カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

記事メモ。

2021-02-27 21:58:54 | Weblog

記事メモ。。〈マエストロ岩城宏之最後のタクト〉https://t.co/Og0Wqttlno

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おおきい蜘蛛。

2021-02-26 04:12:28 | Weblog

夜泣きする妹の子を覗き込むおおきい蜘蛛かもしれない私/小島なお(歌集『展開図』所収)

伯母の〈私〉には、〈夜泣きする妹の子〉が可愛くていとおしくて物珍しくてならない。〈蜘蛛〉は巣にかかった獲物を身内から吐き出す糸で包み込んで捕食する生き物であるが、〈たべちゃいたいほどに可愛い〉ということばがあるように、伯母にとって、〈妹の子〉はひたすらこの上なく存在そのものが可愛くていとおしくて包み込みたくて仕方がない存在なのである。寝床から起き上がって自由自在に動き回れるほどの能力もまだなくて、繰り返し夜泣きする幼い〈妹の子〉を物珍しく〈覗き込み〉眺めながら、〈私はおおきい蜘蛛かもしれない〉と思っている伯母が、とにかく面白くてユニークな一首と思う。

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文体練習。

2021-02-25 02:06:06 | Weblog

初老の彼は、若いときから肉体労働をしていた。仕事休みの一日の昼間、その日もずっと部屋に寝転がって、文庫本の志賀直哉『暗夜行路』を読んでいた。不義の子として生まれながら最初その事実を知らされなかった主人公が、生きにくさの苦悩に苛まれつつ、大自然との交歓を通じて生きる意味に目覚めてゆく道行きを感動的に描いた作品である。いったん読み疲れた彼は、本を置き、目を瞑った。そして、三十歳のときに父方の実の祖父が代々の医家に生まれた医者だったと知らされ、五十歳のとき、母方の実の祖父が上野でチェロと作曲を学んだ作曲家だったと知ったことを思った。わかって初めて、自分の生まれてからの人生の生きづらさの惑乱の原因がそこにあったかとあらためて覚った。もっともっと若いときにそういう事実は教えて欲しかった、実に実に残念だ、とつくづく思った。父も母もふたりともそれぞれの母親(父と母の子である彼から見たらふたりの祖母になるが)の若き日の奔放な生き方の招いた結果としての不義の子同士だったわけだが、父も母も自らの出生の真実をそれぞれの母親から知らされていなかったのだ。台所へ立って行った彼は、窓の外の夕空を眺めながら、八百屋で買って来た国産無農薬檸檬をそのまま齧った。その酸味があまりにひどくて思わず顔をしかめた。たとえ父方母方都合ふたりの祖父が誰であろうと、そこから続いている自分の命がたしかにあり、自分の舌が檸檬の酸味を精一杯感じているのだと思いながら、蛇口を捻って茶碗に水を注いでぐいと飲んだ。

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今朝は。

2021-02-24 07:28:52 | Weblog


今朝は、東京発の西日本方面行きの一等列車に乗って明るい気分で乗客同士で楽しい会話をしている夢を見た。目が覚めると、ヴァイオリン協奏曲が聴こえてきたので、取り敢えずメモしてみた。

二頁目に追記。
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尾高惇忠先生。

2021-02-22 18:32:36 | Weblog
尾高惇忠先生とは、ご生前、数回ほどお会いすることがあり、ご挨拶して少しだけ音楽についてお話しさせて頂く機会にも恵まれました。お見かけ通りの温かい優しいお人柄そのままに誰に対しても分け隔てなく丁寧に楽しくお話しくださる先生でした。先生、本当に有難うございました。
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メモ。

2021-02-21 03:47:31 | Weblog

大政奉還のあと戊辰戦争が始まった。そんなある朝、上役の勝海舟からの至急来られたしの連絡を受けた松濤権之丞は、茗荷谷の屋敷から馬を駆けらせ、赤坂の海舟の屋敷へ行った。海舟は書斎に端座して何やら書状をしたためていた。「権さんや、早くから相済まぬ。今から内々に動きたいことがあってな。ちと付き合うてくれんか。池上へ行く。」と権之丞に言った。ふたり各々馬に跨がり、赤坂を出て、池上本門寺総門前の茶屋脇に馬を繋いだ。頃は昼近くになっていた。総門をくぐって、九十六段の石段を上り、境内奥の旧本坊庭園に面した建物の玄関口に着くと、案内役の僧侶が出てきた。その後を付いて廊下を進んで部屋へ行くと、まだ誰の姿も見えなかった。海舟は僧侶へ礼を言い、僧侶が下がると、すぐ後ろの権之丞を向いて少し微笑んだ。「権さん、南洲先生はまだのようじゃった。こちらが先着でよかった。」「勝先生、よろしうございましたな。」権之丞も少し明るく応えた。海舟が、西郷南洲との密談場所に池上本門寺を選んだのは、そもそも南洲率いる新政府東征軍の本陣が本門寺総門近くの理境院に置かれ、本門寺境内奥に人払いの容易な庭園東屋があることを人伝に聞いたからだった。

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けふ。

2021-02-20 04:07:54 | Weblog

今日2月20日は、1996年2月20日に亡くなった武満さんのご命日。

記事メモ。。https://youtu.be/-lkZr-94vLw

弦楽オーケストラの、ワルツのようなアリア(歌)。
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豆乳コーヒーを飲みながら。

2021-02-19 16:35:00 | Weblog

ラジオのヴェルディの『アイーダ』聴きながら、懸案の連作短歌&エッセイ原稿を、豆乳コーヒーをがぶがぶ飲みつつ何とかかんとか頑張って書き上げて、ご担当のUさんに取り敢えず送信できたことが、今日のささやかな成果だったかもしれない。

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青山信昌は與三右衛門の弟。

2021-02-18 06:49:47 | Weblog
以下は、wikipedia記事「青山與三右衛門信昌(加賀藩士青山家祖青山吉次の父)」中の項目「資料」の記述より。

1987年に作家堤清二氏が母親操(旧姓青山)の実家の古文書を解読した折り、そこに、信昌を與三右衛門の弟とする記述があった由。すなわち、

青山與三右衛門(天文16年(1547年)9月22日討死)……織田信秀(信長の父)に仕えた信長の補佐をした。

青山與三左衛門信昌(大永6年(1526年)〜永禄7年(1564年))38歳没……與三右衛門の弟。織田軍記四家老の一人で信秀と信長に仕えた。稲葉山にて戦死。

(なお、この古文書を所有していた青山家は、江戸時代に別家から養子を迎えたため信昌の血縁ではなくなっていたが、信長の家老の名が與三左衛門信昌であったと代々口伝していた由。また、この青山家は江戸時代には蜂須賀家に仕えていた。)
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江戸城無血開城交渉の頃。

2021-02-17 12:27:07 | Weblog

松濤権之丞が、上役の勝海舟に「ちと付き合うてくれ」と同行を頼まれて、ふたり連れ立って池上本門寺境内の奥まった庭園に面した部屋へ入ったのは、曇り日の昼過ぎのことだった。案内役の僧侶の後を付いて部屋に行くと、まだ誰の姿も見えなかった。海舟は僧侶へ礼を言い、僧侶が下がると、すぐ後ろの権之丞を向いて少し微笑んだ。「権さん、南洲先生はまだのようじゃった。こちらが先着でよかった。」「勝先生、よろしうございましたな。」権之丞も少し明るく応えた。海舟が、西郷南洲との密談場所に池上本門寺を選んだのは、人払いの容易な庭園東屋があることを人伝に聞いたからだった。

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