事)
 昭和54年の冬、著者は市立函館図書館で一枚の写真に出会う。その写真は複写ではない、額の中にガラスと板の間に挟まれて大切に保管されていた本物の写真で、箱館戦争に於いて榎本軍に加担してエゾ地に集まったフランス軍人4人と旧幕府軍士官4人の集合写真だった。著者はある偶然からその中の一人の日本人が「田島応親」という人物であることを知る。この人を軸にして著者はそこに写された人物が誰であるのかを追跡していく。
 その過程でわかったことは幕末に来日して日本に魅せられたフランス人と彼らと関わりを持った旧幕府の人々との明治になってからも続く濃密な関係であり、明治という時代の息吹きであった。出てくる人物は決して有名ではないが、戊辰戦争で戦い生きのび、一度は無価値と認めた「明治」という世界に生存していったのだ。箱館戦争という夢を追った男達の奇跡のような出会いを写した写真に魅せられて、著者はフランス本国まで取材に行き、その子孫を訪ね回る。あまり知られていないが、良質のノンフィクション作品です。

 *****

 国立科学博物館のサイトの中に「産業技術の歴史」というコンテンツがあります。そこには、ジョサイア・コンドルの設計で明治33年5月、東京の湯島三組町に竣工されたという「高田商会創業者高田慎蔵邸設計図」の写真があります。

高田商会創業者高田慎蔵邸設計図(ジョサイア・コンドル設計)(京都大学建築学教室所蔵)
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=102210261592&APage=543

 *****

「系図でみる近現代」
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・高田万由子(08.5.26記)
http://episode.kingendaikeizu.net/44.htm

(前略)
高田慎蔵は、三井物産創業者・益田孝と同様、佐渡の出身であった。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、明治3年、19歳で上京し、外国人商会に勤めた。以後10年間で貿易実務に習熟し、大きな働きぶりで、蓄えも増やしていった。
いづれ独立を考えていた矢先の明治13年、外国人の商売が厳しく制限され、政府は諸官庁に対して、外国商から物品を直接購入する事を禁止した。
そのため、勤めていたベア商会は行き詰まり、明治の初めより来日して貿易商を営んでいたドイツ人、ミカエル・ベアは、撤退・帰国した。
高田慎蔵は、その資産を継承し、ヨーロッパの大手メーカー数社の輸入代理店として動き出した。
当初は、先発の三井物産や大倉組との売込み競争が激しく、一時、大きな損害をこうむったが、持ち前の忍耐力で難関を切り開いて行き、明治の三大貿易商の一つとまで言われる高田商会に発展させていった。
高田商会は、機械・船舶の輸入に実力を発揮し、当時、機械輸入高では、日本の商社中、最大といわれた。
高田商会は、明治20年代には、きわめて洗練された商社へと成長を遂げて行った。東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。
高田商会は、大学卒の技術者を多数雇い入れ、ロンドン、ニューヨーク、上海などにも支店を置き、海運・土木建築・不動産取引・鉱山業・機械製造などにも事業を拡大した。
日清・日露両戦役では、武器・爆薬・機械の調達で巨利を博し、貿易商としての地位を磐石のものとした。
明治41(1908)年に、合資会社に改組した他、傘下の事業を高田鉱業などの株式会社にして、小規模な財閥を形成するまでになった。
第一次大戦が始まる(1914年)頃、日本で電気事業が発展したが、高田慎蔵がウェスティングハウスの日本総代理権をもっていたところから、高田商会の利益はほとんど独占的となり、機械の値上がりによる利益は莫大なものとなった。
政財界の大物との交遊も広がり、同郷の益田孝(三井財閥大番頭)がつくった、美術品を鑑賞しながら茶をたしなむ大師会の重要メンバーとしても重きをなした。
益田の三井が、鉄・食糧など基幹産業に集中していたのに対し、高田商会は精密機械、電気の絶縁材料などに集中し、東京の都市電化へ貢献した。特に建築に力を注ぎ、高田商会本店(麹町)、自邸(本郷湯島)、別邸(赤坂表町)は、鹿鳴館を設計したコンドルの設計であった。
さて、高田慎蔵の後継者のことに話を移そう。
田中平八、「天下の糸平」と称された彼は、一般的に“相場師”として知られるが、実のところ、明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった。
明治39年、高田慎蔵は二女・雪子に、その田中平八の三男、田中釜吉を婿養子に向かえ、高田釜吉とした。
高田釜吉(明治9年生)は、明治25年、ドイツに留学し、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、技師として売り出し中であった。
慎蔵は釜吉に一目惚れして、この男こそ高田商会を任すに足る人物と見抜き、娘婿にするとともに、明治42年、副社長に就任させた。そして、大正元年には、采配を譲り、56歳で慎蔵自らは、顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一技師であった高田釜吉は、いきなり、副社長、そして、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充を図る一方で、花柳界に出撃する回数も増え、その豪遊ぶりから、花柳界では、「釜大尽」と称された。
また、社員たちが、取引先を接待するという名目で料亭に繰り込む風潮が広がり、驕りの気風が高田商会を蝕み始めていた。
欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが、大正10年12月、慎蔵が69歳で病没、この辺りから、高田商会の雲行きが怪しくなっていく。
大正12年4月、基幹鉱山であった高田鉱業深田銅山の工場が全焼する事故が起き、そして、9月の関東大震災で、屋台骨が大きく揺らぐ。
輸入品在庫は焼失し、欧米から思惑輸入した各種物資がその後の円相場急騰によって暴落。加えて、帝都復興には、膨大な木材が必要になると睨んで、秩父の山林を買い占めたが、アメリカ等から、大量の安い材木が日本に流入、大赤字となった。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会の経営危機がささやかれるようになり、そして、大正14(1925)年2月21日、高田商会は破綻・休業するに至るのである。
現在では、高田商会という大商社があったこと自体、知る人は少ないであろう。
(後略)
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筆名

2008-06-23 07:55:21 | Weblog
 昨日、お寺のお手伝いをさせて頂いているときに、奈良のとある歌の会に最近入られて短歌を始められたお寺の奥さまが掃除の手をふと止めて「河村さんは歌を詠むときに筆名を使われますか」と言われました。「筆名ですか。使っていないです。私は歌を詠むときはずっと本名でやっています」と私は答えました。「なぜですか。本名だと恥ずかしくないですか」奥さまにそう問われて、筆名についてあらためていろいろ考えさせられました。

 最近、ブルガーコフを読むことが多いです。古賀(ふるが)こふ。唐突に思いついた筆名その1です。

 書いていることをひとに知られたくなくて筆名を使うこともあるかもしれません。私は今のところ筆名を使うことを考えていませんが、将来使うこともあるかもしれません。
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弁護士川原俊明氏のブログ記事

2008-06-20 12:18:08 | Weblog
 川原弁護士の書かれているこのご意見に、私も共感を覚えます。朝日新聞のこの記事からはいろいろな問題を考えさせられます。



弁護士川原俊明氏のブログ記事より。
《鳩山法相は、「死に神」なのだろうか》
http://blog.goo.ne.jp/e-bengo/e/2eac2cbbb5ad5f46e4b4542ba8ba5cf4

(以下、引用させて頂きます)

 連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚に対するマスコミの評価で、気になる表現がありました。平成20年6月18日付け朝日新聞夕刊「素粒子」欄です。
「永世死刑執行人 鳩山法相 またの名、死に神。」
 三流週刊誌の表題なら、軽く受け流す私も、全国紙を代表する新聞社が、こんな表現をしていいのだろうか、と疑問を持っています。
 鳩山法相が、在任中最多の13人の死刑執行に署名したことをもって、この表現をされたのでしょう。
 しかし、現在の日本の刑法では、殺人罪などの凶悪犯罪に対し、明らかに死刑に処すことがあることを、明記されています。
 裁判所は、事件の諸事情を勘案し、相当の勇気を持って死刑判決を言い渡しているのです。死刑判決が確定した死刑囚に対し、死刑執行をするのは、法律に基づいたものであり、時の法務大臣は、死刑執行の義務があります。
 私は、多くの刑事弁護を手がけておりますが、犯罪に応じた適切な処罰は、当たり前のことです。不適切な処罰に対しては、敢然と検察に立ち向かいます。
しかし、当該犯罪に相応する処罰であるならば、むしろそれが本人の更生につながるのです。それによって社会が良くなると思っています。
 刑事事件における弁護士の仕事は、適切な量刑を求めることであり、被告人の量刑が単に軽くなればいい、と考えるのは間違っています。
 そんな勘違いしている弁護士の多いことも問題です。
 法律に基づいた死刑執行を非難するならば、法律を無視していることと同じです。法律の内容が不適切であれば、法律改正を考えるべきであります。
 マスコミの議論は、次元が異なります。
 東京の秋葉原での無差別殺人事件を見ても、最近の人の心の中に、相手を思いやる気持ちがなくなっているのではないか、あるいは少なくなっているのではないか、と心配しています。人は、100人いれば、100人とも、その背後に愛する家族があり、その人の過去未来の人生があります。
 そんな人の命を簡単に切り捨てる者は、人間の皮を被ったケダモノにすぎません。人の命を無残に奪った者の人権が尊重されて、被害にあった家族の苦しみは、どうして報われるのでしょうか。
 朝日新聞の前掲記事は、遺族の心を逆なでするものとしか思えません。(以上)
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Harp and Flute

2008-06-20 07:50:51 | Weblog
 今朝は6時過ぎに起床。起き抜けの朦朧とした頭の中(?)、ハープ(とフルート)の奏でる、たぶんニ長調のすごくきれいなメロディが聴こえてきて(なんとなくドビュッシー風)、慌てて顔を洗って音楽ノートとペンを取出し、一時間近くかけてメモする。

 給料日前日の昨日は、所持金すべて(?)をはたいて色紙やらお菓子やらいろいろと買い込み、幸綱先生歌会に出席。すってんてんになって帰宅。大野道夫先生の本郷短歌会も昨日ありましたが、そちらには出席かなわず。
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VIVAVIVAVIOLA

2008-06-18 22:41:20 | Weblog
 コンサート情報メモです。。

VIVAVIVAVIOLA ヴィオラ・アンサンブル

2008年6月30日(月)
場所・東京音楽大学B500
開場・18:05~
開演・18:25~

1。テレマン作曲 4つのヴィオラのための協奏曲第一番ハ長調

2。ハニング・シュレーダー作曲 セレナーデより第1楽章

3。神山奈々作曲 6つのヴィオラのための「AtrE」

4。オレグ・パイベルディン作曲 12のヴィオラのためのANTHEM in memory of H.Purcell

5。J.S.バッハ作曲 ブランデンブルグ協奏曲第6番変ロ長調 BMW.1051(編曲・荒井建)

6。小出稚子作曲 JUNE SUITE(ホタルブログ/INTERLUDE/白河夜船)
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田中裕明さんの俳句作品から

2008-06-18 21:40:10 | Weblog
 田中裕明さんの俳句作品のいくつかから、穴埋めクイズを出題してみます。

1。風呂敷につつむ額縁**の恋

2。木枯やいつも前かがみの****

3。球場を出てくる春の***かな

4。春の暮***つめたき輪を思ひ

5。草かげろふ口髭たかき*****

 いかがでしょうか。どんなことばが入りそうでしょうか?
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本郷短歌会の6月歌会

2008-06-17 20:56:24 | Weblog
 大野道夫先生が指導されている本郷短歌会の6月歌会。

日:2008年6月19日(木)
時:18:30~

場所:ルノアール本郷三丁目店。
二次会:白糸。

題詠一首、自由詠一首、合計二首出詠です。
必ず歌会前日までに管理人さん宛メールにて出詠のこと。

お題は『緑』です。

詠草送付先:urawanotetsu@hotmail.com(本郷短歌会管理人さん宛)
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歌会に小島なおさんが来られて

2008-06-16 22:38:07 | Weblog
 今日、学校の短歌会の歌会にゲストとして歌人の小島なおさんが来られました。そのため、歌会参加者二十名。ひさびさに大人数の歌会でした。

 画像は、歌集『乱反射』に書いてもらった小島さんのサインです。
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甥っこに会う

2008-06-15 22:55:19 | Weblog
 今日、甥っこに会ってきました。この地球に来たばかりの赤ちゃんは本当にちっちゃくて可愛いものだなとあらためて思いました。
 夕方までお寺で仕事をして、池袋から急行電車に。海沿いの街の駅に降り立ち、そこから30分あまり、港に沿った夕暮れのあかるい道をバスはとろけるように走り続けました。バス停で降りた午後7時頃。海辺の街はまだ微妙に明るくて、港のきらきらした運河の向こうに、巨大な市立病院の建物はピンク色に光っていました。橋を渡って病院に近づくと、明るい照明のついた玄関入り口付近にはテーブルがいくつも出されていて、その上にたくさんの紙パック弁当が巨大ピラミッドが威容を誇るかのようにずずんと積まれていました。そして、何人ものひとがあたりを駆け回っていました。どうやら、テレビ朝日のドラマ撮影クルーのひとたちが、7月から放送されるというドラマ『四つの嘘』(永作博美さん主演)の撮影をしていたらしいです。でも、どこに女優さんや俳優さんがいるかはわかりませんでした。私は、撮影用のバスやトラックなどが何台も駐車している横を通り過ぎて、煌々と明かりのついている正面玄関から建物に入ろうとしました。すると、ディレクターなのかもしくはアシスタントディレクターチーフ(?)らしい人が、「あ、そこの方!! 今日は休日なので、正面玄関からは入れませんよ。ぼくらが撮影するので開けて貰っているだけですから。休日の受付は、この建物を横にまわったところにありますよ」と教えてくれました。正直、入る前からその巨大な威容にすっかり気圧されて途方に暮れつつあった私は、そのことばになんだか救われて、俄然勇気が湧いたみたいに、「ご親切に有難うございます」とお礼をいい、建物横にまわったのでした。(つづく?)
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