カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

本日のコンサート情報から

2008-06-30 08:18:05 | Weblog
 本日の興味深いコンサート情報から、メモです。。

VIVAVIVAVIOLA ヴィオラ・アンサンブル

2008年6月30日(月)
場所・東京音楽大学B館500教室
開場・18:05~
開演・18:25~

1。テレマン作曲 4つのヴィオラのための協奏曲第一番ハ長調

2。ハニング・シュレーダー作曲 セレナーデより第1楽章

3。神山奈々作曲 6つのヴィオラのための「AtrE」

4。オレグ・パイベルディン作曲 12のヴィオラのためのANTHEM in memory of H.Purcell

5。J.S.バッハ作曲 ブランデンブルグ協奏曲第6番変ロ長調 BMW.1051(編曲・荒井建)

6。小出稚子作曲 JUNE SUITE(ホタルブログ/INTERLUDE/白河夜船)

 ヴィオラアンサンブルはなかなか聴くチャンスがないので楽しみです。この間非常に変わったオケ曲で芥川作曲賞を受賞された小出さんの新曲(?)がプログラムにあるのも嬉しいです。
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海市

2008-06-29 20:45:01 | Weblog
海市消え買物籠の中に貝  中嶋秀子(句集『約束の橋』(2001年、角川書店)より)

海市(かいし)は春の季語。蜃気楼のこと。


 七日後の来週の日曜日は、塔短歌会7月横浜歌会。お題「恋」の題詠歌会です。そんじょそこらに見られなさそうな、熱いダイナミックな恋のうたを詠もうと画策中。
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私はまだ

2008-06-29 18:37:26 | Weblog
 私はまだ本郷にいます。
 ブライアン作曲『アフター・ザ・レクイエム』を聴きながら、本郷のレストランバンビの入り口そばの席に座って皿のハンバーグを切りつつ、私はまだ本郷にいます。
 今日は、朝からお寺のおつとめを三件勤めさせていただいた後、千葉の霊園での納骨式をやらせていただき、電車を乗り継いでお寺に帰ってきて、僧侶の衣から私服に着替えて終了。
 千葉へはパウロ・コエーリョ氏の『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』(角川文庫)を携帯していくも、睡魔に負けて読み進むことならず。
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山田風太郎が“駄作”とした幻の忍法小説の直筆原稿見つかる

2008-06-28 14:47:53 | Weblog
画像:見つかった「忍法相伝73」の直筆原稿。生前、風太郎は「駄作」と決めつけていた=兵庫県養父市(産経新聞記事)


《山田風太郎が“駄作”とした幻の忍法小説の直筆原稿見つかる》
(2008.6.28 12:11 産経新聞記事)

 「忍法帖」シリーズなどの歴史伝奇小説で知られる作家、山田風太郎(1922~2001)が生前、「駄作」としていた忍法小説「忍法相伝73」の直筆原稿が見つかり、遺族が兵庫県養父市関宮の「山田風太郎記念館」に寄贈した。生前に単行本化されたが、今は絶版で、その後は本人の意志で全集にも収録せず文庫化もなっていないため、“幻の忍法小説”となっていた。

 見つかったのは、昭和39年5月から同40年3月まで、「週刊現代」(講談社)に連載された計40回分(約680枚)で、編集部の倉庫に保管されていた。伊賀忍者の血筋を引く青年が、現代で奇想天外な忍法の数々を繰り広げる内容ながら、同館の事務長、有本正彦さん(63)によると「当時の政治家を風刺した展開もあるが、全体的にナンセンスなストーリー」という。

 風太郎本人は生前、ユーモアを狙ったがうまくいかず、「これは駄作」と決めつけ、月刊誌で自身の作品をランク付けしたとき、ABC評価で「P」をつけ、全集にも収録されず、文庫化もなっていないため、今は「入手困難」な忍法小説となっている。

 当時、風太郎は小説家として脂がのった時期で、新聞や週刊誌などの連載が多く、昭和39年12月からは映画化されたベストセラー「魔界転生」を地方紙に連載するなどしていた。

 風太郎は約300編の小説を残したが、直筆原稿には執着せず、雑誌社などから戻ってきた原稿はたき火にして燃やしていたため、直筆原稿は極めて少ない。有本さんは「風太郎にとって、最も『燃やしたい』と思った小説が残っていたのは不思議」と話している。

 同館は今秋、直筆原稿の一部を公開展示する。

http://sankei.jp.msn.com/culture/books/080628/bks0806281214001-n1.htm

 ***

山田風太郎記念館サイト
http://www.fureai-net.tv/kazetarou/
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異界

2008-06-27 21:39:48 | Weblog
 どういふわけからか、シューマン作曲ピアノ曲集『森の風景』作品82の、第七曲「予言の鳥」が、私は小さな頃から好きだ。その不思議なメロディの醸し出すドキドキ感は、まるで、異界から来た可憐な踊り子が危なつかしい足取りで綱渡りをしてこちらにやつてくるのを見守つてゐるやうな心境にさせる。異界へのパスポートといふのは、もしかするとかういふ曲のことをいふのではないかしらとも思ふ。『予言の鳥』がおわつて、フルートがこれまた不思議なドビュッシーの『パンの笛』などを演奏せむものなら、私の魂は異界に飛び立つたまま永遠にこちらに戻つてこられないのではあるまいか。音楽と異界とは、つねに隣り合つてゐるやうな気がする。
 今日、家に帰ると、写真集『T邸の怪(け)』(篠山紀信撮影)が届いてゐた。例の、高田商会創業者高田慎蔵氏末裔のご家族が、百年近く、平成15年までお住まひになつてゐた虎ノ門(ホテルオークラ近隣)のご邸宅(総床面積二百有余坪の広大な和洋折衷の館。平成20年現在、取り壊されて現存せず)を舞台に、いろいろなモデルをさまざまなところに立たせて土地のもつ奇妙な味はひを醸し出さうとした写真集だが、モデルの存在がうるさすぎて建物や土地の不思議な空気があまりうまく掬ひきれてゐないやうに感じられる。土地のおどろおどろしさは、ポーズさせた人物を撮るよりも、建物や地面や空や水や木々に焦点を絞って撮影したほうがつよく物語れるやうな気がする。篠山さんはもしかすると、この撮影のとき、土地の孕む地霊のパワーをあまり信頼できないと思はれてしまつたのかもしれない。だからこそ、人物モデルの表面的な力に頼つてしまはれたのだらうか、などと思ふ。。なにか勿体ない。。何かが物足らない。この写真集は、残念ながら、もしかすると氏の作品の中ではあまり成功しなかつたものかもしれない。壊される前の不思議なT邸をできることならばこの眼で見てみたかつたとしきりに思ふ。もはやこの眼でみられないという厳然たる事実が、すごく残念でならない。
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田中裕明さんの俳句作品から

2008-06-26 21:42:15 | Weblog
 田中裕明氏の俳句作品から、メモです。

海近き驛に降り立つ揚羽蝶  田中裕明(第一句集『山信』所収)


惹かれます。
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浜田さんのアフォリズムなど

2008-06-26 08:21:30 | Weblog
 浜田到氏の短歌作品とアフォリズムから、メモです。

ふとわれの掌(て)さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ  浜田到


崖の美しさは、そこから先もはや眼にみえない架橋を予感せずに居られぬ、空間のもつ暈いの美しさである。丁度経験の果てまで行き尽した言葉のように。  浜田到『神の果実』
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浜田さんと佐藤さん

2008-06-25 20:36:35 | Weblog
 本日、仕事が終わった後、夕刻過ぎの紀伊国屋書店の新宿本店五階に寄り、短歌コーナーの書棚に一冊だけひっそりと残っていた大井学著『浜田到 歌と詩の生涯』(角川書店、平成19<2007>年10月)と、隣りの俳句コーナーにひときわ目立つように積まれていた佐藤文香第一句集『海藻標本』(ふらんす堂、2008年6月)とを購入。地下のモンスナックで、井上ひさし氏が「思索をするならばモンスナックのカツカレー」と色紙に書かれているカツカレーとコーンサラダを食し、FMから流れるN響演奏会のモーツァルトとリヒャルト・シュトラウスの歌曲を聴きながら帰宅。私は、やっぱりリヒャルト・シュトラウスの音楽が好きだと思う。歌曲ならば『献呈』がいちばん好きだ。

 *****

第2回芝不器男俳句新人賞(平成18年)対馬康子審査員奨励賞受賞 佐藤文香氏
http://www.ecf.or.jp/jigyo/fukio/prof.html

(受付番号104番→応募作品http://www.ecf.or.jp/jigyo/fukio/pdf/104.pdf

【プロフィール】
 本名:佐藤文香(さとうあやか)
 俳号:佐藤文香(さとうあやか)
 昭和六十年(1985)兵庫県生まれ。東京都在住。早稲田大学第一文学部日本文学専修三年在学中(平成18年当時)。中学校1年生のときの夏井いつき氏の俳句の授業がきっかけで俳句を始める。現在「ハイクマシーン」・「里」所属。好きな俳人は三橋敏雄、池田澄子。櫂未知子に親炙。

【受賞のことば】
 このたびは対馬康子審査員奨励賞をいただくことができ、大変嬉しく思っております。これからも妥協せずに、良い作品を作っていきます。

【短評/対馬康子】
 青春をいかに病むか。それがこの作者の百句を読んだ第一印象であった。まだ無防備で未完成な部分と、それを跳ね返して余りある強い感性が、メッセージ性をもって伝わってきた。いろいろな可能性の中で、俳句に賭ける若い魂のどこかに必ず鬼が潜んでいる。そのデーモンが、全力で俳句に打ち込ませ、放心状態のような境地というようなものが作品の魅力となっている。

【注目十句/対馬康子選】
6 音いつぱいにして虫籠の軽さかな
7 草笛に草の名前のありにけり
11 マフラーの匂ひの会話してをりぬ
16 青に触れ紫に触れ日記買ふ
25 水鳥の乾きし背すぢ遠ざかる
30 狐火の火種は冷えてゐるだらう
37 春雪の仏あやめるものを持ち
39 待たされて美しくなる春の馬
45 かぎろひの熱を保てる映写機よ
76 ヨットより出てゆく水を夜といふ

 *****

 佐藤さんの名前は、二年か三年ぐらい前に、「異種格闘技」歌会として企画された俳句研究会と短歌会との合同歌会の折に見かけたことがあるような気がする。しかし、当時は俳句世界の情報にはとんと疎く、また俳句への興味も薄くて、誰がどんな俳句を作っているのかも、誰にもなにも聞かないで終わったような気がする。。

 彼女は、何年か前の俳句甲子園で、

夕立の一粒源氏物語   佐藤文香

の一句で、最優秀賞を受賞しているという。この佐藤文香第一句集の巻頭の「序」で池田澄子氏は、こう書いている。

「(前略)第一句集『海藻標本』は全て自力で編まれた。どれだけの数からの抜粋であるかは知らず、驚くべき完成度、まさに俳句である。(中略)先に記した、いわば記念碑的な「夕立の一粒源氏物語」を、文香はこの第一句集を編む時点で捨てた。見事な根性である。(後略)」

 大井さんの「浜田到」論は、もともとなかなかの力作と評判の高い一書で、ぜひ読みたいと思っていたもの。佐藤さんの句集も非常に楽しみだ。今晩からでもさっそくページを繰ってみようかと思っているけれども、いまからもうその時間が来るのが楽しみでならない。
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高田商会

2008-06-25 12:57:23 | Weblog
「20世紀のわが同時代人:高田美(たかた・よし)さん」
執筆者・三浦義彰氏(千葉大学医学部:千葉医学会)

 高田 美 (1916年-) :仏英和女学校 (現白百合学園) 卒業 (1934年)、 東京のフランス通信社 (AFP) 入社 (1947年)、 AFP 退社 (1954年)、 パリに転居、 木村伊兵衛の通訳をして以来、 写真に凝る。 ピエール・カルダンの知遇を得てカルダンの作品の撮影をする (1955年)。 以後、 カルダンの右腕として各方面に活躍中。 フランス政府から芸術文化勲章 (1985年)、 パリ市名誉銀章受領 (1989年)
 私が小学校に入学した頃は父の家は駿河台の袋町という所にあった。 現在は明大の校舎が建てられている。 家の玄関の横に大久保彦左衛門の井戸と称するものがあり、 昔はこの一帯が彦左衛門邸だったらしい。 父は私に早くからフランス語を習わせたく三崎町の仏英和幼稚園に入れた。 入学式に母に連れられて行ってみると、 白い大きなボンネットをかぶったフランス人の尼さんが変な日本語で話しかける。 ボンネットの下の顔をみると猫の髭の様な髭が一、 二本生えていて気味が悪く、 以来毎朝幼稚園に行きたくないとぐずって母を手こずらした。
 そのうち、 私は大病をして、 大学病院に半年も入院していたので、 一年目はろくに幼稚園には通っていない。 二年目になっても、 あまり私がぐずるものだから、 母が一計を案じ近所の知り合いのお嬢さん達に朝迎えに来てもらって、 通園することになった。 高田さんは私を迎えに来る二、 三人のうちの一人だったのである。
 高田さんの家は駿河台の坂の中ごろにあり、 お祖父様が創った総合商社の高田商会のお嬢さんで、 後にこの商会は破産したが、 その頃はまだ盛んな時代だった。 美さんのお祖母さんは父の患者さんで、 私を可愛がり、 幼稚園の卒業祝いといって私にラドーの腕時計を下さったのにはびっくりした。 小学生の私にはまだ贅沢な腕時計は早すぎるといって、 母はしばらく仕舞い込んでしまったほどである。
 幼い私はこの賑やかなお迎えに気をよくして、 それからは毎日幼稚園にせっせと通ったようである。 しかし、 幼稚園時代にどんな遊びをしていたかは記憶にない。 けれども後に高田さんやフランス人の尼さんから聞かされた話ではがき大将だったようである。
 この時代から約六十年程がお互いに別の道を通って過ぎていった。 全然消息がなかったわけではない。 美さんの同級生から、 高田商会が破産し、 戦後は生活のためにフランスの通信社に勤めていること、 突如パリに渡って写真家になったこと、 ピエール・カルダンに認められ、 その右腕として活躍していることなどが、 本当に風の便りに私の耳にも入っていたのである。 境遇の変化に順応してパリで新しい道を開いて行く高田さんの勇気に私は密かに日本から応援の拍手を送りたいと思っていたが、 肝心の現住所が分からず、 激励の手紙は出さなかった。
 1979年に私はフランス政府からシュバリエ・ド・オルドル・ナショナル・ド・メリット勲章を贈られた。 これという業績もないはずなのに、 日仏両国間の学術交流に功績があったということで、 あり難く頂戴したのである。 私は元来、 賞というものに縁がなく、 それまで頂いたのは旧制中学の卒業の時の優等賞だけで、 これとても、 クラスのトッブクラス、 たとえば久宗 高 (たかし) (後の水産庁長官)、 串田孫一 (文筆家)、 谷村 裕 (ひろし) (後の大蔵次官) などが四年終了で高校に入ってしまい、 私が取り残されたゆえに過ぎない。
 この受賞のすぐ後で、 私は学術振興会からフランスに留学中の医学・生物学の研究生の実態調査という名目でフランスに 3 週間ほど出張を命じられたのである。 パリに滞在中週末を利用してスイスの友人を訪ねるためスイスエアに乗ったら、 コーヒーと堅い板チョコがサービスされた。 そのチョコレートをガブリと噛んだ瞬間なんと私の前歯が二本、 チョコレートの方に移ってしまっていた。 前歯を失って歯なしの爺さんのまま旅をおえてパリに帰り、 さて夕飯はどこか軟らかいものを食べさせる店を探そうとホテルを出たら、 夢のような話だが向うから、 写真では見ているが、 実物には60年も会っていなかった高田さんが歩いてくる。 奇遇に驚くと同時に、 高田さんが私の前歯が抜けているのに気づいて 「随分お爺さんになったわねえ」 というご挨拶である。事情を話したところ、 「うちへいらっしゃい、 おじやを造ってあげる」 ということになった。 ホテルの向こう二、 三軒隣が彼女のアパートだったのである。
 夕飯の後で、 私の勲章受賞の話になり、 高田さんの意見によると、 誰か私の友人がフランス政府に働きかけて受賞が決定したのだから、 その人達にお礼のパーティを開いた方がよい、 それがフランスでの習慣ですと言うので、 日本食のパーティを開くことにした。 ただし、 私が歯なしの爺さんなので、 高田さんにホステス役をしてもらうのはどうかと相談したら、 高田さんはもう一人男性のホストとして、 共同通信の松本パリ支局長を推薦したのでお願いすることにした。 松本さんのフランス語はフランス人と変わらないという。
 この計画はうまくいってフランスの代表的な生化学者が日航ホテルに夫人同伴で集まり、 歯抜けの私はただニコニコしているだけで、 後は高田さんと松本さんがとりしきり、 会話もはずんでなかなかよい会だった。
 次回のパリ訪問はそれから間もなくだったが、 この時はカルダンが私たちを昼食に招待してくれて、 60年ぶりの私たちの再会を祝ってくれたり、 彼の最近のコレクションの会に招待された時には、 折から NHK の取材にきていた磯村さんからあなたも服飾の専門家ですかと質問されたり、 ふだん研究室まわりしかしない私のパリ訪問を華やかなものにしてくれた。
 1985年には高田さんが芸術・文化の勲章をフランス政府から頂いておられる。 おそらくホスト役はカルダンが勤めてお礼のパーティを開いたのではあるまいか。
 カルダンが何故高田さんの才能に惚れ込んだのか、 誰もが知りたい点であるが、 私はこう思っている。 高田さんは幼い時から第一級の美術品に取り巻かれて育った。 丁度質屋の小僧が最初の修行の間は本物ばかり見せられていると、 不意に偽物が現れた時 、 「ああ、 これは違う」 と本能的にわかるのと同様に、 第一級の本物の美術品に囲まれて育つと、 たとえ日本の物でなくて、 カルダンのデザインしたものでもこれはいいものだということが本能的に分かるのではなかろうか。 カルダンも天才だけに高田さんのこの鑑識力を高く評価したのであろう。
 1995年の冬、 高田さんの 「パリの記憶」 という写真の展覧会が東京のプランタンで開かれ、 同時に京都書院から同名の写真集が売り出された。 白黒の写真が100枚ばかり、 パリの裏町の憂愁を伝え、 あるいは著名人の思いがけない表情をたたえている。 去年の彼女のクリスマスカードにはベランダに住み着いた鳩が蓬々パリから季節の言葉を伝えてきている。

http://www.m.chiba-u.ac.jp/med-jounal/76/76-4/miura35.html

 *****

鈴木明著『追跡―一枚の幕末写真』(集英社・1984年)72ページ~

 (前略)
 幕末の僻地箱館で、日本武士四人とフランス軍人が一緒に写された写真が残っていること自体が珍しいのに、その片割れ(一枚)がフランスに持ち帰られ、さらに昭和五年、パリのオペラ座通りの骨董屋を訪れた石黒敬七の眼に触れたことは、確率から言っても奇蹟に近い偶然といえるであろう。(中略)骨董屋のおやじに写真を見せられた石黒は、その写真に「フクシマ、タジマ、マツダイラ、ヤス」という日本武士たちの名前が書かれてあるのを確認する。(中略)「ヤス」とは誰であろうか。(中略)幕末の全脱走軍の名簿を見ても「ヤス」で始まる姓は、新撰組の「安富才介」以外にはひとりもいない。安富がこんなところで写真に収まったとはとても思えず、可能性としては「ヤス」で始まる名前を探すしかない。前述の名簿には、「ヤス」で始まる名前が五名ほどあった。そのうち、中島三郎助の配下にいた砲兵隊の「細谷安太郎」、彼がいちばん怪しい。なぜなら、細谷安太郎の名前は横浜仏語伝習所の生徒名簿の中にあり、後世に「横浜仏語伝習所」の存在を伝えた一人として「同方会」などの記事に名前を連ねているからである。
 (中略)
 細谷安太郎の孫、細谷千木(ちぎ)さんは、祖父の安太郎の生涯について、具体的な詳しい話は殆ど伝え聞いていなかった。それでも、いくつかの断片的なことを聞いていた。
 「祖父は箱館戦争に行ったとかで、そのとき腰の辺りを負傷したらしいのですね。年を取って冬になると、傷跡が痛むこともあるようでした。それに、明治維新の頃は、もと旗本などは人力車夫にしかなれなかったそうですが、祖父はフランス語を習っておいたのが役に立ったらしいのですね。詳しいことはわからないのですが、船とか大砲とか、いろいろ仕事があったらしいです。祖父の家は鎌倉の方にあって、当時でも大きな邸でした。フランスから取り寄せた家具が素晴らしいと評判の家だったそうです。子供心にも、祖父のフランス好きは印象的でした。祖父が晩年、死の床で呟いたことばも、フランスのうまいパンをもう一度食べたい、だったそうです。祖父は、フランス人からは何故かヤス、ヤスと呼ばれていたようです。」
 千木さんは、箱館戦争で負傷した祖父が、その後どのようにして「フランス特製家具」に囲まれる身分になったのかは知らなかった。唯、それを調べる手がかりになりそうな、三つのヒントを彼女は伝え聞いていた。それは、(1)祖父安太郎はクルップ(最強、最大のドイツの製鉄メーカー)の日本側代理人だった、(2)高田商会に勤めていた、(3)黒田清輝の絵画を大切に保存していた、ということである。
 (中略)
 「高田商会」。僕は千木さんからこの名前を聞いたとき、全くこの商会のことを知らなかった。わずかに伝えられているところでは、高田商会は高田慎蔵によって、明治十年頃創業し、日露戦争で巨万の富を得た大商社だそうである。そのスケールは三井物産、大倉商事などにも匹敵し、高田慎蔵は一世の風雲児だったそうだが、大正の終わりごろ、突如会社は倒産し、その巨大な財産も雲散霧消したという。千木さんの話によれば、その子孫に当たる人は、いまパリにおり、日本人社会で有名だそうである。
 (中略)
 きらびやかなピエール・カルダン専務室に座っていた高田美さんを、「ご先祖の件で」と訪問したのは、たぶん僕が最初だっただろう。彼女は、
 「本郷の高田の蔵、といっても、いまでは誰も知っている人はいないのですが、私の子どもの頃は、湯島一帯全部が高田の家だったんです。どうしてあんな大きな家が一夜にしてつぶれたのか、私にもわかりません。祖父は慎蔵という名前で、当時の最先端技術の会社をやっていました。祖父は、明治のはじめフランスの武器会社と結び、やがて日進、日露の両方の戦争に政商として活躍したらしいです。詳しいことは知りませんが、高田商会はヨーロッパで武器を買いつけ、日本に送ると同時に、ロシアの革命軍にも密かに流していたらしいんです。つまり、日露戦争の後方かく乱ですね。当時のことは国家の最高機密でしょうから、どんな記録に出ているのかさっぱりわかりませんが、私が覚えている外国の会社の名前は、フランスではクルーゾー社とか、ドイツではメッサー・シュミット社とか、そんな名前でした。いまの天皇様(昭和天皇のこと)が皇太子時代にヨーロッパに来られたときは、高田商会パリ支店がご案内した、というような話も聞いたことがあります。」
 クルーゾー・ロワール社の伝統は古く、現在でもフランス随一の兵器工場である。無論原爆まで作っている国営会社である。
 (後略)

 *****

 国立科学博物館のサイトの中に「産業技術の歴史」というコンテンツがあります。そこには、ジョサイア・コンドルの設計で明治33年5月、東京の湯島三組町に竣工されたという「高田商会創業者高田慎蔵邸設計図」の写真があります。

高田商会創業者高田慎蔵邸設計図(ジョサイア・コンドル設計)(京都大学建築学教室所蔵)
http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?&key=102210261592&APage=543

 *****

「系図でみる近現代」
第44回 明治・大正の世に隆盛を誇った高田商会とは?創業者・高田慎蔵、そして、その末裔・タレントの高田万由子さん(08.5.26記)
http://episode.kingendaikeizu.net/44.htm

(前略)
高田慎蔵は、三井物産創業者・益田孝と同様、佐渡の出身であった。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、明治3年、19歳で上京し、外国人商会に勤めた。以後10年間で貿易実務に習熟し、大きな働きぶりで、蓄えも増やしていった。
いづれ独立を考えていた矢先の明治13年、外国人の商売が厳しく制限され、政府は諸官庁に対して、外国商から物品を直接購入する事を禁止した。
そのため、勤めていたベア商会は行き詰まり、明治の初めより来日して貿易商を営んでいたドイツ人、ミカエル・ベアは、撤退・帰国した。
高田慎蔵は、その資産を継承し、ヨーロッパの大手メーカー数社の輸入代理店として動き出した。
当初は、先発の三井物産や大倉組との売込み競争が激しく、一時、大きな損害をこうむったが、持ち前の忍耐力で難関を切り開いて行き、明治の三大貿易商の一つとまで言われる高田商会に発展させていった。
高田商会は、機械・船舶の輸入に実力を発揮し、当時、機械輸入高では、日本の商社中、最大といわれた。
高田商会は、明治20年代には、きわめて洗練された商社へと成長を遂げて行った。東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。
高田商会は、大学卒の技術者を多数雇い入れ、ロンドン、ニューヨーク、上海などにも支店を置き、海運・土木建築・不動産取引・鉱山業・機械製造などにも事業を拡大した。
日清・日露両戦役では、武器・爆薬・機械の調達で巨利を博し、貿易商としての地位を磐石のものとした。
明治41(1908)年に、合資会社に改組した他、傘下の事業を高田鉱業などの株式会社にして、小規模な財閥を形成するまでになった。
第一次大戦が始まる(1914年)頃、日本で電気事業が発展したが、高田慎蔵がウェスティングハウスの日本総代理権をもっていたところから、高田商会の利益はほとんど独占的となり、機械の値上がりによる利益は莫大なものとなった。
政財界の大物との交遊も広がり、同郷の益田孝(三井財閥大番頭)がつくった、美術品を鑑賞しながら茶をたしなむ大師会の重要メンバーとしても重きをなした。
益田の三井が、鉄・食糧など基幹産業に集中していたのに対し、高田商会は精密機械、電気の絶縁材料などに集中し、東京の都市電化へ貢献した。特に建築に力を注ぎ、高田商会本店(麹町)、自邸(本郷湯島)、別邸(赤坂表町)は、鹿鳴館を設計したコンドルの設計であった。
さて、高田慎蔵の後継者のことに話を移そう。
田中平八、「天下の糸平」と称された彼は、一般的に“相場師”として知られるが、実のところ、明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった。
明治39年、高田慎蔵は二女・雪子に、その田中平八の三男、田中釜吉を婿養子に向かえ、高田釜吉とした。
高田釜吉(明治9年生)は、明治25年、ドイツに留学し、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、技師として売り出し中であった。
慎蔵は釜吉に一目惚れして、この男こそ高田商会を任すに足る人物と見抜き、娘婿にするとともに、明治42年、副社長に就任させた。そして、大正元年には、采配を譲り、56歳で慎蔵自らは、顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一技師であった高田釜吉は、いきなり、副社長、そして、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充を図る一方で、花柳界に出撃する回数も増え、その豪遊ぶりから、花柳界では、「釜大尽」と称された。
また、社員たちが、取引先を接待するという名目で料亭に繰り込む風潮が広がり、驕りの気風が高田商会を蝕み始めていた。
欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが、大正10年12月、慎蔵が69歳で病没、この辺りから、高田商会の雲行きが怪しくなっていく。
大正12年4月、基幹鉱山であった高田鉱業深田銅山の工場が全焼する事故が起き、そして、9月の関東大震災で、屋台骨が大きく揺らぐ。
輸入品在庫は焼失し、欧米から思惑輸入した各種物資がその後の円相場急騰によって暴落。加えて、帝都復興には、膨大な木材が必要になると睨んで、秩父の山林を買い占めたが、アメリカ等から、大量の安い材木が日本に流入、大赤字となった。
明治・大正と隆盛を誇った高田商会の経営危機がささやかれるようになり、そして、大正14(1925)年2月21日、高田商会は破綻・休業するに至るのである。
現在では、高田商会という大商社があったこと自体、知る人は少ないであろう。
(後略)
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浜田到氏の短歌作品から

2008-06-24 20:17:47 | Weblog
 浜田到(はまだいたる)氏(大正7年生~昭和43年没)の短歌作品から、メモです(いずれも昭和44年刊行の歌集『架橋』所収)。。。

落葉の森に異様のふるへありきまりし星を樹々削りゐて  浜田到

祈禱書をしづかに閉ざす如くして吾眼あかしむ秋の宙の中  浜田到

一九四九年夏世界の黄昏れに一ぴきの白い山羊が揺れている  浜田到

 惹かれます。
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