カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

2007-11-30 08:09:26 | Weblog
 今朝のことですが、アインシュタイン博士と名乗る存在(ひと?)が私のところにやってきて、「死後に魂が天に帰ることについてかつて私は」と語りだしたので、あなたがアインシュタインさんである証をまずは頂けませんかと私は言いました。すると、そのひと(?)は私に、どこかの、石造りのきれいな町を流れているそれほど広くはない川に架かる橋を見せてくれました。
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ひとりごと

2007-11-28 14:39:25 | Weblog
 好奇心旺盛が人生を愉しく豊かにする一面を持っていることを全部否定するわけではありませんが、興味本位が時には毒なこともあります。薬はただしい用法に従ってこそ効能が出てきます。。。

 昔、精神的にどんぞこでつらくて、生きるのが猛烈に苦しかった中学時代、なにかに憑依されかけてそれが離れていった経験があります。今から考えると、その頃の私は、岩波文庫の「般若心経」を読むことを心の支えにしていて、毎晩就寝前にしづかに読誦していましたので、それが効いたのかもしれません。よくわからないことです。。

 香川で被害者にとってまことにお気の毒きわまりない凶悪で異常な悲劇が起こってしまったようです。殺されてしまったお祖母さまとお孫様たちに心からお悔やみを申し上げます。。
 いっぱんに、犯罪者について、日頃あんなにおとなしい人がなぜこんなに凄惨な事件を起したのか??? と言われることがありますが、凶悪で異常な犯罪行為の後ろには、しばしば「悪霊」のようななにかが憑依して起したものもあるようです。例の、神戸の少年Aの事件の場合にも、明らかにそうした徴候があったようです。
 エクソシストを日常の生業にしている知人が教えてくれた話ですが、その知人曰く、
「辛く苦しい思いを長い期間に亘り体験させられると、たいがいの人にはなにかが近づいてきます。きつい時は、自分を禊ぎましょう。。」
だそうです。禊ぎは、そんなに難しいことではありません。日常生活の中で、たとえば、お風呂場で冷水を頭からかぶることもかなり禊ぎ効果があるようです。

 *****

(その他記事)

<法王レギナ・アポストロラム大学で開講したエクソシスト講座の詳細>
http://library666.seesaa.net/article/8232159.html

【以下、転載させて頂きます】
その日は学校の初日で、当然のことながら神経質になっている学生もいた。彼らはヴァチカン大学でたった1つの講座を取っている。悪魔学とエクソシスト(悪魔祓い)の講座だ。
学生たちは主に、悪魔に出会ったときに、立ち向かう術を学ぼうという聖職者たちで、彼らに向かいパオロ・スカラフォニ司祭は「最近、ますます悪魔が人間の生活に介入していることには疑いがありません」と語った。
「みなさん全員がエクソシストになるわけではないでしょうが、あらゆる聖職者にとって悪魔が取り憑いた状態と心理的問題を識別する方法を知ることは必須なのです」
「エクソシズムと解放の祈り」という4カ月講座がローマ郊外の法王レギナ・アポストロラム大学で開設されるのは、今年で2年目。
悪魔主義と悪魔の憑依に関する神学的、礼拝学的、医学的、法的、犯罪学的側面に関する講義を聞くのは世界中から集まった約120人の学生だ。
講義の1つには「エクソシズムおよび関連事項に関する諸問題」と題されてる。
匿名希望のある聖職者は、教区の若い女性の告解を聞いている時に、「極めて奇異な体験」をして、この講座を取ることにしたという。
「彼女の声が変わり、表情がゆがみ、彼女が知るはずのない言葉で話し始めました。ほかにもこうした問題に苦しむ人々に会ったことがあります。こうしたケースは想像以上に多いのです」
で、告解室で彼女に取り憑いたような悪魔と対峙する決意は固まっているのだろうか?
「もし、この講座を受けた後、上司が、わたしがエクソシストになることが人々のためになると判断するのであれば、そういたします」
悪魔やオカルトにたいする興味は今年の映画「エクソシズム・オブ・エミリー・ローズ」や昨年「エクソシスト ビギニング」、1973年の「エクソシスト」などによって煽られてきた。
しかし映画のことは忘れよう。生徒たちは、本物の有名なエクソシストを講師に講義を受けるのだ。
そのひとりがガブリエレ・ナンニ司祭で、13日の開講に出席し、休みの間にロイターの取材に答えてくれた。
「聖職者がまず知らなければならないのは、その人間に悪魔が取り憑いているのか、それとも別の原因なのかを識別することです」
同司祭によると、心理的問題ではなく悪魔が憑依していることを示す4つの兆候があるという。
「その人間が、普段は理解できず話せない言葉をしゃべる場合、肉体的な力が身体の大きさや年齢を遙かに上回る場合、突然、オカルト実践の知識を持った場合、聖なるものに生理的嫌悪を感じている場合は悪魔に憑依されています」
統計によると、イタリアで悪魔カルトのメンバーは5000人ほどで、その4分の3が17~25歳の若者だ。
1999年にバチカンはエクソシズムの儀式を改正した。
儀式は祈祷と祝福と聖水の散布で始まり。悪魔に憑依された被害者に手を置き、十字を切る。
悪魔払のセリフは「汝、サタンに命ずる……」と始まり、サタンを「現世の王子」「人類救済の敵」と非難する。そして最後に「戻れ、サタン」と呼びかける。
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今朝の短歌メモ

2007-11-28 11:20:20 | Weblog
 今朝の短歌メモからです。。。

ヴァイオリンはあたたかき皿に盛られをり ヴァイオリンと云ふ名のじやが芋  河村壽仁
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静観

2007-11-28 10:28:31 | Weblog
 最近あった、とある歌会(お題は「手帳」)に私が出した歌です。。。

昨夜(よべ)食べし期限切れ卵の所為かもしれぬ 手帳のページを破りて尻拭く

 これに対して、「うたの調べをもう少しよくしたら素材が生きるのでは」という意見を何人かの方から頂戴しました。そこで、

夕べ食べし卵の所為かもしれぬ 手帳のページ破りて尻拭く

と早速推敲してみたのですが、まだまだ言葉が動きそうな感じがあります。。。

 しばらく静観したいです。
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短歌めもから

2007-11-27 14:54:02 | Weblog
短歌めもからです。

地下牢のつめたき銀製便座ふた 博物館の明るむ庭に  河村壽仁

築地市場鼻毛部門に並びたるピカソの鼻毛カフカの咳(しはぶ)き  河村壽仁
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三島由紀夫:「春の雪」題名の由来?資料発見(memo)

2007-11-27 11:46:10 | Weblog
 メモです。。。

「春の雪」のモチーフか 三島由紀夫のメモ展示 東京
(2007年11月26日19時24分朝日新聞記事)
http://www.asahi.com/culture/update/1126/TKY200711260246.html

画像:三島が薄い字で書いた4行の詩句(左)。教科書には本名・平岡公威の文字が見える(朝日新聞記事から)

 三島由紀夫(1925~70)の最晩年の小説「春の雪」のモチーフを思わせるメモが、三島が学習院高等科1年生のとき使っていた教科書の間から、みつかった。三島の少年期の図画などと共に、12月5日から東京・東池袋の劇場「あうるすぽっと」で展示される。
 メモは、半紙大の和紙に薄い鉛筆で「松の木かげに立ちよれば/千とせの緑は身にしめども/松がえかざしにさしつれば/はるのゆきこそふりかゝれ」と走り書きされていた。42年、高等科1年で使った「東洋史概説」の教科書に挟まれていた。島内景二・電気通信大学教授(日本文学)が、東京の古書店主が所有する三島の旧蔵本を調べる過程で見つけた。
 島内教授によると、この詩句の原典は「梁塵秘抄口伝集」。梁塵口伝集で「梅が枝」と書かれていた部分が、「春の雪」の主人公「松枝清顕」を連想させる「松がえ」などと変えられていた。
 これまで「春の雪」は、42年春に発表された詩人伊東静雄の同名の詩に由来するという説が有力だったが、同じころに梁塵口伝集からも着想を得ていたようだ。島内教授は「松の永遠と春の雪の滅びは、『春の雪』に始まる『豊饒の海』4部作の主テーマ」と重要性を指摘する。
 このメモは、三島が43年に発表した評論にある詩句の下書きとみられる。
 同劇場で三島の戯曲「朱雀家の滅亡」を上演するのに合わせて、12月16日までの午前10時から正午まで、ロビーで展示する。無料。問い合わせは同劇場(03・5391・0751)。

 ***

三島由紀夫:「春の雪」題名の由来?資料発見
(2007年11月26日20時25分毎日新聞記事)
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20071127k0000m040062000c.html

 作家、三島由紀夫(1925~70年)の最後の小説「豊饒の海」4部作のうち、第1部「春の雪」(69年刊行)の題名の由来とみられる資料が、山梨県甲州市の笛吹川芸術文庫で見つかった。12月5日から東京都豊島区立舞台芸術交流センター「あうるすぽっと」で初公開される。
 この資料は、学習院高等科1年(41年)時の教科書に挟まっていたメモ。半紙に「梁塵秘抄口伝集」の歌謡の一つが「(前略)松がえかざしにさしつれば/はるのゆきこそふりかゝれ」と鉛筆書きされていた。
 資料を調べた島内景二・電気通信大教授によると、「松がえ」は正しくは「梅が枝」だという。だが、三島は雑誌「文芸文化」43年1月号の評論でも「松がえ」の表記で引用し、好きな歌だと書いている。島内教授は「雑誌の誤植かと思っていたが、そうではなかった。自分の美意識に従って変容した文章で記憶したのでは。『春の雪』の主人公の名字が『松枝』であることを考えると、メモの古典歌謡が『春の雪』につながったのかもしれない。『豊饒の海』のテーマはこのころ芽生えていたのではないか」と指摘する。
 この他、学習院初等科時代に初めて作ったとされる手書きの冊子や、生前最後の展覧会のためにしたためた書など、4種類の資料も公開。三島文学の源流と終点を示す展示となる。12月16日まで(午前10時~正午)。入場無料。問い合わせは「あうるすぽっと」(03・5391・0751)。【内藤麻里子記者】

 ***

「あうるすぽっと」
http://www.owlspot.jp/

「三島由紀夫新出資料」一般公開のご案内
http://www.owlspot.jp/071126_detail.html

「三島由紀夫新出資料」一般公開のご案内
あうるすぽっと柿落とし公演、『朱雀家の滅亡』上演にちなみ、あうるすぽっとの劇場ホワイエにて、「三島由紀夫新出資料」を特別に展示いたします。笛吹川芸術文庫のご厚意により、大変貴重な展示品をより多くの方々にご覧いただきたく、『朱雀家の滅亡』にご来場の方だけではなく、一般の方々にも公開することとなりました。いずれも初公開の資料です。ご来場、お待ちしております。

1.展示日時
○一般公開:12月5日(水)~12月16日(日)
午前10時から12時まで(入場無料)
○『朱雀家の滅亡』ご観劇の方:ご観劇の回の開場から終演まで

2.展示会場
あうるすぽっと(豊島区立舞台芸術交流センター・2階劇場ホワイエ)

3.展 示 品
「豊饒の海へ注ぐ」(書)
「はな」(少年期の図画)
「花のあすか山」(少年期の図画)
「IRO・IRO」(少年期の造本)
『東洋史概説』(白鳥清著)(高校校時代使用の教科書)
『標準独逸文法』(高校校時代使用の教科書)

4.所蔵
笛吹川芸術文庫
山梨県甲州市塩山藤木2007

問合せ先 あうるすぽっと
東京都豊島区東池袋4-5-2 ライズアリーナビル2・3階
TEL 03-5391-0751
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マザー・アバゲイルの家

2007-11-26 04:57:10 | Weblog
 いろんな民族の神話に出て来るひとつのモチーフ、「私たちは家を探すべきである」を思い起こさせる一節で、興味深いです。。

 スティーヴン・キングの長編小説『ザ・スタンド』(文春文庫、深町眞理子訳、全五冊)の第2冊、295ページから。以下、引用させて頂きます。

 ☆彡

 (前略)
 --ねえ、にいさん、だれがあんたをそこに釘づけにしちまったんだい?
 その老女はギターを赤ん坊のように膝に抱き、もっと前に出てくるように、手真似でニックに合図をする。ニックは進みでる。そして老女に言う、ただあなたの歌うのを聞いていたいんだ、ただそれだけさ。歌うことはとても美しいことだから。
 --なに、歌うのなんて、神様のおふざけのひとつさ。あたしなんか、いまじゃ毎日のように歌ってる・・・・ところで、あの黒い男のこと、どう思う?
 --なんだかぞっとするんだ。すごくこわい男だと・・・・
 --にいさん、こわがるのはたいせつなことだよ。夕暮れに見るただの木でも、見るべき方向から見れば、こわいのが当然なのさ。みんないずれは死ぬ人間なんだからね、神様のおかげで。
 --だけど、どうすればあの男にノーと言えるんだろうか? いったいどうすれば・・・・
 --あんた、どうやって息をしてると思うんだい? どうやって夢を見るのかい? だれにもわからないことさ。だけどね、あんた、困ったらあたしに会いにおいで。いつでもいいよ。あたしは皆からマザー・アバゲイルと呼ばれている。この辺りではたぶんいちばんの年寄りだと思うけれど、それでも自分のビスケットぐらいならまだ自分で焼けるよ。いつでもあたしに会いにおいでな、にいさん。お友達も連れてくるといい。
 --だけど、どうすればこんなところから抜け出せるのか教えてもらいたいんだ。あなたなら知っているはずだ。いったいどうすれば・・・・
 --おやおや、まだ気にしているのかい。そんなこと、だれにもできやしないのさ、にいさん。ただ頭をあげて、最良のものを探していけばいい、で、気が向いたら、マザー・アバゲイルに会いにきなさい。あたしはここにいる、たぶんね。もうこの頃は、年を取りすぎてあまり動き回らないことにしている。だからいつでも会いにおいで。あたしは間違いなく・・・・

 --ここに、間違いなくここに・・・・
 すこしずつ、すこしずつ目覚めが近づいてき、それとともに、ネブラスカの空気、玉蜀黍(とうもろこし)畑の匂い、マザー・アバゲイルの皺だらけの黒い顔は、しだいに薄れて、遠のいていった。現実世界がそのあとに徐々に入り込んできた。その転換はまるで、それまでの夢にとってかわるというものではなくて、夢の上に覆いかぶさってすっかり隠してしまったという感じだった。(後略)

 ☆彡

 惹かれます。
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昨日、今日

2007-11-25 22:04:25 | Weblog
 昨日は、仕事の後、漢文の授業にもぐりに学校へ。テキストは、源信先生の『自行略記』に覚超さんが注を施した『自行略記注』。天台の本覚思想文献のひとつです。内容が正直難しいので予習のときに???ということも珍しくないのですが、毎回の授業で先生のなさる解説が楽しくかつ目から鱗の連続で、漢文として読むのが面白いです。来週の授業では、漢文読み下しが私の担当になりました。がんばらなくては、と少しだけ(?)燃えています。
 今日は、朝からお寺で実習させて頂きました。ご住職から、厳しいけれども温かいご注意ご指導をたくさん頂きました。お経の読み方はほんとうにむずかしいです。あらためて、一生の勉強は日々の勉強の積み重ね、ということばをかみしめました。そんな一日でした。
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昨日の日録メモから。。。

2007-11-24 13:57:41 | Weblog
 昨日の日録メモから。。。

 お昼頃、姪っ子の2歳の誕生日プレゼントを用意すべく、池袋へ。ジュンク堂書店とヤマハ池袋店で目的のものを購入し、豊島郵便局へ直行。郵便局の片隅のテーブルで、姪っ子の誕生日用のメロディ譜面を書いて、封筒に入れて投函。

 その後、友人のMEGさんがピアニスト兼作曲家兼アレンジャーを務められているピアノトリオ「プルミエ」とジャズシンガーのちゅうまけいこさんとのライブコンサート(於:調布の蛯澤珈琲店)の開始時間に間に合わせるべく、池袋から調布までの片道約22キロの道のりを、

MEGさんから頂いたLa PalpitaのCDアルバム「Re-birth」
http://www.cdjournal.com/main/cd/disc.php?dno=3201040994

を聴かせて頂きながら、愉しくかつ急いでサイクリング移動。所要時間約2時間弱。

 *****

 ライブ、非常に素晴らしかったです。蛯澤珈琲店特製のマスター自慢のビーフシチューも大変美味でした。グランドピアノがでんとあるライブ会場は、40名ほどの聴衆でぎっしり満員でした。(画像)

 MEGさんはじめご参加の皆様、お疲れ様でした。有難うございました。

蛯澤珈琲店
http://www.coffee-ya.com/

プルミエ&ちゅうまけいこさんLive(11月23日)
http://www.coffee-ya.com/new_live.html
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柴生田稔さんのうたから

2007-11-23 07:54:52 | Weblog
 柴生田稔さんの歌集『麦の庭』から、メモです。

桐の笛なほやはらかに若ければこの桐畑(きりばた)に寄するかなしみ  柴生田稔

 この「かなしみ」とはいったい何だろう? と思わず立ち止まった一首です。若々しい桐はすっきりとして姿のよい木だったと思うのですが、そうした凛とした雰囲気を漂わす桐たちの畑に作中主体が寄せるかなしみとは、もしかすると若い死者へのかなしみだったのかもしれません。

あくがれは何に向はむいとけなく緑の服もわが着けむもの  柴生田稔

 春の萌え出づる緑に心浮き立つ様が詠まれた一首と読みました。下句が利いていると思います。

彼(か)の道はいづこあたりか人一人(ひとり)今過ぎゆきし舗装路の見ゆ  柴生田稔

 作中主体の立ち位置が不思議な作品です。「今過ぎゆきし舗装路」とありますので、恐らく電車か車かにでも乗っているのかもしれませんが、それとも案外、作中主体の意識がどこか知らない道の辺に立っていて、その前を作中主体の存在に気付くことなく、人がふうっと通り過ぎていった、ということかもしれません。

 惹かれます。
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