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カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

エリーゼのために

2006-05-26 10:05:52 | Weblog
 「エリーゼのために」の自筆譜は紛失してしまって今では見ることは出来ない。。。と、小さかった頃本で読んだ記憶があります。しかし、興味深いことに、「エリーゼのために」の「自筆譜」というものがきちんと存在しているようです。

 メモ。

                **

「エリーゼのために」
 ベートーヴェンのピアノの小品として、あまりにも有名なこの曲は、彼が40歳の時に書かれたものである。自筆譜に「エリーゼの思い出のために」と記されていることから、いまでもその名で親しまれている。
 ところが、エリーゼという名前は、ベートーヴェンの知り合った女性の中にはまったくあらわれてこないので、いったい誰なのかは、謎とされていた。しかし、最近になって、ベートーヴェンの筆跡研究家として知られるマックス・ウンガー教授が、原稿に書かれたベートーヴェンの、あの乱雑な文字を鑑定したところ、テレーゼとも読めることを発表し、エリーゼは、どうも間違いであろうということになったのである。
 そういえば、ベートーヴェンは、当時深い思いを寄せていたテレーゼ・マルファッティにこの曲を贈っている。

http://tokyo.cool.ne.jp/nishi/sakkyokuka/beethoven.html

                **

エリーゼのために@2005-01-06 05:01:47

 エリーゼのために:ベートーベン作曲の楽曲名。ピアノの練習曲、オルゴールや電話の保留音によく使われる。

 「エリーゼのために」は、ベートーベンがハンガリーの伯爵令嬢テレーゼ・フォン・ブルンズヴィックのために作曲したもの。この曲を贈った後、ベートーベン(40歳)は、テレーゼ(18歳)に告白をするが、階級の差もありふられてしまう。

 ベートーベンは悪筆であったため、後の研究者たちは彼の書いたものの読解に苦労したそうな。この曲名も「テレーゼ」を「エリーゼ」と誤読され、「エリーゼのために」が定着してしまったらしい。

====================

 L.v.ベートーヴェン(1770-1827)作曲「バガテルイ短調WoO59」の愛称。

 「自筆譜に『エリーゼのために(fuer Elise)』という表記があった」という証言から、この名称で親しまれるようになったが、ベートーヴェンの周囲には、エリーゼという名前の親しい女性はいない。(おばちゃんならいるらしいけど…)

 そのため、自筆譜を保有していた、ベートーヴェンの主治医の姪テレーゼ・マルファッティのために作曲されたが、

1.「テレーゼ(Therese)のために」と書かれていたのに「エリーゼ(Elise)のために」と証言者が誤読した。

2.テレーゼ・マルファッティの愛称が「エリーゼ」だった。

のどちらかだろうと推察されるようになった。

 ベートーヴェンがクラシック界トップクラスの悪筆のため、1.を信じる人が多い。

 ちなみに、テレーゼ・マルファッティとテレーゼ・フォン・ブルンスヴィク伯爵令嬢はまったくの別人。

 テレーゼ・マルファッティ(1792-1851)は、1810年、40歳(厳密には39歳)のベートーヴェンに結婚を申し込まれたが、大地主である両親の強い反対もあり、そっけなく断っている。「エリーゼのために」の自筆譜もあっさり他の女性に贈っていたりする。

 テレーゼ・ブルンスヴィク(1775-1861)は、ベートーヴェンと婚約したという作り話等で「不滅の恋人」の有力候補になったこともある友人。彼女に献呈されたピアノ・ソナタ第24番は「テレーゼ・ソナタ」と呼ばれることもある。


編集時刻:2005-01-06 05:01:47
編集者:植野ソラ氏

http://blog.melma.com/keywordlog?word=%A5%A8%A5%EA%A1%BC%A5%BC%A4%CE%A4%BF%A4%E1%A4%CB&t=2005-01-06%2005%3A01%3A47

                **

【楽譜】エリーゼのために(自筆譜ファクシミリ)
L.v.Beethoven
Klavierstück a-Moll WoO 59
Für Elise
Kritische Ausgabe mit Faksimile der Handschrift
BH 116 VERLAG BEETHOVEN-HAUS BONN

 スケッチの自筆カラーファクシミリ付きの校訂資料である。自筆ファクシミリとしては値段も手頃(2,000円程度)だったので迷わず購入。校訂報告部分には自筆を解読した譜面も掲載してある。自筆譜は、スケッチ段階の没にした部分もあったり、省略した記法だったり前述の解読譜面がないと曲のどの部分かを認識することさえ困難である。Beethovenの悪筆ぶりが十分堪能できる! 意外だったのはこの段階の自筆スケッチにぺダル記号もちゃんと記載されていたこと。最終的に完成した版(この自筆譜は紛失しているとのこと)の原典楽譜(全曲)もついている。一般に流布している楽譜は、ところどころ違っていたりする。解説が非常に詳しく記載されているが残念ながらドイツ語のみ。(2004.6.14)

http://homepage3.nifty.com/jymid/hori/horidashi.htm
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作曲家ハンス・ロットについてのメモ

2006-05-25 13:08:01 | Weblog
 作曲家ハンス・ロットについてのメモです。

                **

ロット作曲「交響曲」ほか(ヴァイグル指揮 ミュンヘン放送響)
http://www.h2.dion.ne.jp/~kisohiro/rott.html

「夭折の天才作曲家、ハンス・ロット(1858~1884)。(中略)ブルックナーの弟子で、マーラーの友人だったロットは、22歳でこの交響曲を完成させました。しかし各方面から演奏を拒否されたことなどから精神のバランスを崩し、自殺未遂を繰り返したあげく、26歳で病死。(中略)代表曲である『交響曲』は、ロットの死後100年以上たった1989年に初めて演奏されて以来、いくつかの録音が出ていたそうです。今回の Weigle盤は、2003年の新録音にもかかわらず廉価盤。(中略)この曲、各楽章の演奏時間は、9分21秒→11分12秒→12分15秒→22分28秒と、だんだん長くなってゆきます。(中略)
 第1楽章は、映画「エデンの東」のテーマによく似たメロディで、おだやかに始まります。このメロディは全曲を統一するテーマとして、あちこちに顔を出します。
 第2楽章はゆっくりとした優しい音楽。 ブラームスとブルックナーとマーラーを混ぜ合わせて、みずみずしい若さをふりかけたような、すばらしくロマンティックな楽章です。
 第3楽章・スケルツォは、聴いてびっくり、マーラーの交響曲第1番の第二楽章の主題にソックリです。マーラーの1番は1888年の作曲ですから、マーラーがロットから借用したんですね。それにしてもロットのほうが、より複雑でスケール大きく聴こえるのは気のせいかな。優雅さにも不足しません。
 第4楽章・長大なフィナーレ。 悠久の大地のような響きの中に、ブラームスの第1交響曲第4楽章を思わせる清々しい主題が登場し展開され、巨大なフーガが音の大伽藍を築き上げ、クライマックスでは最初の主題が堂々と再現されます。
 美しいメロディが次々に現れるので、初めて聴いたときから心を奪われます。一方、長大で複雑な構造ゆえ、何度聴いても新たな発見があります。当時、なぜ演奏を拒否されたのか不思議です。 
 このCD、演奏も素晴らしいです。 こんなに安くて良いのでしょうか。(04.7.15.記)」

                **


Hans Rott(1858~1884)
交響曲第1番 ホ長調(Symphony No.1 E-dur)(作曲年代:1878-1880)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/200411.html

「ハンス・ロットの交響曲第1番をいずれ紹介しようとしてるうちに、エライことになってしまいました。2004年11月の日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で沼尻竜典氏が、この曲を演奏会のメインに据えるという、壮挙を企画しています。


<11月13日追記>
 聴いて来ました!
 やはり実演は素晴らしい。
 このコーナーで紹介した曲で、実演を聞いたのは初めてではないでしょうか?
                *
 11月は「ハンス・ロット特別強化月間」に指定し、ハンス・ロット交響曲第1番をご紹介。
 ハンス・ロットは、マーラーの2歳年上の敬愛する親友で、ブルックナーの弟子。残念なことに、ロットは、26歳で夭折してしまいます。もし長生きし、多くの曲を残していたら、後期ロマン派音楽史は塗り換わっていたかも。
 作風は、一聴してわかるように、マーラーに酷似しています。しかし、ロットが20歳の時、この曲を書いたのは、マーラーが交響曲第1番「巨人」や、「嘆きの歌」、「さすらう若人の歌」などを書くよりも前のことです。
 ブラームス的要素、師のブルックナー的な要素も感じられますが。
 「誰が誰の真似をした」ということで、ことさら、マーラーの偉大な功績をおとしめる必要はありませんが、マーラーのあれらの交響曲群が出現する以前に、この交響曲が存在したことは、ロットの名をもっと高からしめても良いのではないでしょうか?1240人の作曲家を取り上げている三省堂の音楽作品名辞典に、ロットの名前さえ出ていないのはなぜなのでしょうか?
 CPOレーベルからも、以前からCDが出ていましたが、今年、ARTE NOVAレーベルから、うれしい\1,000で、素晴らしい録音が出ました。


 このCDのライナーから・・・

 「ロットを失ったことで音楽のこうむった損失ははかりしれない。彼が20歳の時に書いたこの最初の交響曲でも、その天才ぶりは既にこんなにも高く羽ばたいている。僕が見るところ、この作品は-誇張ではなく-彼を新しい交響曲の確立者にするほどのものだ。(中略)彼は僕と心情的にとても近いので、彼と僕とは、同じ土から生まれ、同じ気に育てられた同じ木の2つの果実のような気がする。僕は彼から非常に多くを学ぶことができたはずだし、たぶん僕たち2人が揃えば、この新しい音楽の時代の中身を相当な程度に汲み尽くしていただろう。」By グスタフ・マーラー(1900)

 本当にマーラーの言う通り-誇張ではなく-「新しい音楽の時代の中身を相当な程度に汲み尽くしていた」、と思います。
 皆さん、分厚い日本語解説が付いて\1,000のARTE NOVAのCDを買い、日フィルの定期を聴きに行きましょう!
 日フィル・沼尻竜典氏の壮挙に喝采!

 <11月13日追記>

 日フィルの定期では、指揮者の沼尻竜典氏によるハンス・ロット交響曲第1番についてのプレトークがありました。
 沼尻氏は、マーラーとの類似点を(皇帝が前プロだったので、ステージにピアノがあったわけですが)ピアノを弾いて、いろいろと比較。
 沼尻氏のトークの中で、印象深かったのは、「マーラーは、ロットを愛し、帝立歌劇場のライブラリから、ロットの交響曲第1番のスコアを、しばしば借り出している記録が残っている。当時のマーラーは、ウィーンの楽壇で絶対的権力を持ち、もし、マーラーがロットのこの曲を演奏したい、と言い出せば、反対できるものはいなかったはず。なのに、マーラーは愛する友人のこの曲を、興味を持ち、研究はしながらも、聴衆には紹介しようとしなかった。。。そのあたりの、マーラーの心理を考えると、なかなか興味深いものがありますね。」
 結局、2~4楽章を含む全曲の世界初演は、作曲後110も経った、1989年。ロットのシンフォニーが実演されるなんて、もう、「最初で最後」かも、という感じで、日フィルの定期に、馳せ参じましたが、日本初演ではありましたが、「最後では、ないな。」という思いを抱いて、家路につきました。」

                **

『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88

【ハンス・ロットの生涯】
 母マリーア・ロザリナ・ルッツ(1840年 - 1872年)は、美貌で人気の女優・歌手であり、わずか17歳のとき、年長のウィーンの喜劇俳優カール・マティアス・ロット(1807年 - 1876年)と不倫の末に妊娠し、18歳で出産した。ロットの両親が結婚するのは、父親が先妻と死別した1862年になってからであり、それまでロットは認知されず、公式に母親の私生児として育てられた。ちなみに「ロット Rott 」というのは父親の芸名であり、本名は「ロート Roth 」であった。母親の死後から2年、父親は舞台の事故で障害者となり、それから2年後に世を去った。
 両親を喪ってからもウィーン音楽院で学業を続け、ピアノをランツクローン、和声法をグレーデナー、対位法と作曲をフランツ・クレンに師事した。幸いにも、その技量と経済的な困窮が認められ、学費納入を免除された。在学中に、一時期ルドルフ・クシジャノフスキーやグスタフ・マーラーと同居していたことがある。
 1874年よりオルガン科でアントン・ブルックナーにオルガン演奏を師事、1877年に同科を了えた。ブルックナーによると、ロットはバッハを巧みにこなし、即興演奏は見事であったという。当時の青年音楽家が避けられなかったように、ロットもワーグナーの楽劇に感銘を受け、1876年の第1回バイロイト音楽祭に出席してすらいる。
 その頃ロットは、ウィーンのマリア・トロイ教会のオルガニストを務めていた。1878年、音楽院での最終年次に、ベートーヴェン作曲賞コンクールに《交響曲ホ長調》の第1楽章を提出するが、ブルックナーを除いて多くの審査員は、これを却下し、中には嘲笑する者さえいたと伝えられる。1880年に交響曲を完成させると、ロットはこれを指揮者ハンス・リヒターとブラームスの二人に見せ、演奏してもらおうとかけ合った。だがこれは失敗に終わる。ブラームスは、ブルックナーが音楽院の若者に大きく影響していることを好ましからぬ思いでおり、あまつさえロットに、どうせ才能は無いのだから、音楽を諦めるべきだとさえ言い切った。不幸なことに、ロットはマーラーの堅忍不抜の精神を持ち合わせておらず、マーラーが生涯において数々の困難に打ち勝つことが出来たのに対して、ロットは精神病におしひしがれてしまう。
 ロットは音楽教師として自活するため、アルザスのミュールハウゼンの学校に赴任することになっていたが、1881年、まさに旅立とうとするその日に、汽車の中で「ブラームスが爆弾を爆発させた」などとあらぬ妄想を口走り、そのまま精神病院に収容された。一時的に回復して、室内楽曲の作曲に着手したこともあったものの、やがてうつ病に落ち込むようになる。1883年末の診察カルテによると、「幻覚症を伴う精神異常、被害妄想。もはや快復の見込み無し」とある。何度かの自殺企図の末、1884年に結核により他界、享年25歳。亡骸はブルックナーを含む親しい知人に見送られ、ウィーンのツェントラル=フリードホフ墓地に葬られた。

【ハンス・ロットの作品】
 ロットの友人たちのおかげで、自筆譜のいくつかはウィーン国立図書館の音楽資料室の中に保存された。《交響曲ホ長調》や、未完成に終わった《交響曲 第2番》のスケッチなどもその一つである。《交響曲ホ長調》は、マーラーの音楽の特色のいくつかの先触れとなっており、それゆえに際立っている。とりわけ第3楽章は、いら立たしいほどマーラーに酷似している。終楽章では、ブラームスの《交響曲 第1番》に言及されている。
 マーラーはロットの歌曲についても好意的に述べたが、不幸なことに、一作も残されていない。《弦楽六重奏曲》も作曲したが、マーラーはそれを知らず、これも散逸したらしい。ロットは大量に作曲したものの、書いたものをすぐに破棄してしまい、こんなものは価値が無いと言っていた。
 ロットの才能に最初に気づいたのは、ブルックナーとマーラーである。マーラー自身、ロット作品からの引用楽句を自作に挿入している。20世紀を通してロットの作品はほとんど忘れられていたものの、1989年に交響曲がシンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団により初演され、その後ただちに録音された。その演奏・録音は、うずもれていた自筆譜を再発見したイギリスの音楽学者ポール・バンクスによる、演奏用の校訂譜が用いられている。
 現在そのほかに聞くことの出来る作品は、序曲《ユリウス・カエサル》、《牧歌風序曲》、《管弦楽のための前奏曲》の3つである。現在では、「ロットは、ロマン派の終焉を世界で最初に予知した不世出の才能であった」と、再評価の最中にある。
 《交響曲ホ長調》の日本初演は、2004年11月11日および12日に沼尻竜典の指揮する日本フィルハーモニー交響楽団によって、実現を見た

【ハンス・ロットの楽譜】
リース&エルラーやドブリンガーなどの固有名詞は、出版社名を示している。
(管絃楽曲)
 交響曲第1番ホ長調(交響曲断章つき) Sinfonier Nr.1 E-Dur: mit Sinfoniesatz E-Dur (1878), Ries & Erler (2003年頃)
 「ジュリアス・シーザー」のための前奏曲 Ein Vorspiel zu 'Julius Caesar' (1877), Doblinger (2003年頃)
(ピアノ曲)
 アンダンティーノ ヘ長調 Andantino in F, Johannes Volker Schmidt
 牧歌ニ長調 Idylle D-dur, Johannes Volker Schmidt
 フーガ ハ長調 Fuga C-dur, Johannes Volker Schmidt
 メヌエット変ニ長調 Menuett Des-dur, Frank Litterscheid
 四手のためのフーガ ハ短調 Fuga c-Moll, Johannes Volker Schmidt
(歌曲)
 ふたつの願い Zwei Wunsche (Sop./Ten., Piano) , Johannes Volker Schmidt
(合唱曲)
 天にまします我らが父よ Pater noster (Bar., Str.) , Doblinger
 Epigonen-Chor: für gemischeten Chör a cappella, Doblinger
 エコー Das Echo: für gemischeten Chör a cappella, Doblinger

                 **

 ウィーン国際ハンス・ロット協会のサイト(新しい交響曲の創始者ハンス・ロット)
http://www.hans-rott.de/
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面白そうな本

2006-05-24 10:12:01 | Weblog
 この本、面白そうです。メモ。

『ユダの福音書を追え』
[著]ハーバート・クロスニー
[訳]関利枝子ほか
[出版社]日経ナショナル ジオグラフィック社/日経BP出版センター
[掲載]週刊朝日2006年5月26日号
[評者]永江朗

 4月6日、アメリカの地理学協会(ナショナル ジオグラフィック協会)は『ユダの福音書』の写本を解読した、と発表した。この福音書によると、ユダはキリストを官憲に売り渡した裏切り者ではなく、むしろキリストの最も信任厚い弟子で、密告はキリスト自身の指示によるものだったという。ユダがやったことはのちのユダヤ人差別にもつながるのだから、衝撃は大きい。
 この大発見の一部始終を明らかにしたノンフィクションが早くも出版された。ハーバート・クロスニー『ユダの福音書を追え』だ。表紙には翻訳者の名前がないが、奥付を見ると関利枝子ほか全部で10人の名前が並んでいる。分担して猛スピードで翻訳したものらしい。
 中身はすこぶる面白い。正直いって、私は話題の『ダ・ヴィンチ・コード』よりも、こちらのほうが興奮した。なにしろ書いてあることはすべて事実なのだから。
 ページの大半は『ユダの福音書』の内容についてではなく、発見から復元と解読にいたるまでのすったもんだに費やされている。というのも、エジプトの洞窟でこれを発見したのは、学術調査隊などではなくて、現地の農民だったからだ。ようするに限りなく盗掘に近いものだった。やがてそれが古美術商らの間を転々としていった。まさか誰もそれが『ユダの福音書』だなどと思わずに。
 1700年ぶりに外気にさらされ、しかも乾燥したエジプトからアメリカに渡ったパピルスの束は、急速に朽ちていった。しかも、一儲けをたくらむ古美術商たちが駆け引きをする間、銀行の貸金庫のなかで劣化を速めていた。
 このあたりの描き方は、まるでハリウッド映画ばり。『ユダの福音書』が最後には解読されるという結末を知っているのに、つい手に汗握ってしまう。
 4月16日、イギリス国教会のカンタベリー大主教は、『ユダの福音書』発見は陰謀だと非難した。もっとも、いわゆる異端の福音書はほかにもたくさんあるそうで、これもそのひとつだとか。

http://book.asahi.com/topics/TKY200605230135.html
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日録

2006-05-23 19:40:12 | Weblog
 変な風邪(?)が流行っているようです。みなさん、くれぐれもお気をつけください。私自身はこれまで「○○は風邪引かない」式生活を実践してきたつもりでしたが、今年に入ってからは二度も風邪を引いてしまっています。。。。

 症状は、全身のけだるさと寒気と筋肉痛のような痛み。そして発熱、かすかな咳っぽさです。。。

 今朝は、妙な熱っぽさから思わず体温計を取り出して熱を測ってしまいました。体温計の表示は、久しぶりに見るような数値でした。。。しかし、「やわな子供ではない、体力のある大人だ、こんなことで寝込むわけにはいかない、大事な演習授業だし。。。」と判断して、薬を飲んで、マスクをはめて、午前中の演習に出ました。その後、仕事をして、また学校に戻り、授業。。。と思ったら、先生は風邪を引かれてお休みでした。

 J先生、くれぐれもお大事になさってください。

 今晩は、FMのモーツァルト週間の演奏会でも聴きながら、しっかり安静にして休もうと思います。。。
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小黒世茂(おぐろ・よも)さんの歌

2006-05-23 10:12:43 | Weblog
 メモです。

 塚本邦雄さんの弟子、小黒世茂(おぐろ・よも)さんの歌集『隠国(こもりく)』(本阿弥書店)から。

聖五月、頭上の雲と飲みくだす一杯の水の近きへだたり  小黒世茂

 いろんな読みができそうな作品で、惹かれます。たとえば、「私が飲もうとしているコップの水に頭上に浮かぶ雲が映っている。本当の雲は私のいるところよりもずっと高いところにある。でも私は、その水に映っている雲ごといま飲みくだしてしまうのだ。そうして雲は私に飲まれたことになるのだ。聖母月ともいわれる聖なる五月に。」と、読むこともできそうです。結句の「近きへだたり」をどのように読むかがポイントかもしれません。


堀端を乗合バスの来る時刻<わたくしの死は誰にもわたさぬ>  小黒世茂

 バスで病院に行くところを詠まれた作品かもしれないと思いました。「尊厳死」がテーマの一首だろうと思います。下句のきっぱりとした表し方に惹かれます。
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P.D.Q. Bach

2006-05-22 13:33:46 | Weblog
 メモです。

                **

【楽譜の風景】~P.D.Q. Bach のおバカな世界~
http://homepage1.nifty.com/iberia/score_pdqbach.htm

 ピー・ディー・キュー・バッハ(P.D.Q. Bach (1807-1742)?)はヨハン・セバスティアン・バッハがたっくさん産んだ中の最後の、そして疑いなく最低の子供で、歴史上最も正当に忘れられた作曲家といわれています。これからご紹介する彼の作品"NOTEBOOK FOR BETTY-SUE BACH" (Schickele No.13 going on 14)を聴いた者は皆例外なくその意見に同調することでしょう。 なお、Betty-Sue BachはP.D.Q.の娘ではなく、P.D.Q.の最も果てしなく遠い親類に当たる叔父Leonhardt Sigismund Dietrich Bachの娘だそうです。つまり、ほとんど無関係ということです。(後略)
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前川佐重郎さんのうた

2006-05-21 19:38:04 | Weblog
 前川佐重郎さんの第一歌集『彗星紀』(ながらみ書房)より。

 もともと詩人として活躍されていた前川さんの短歌作品だけあって、詩的なイメージの横溢しているところに惹かれます。メモ。

少年の鼓膜は海に打ちあぐる荒ぶる崖に弦をたらして  前川佐重郎

雨だれのおとに殺意のにほひして美しと見ゆ蝸牛の螺旋  前川佐重郎

木の影を沿ひつつゆけばむらさきの一千の葉ふりそそぐ見ゆ  前川佐重郎
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日録

2006-05-21 18:12:05 | Weblog
日録メモです。

 今日は久しぶりに快晴の休日だったので、かねてから行きたかった千葉県市原市姉崎453の顕本法華宗一乗山妙経寺(ご住職:橘無我氏)に出掛けました。家を出たのが朝の7時40分頃。地下鉄とJR総武線、内房線を乗り継いで、JR姉ヶ崎駅に到着したのがちょうど10時ぐらい。目的の妙経寺は、姉ヶ崎駅東口を出てすぐ目の前にありました。が、まずはお供えのお菓子を用意しようと考えて、ちょうど駅構内の市民ギャラリーコーナーで展示準備をされていた地元の方に、評判の和菓子屋さんの在り処を尋ねると、「駅を出て旧街道をちょっと行ったところにある松月堂が有名です。」とのこと。早速松月堂まで行き、お菓子を選びました。松月堂は、いちじくまんじゅうが有名なところらしいのですが、私は、杏ジャムをたっぷりはさんだ大きなロールケーキがすごくおいしそうでよさげに思えたのでそれにしました。

《姉崎松月堂のページ》
http://www.ichihara.or.jp/shogetudo_a/

 寺では、ちょうど法事をやっており、30分ほど墓地の東屋で待たせて頂きました。法事が終わって次に出掛けられるまでのわずかの時間、ご住職から「戊辰戦争の頃の妙経寺」について少しだけお話を伺うことができました。

 今回私が伺いたかったことは、

「戊辰戦争の船橋・市川戦争
http://www001.upp.so-net.ne.jp/hack/sensou.html

の際に、撒兵隊(さっぺいたい)第三大隊(隊長:増田直八郎)が姉ヶ崎の妙経寺境内に宿営した記録、文書が寺に伝わっているのかどうか。」でした。

 ご住職によれば、現在の妙経寺には、撒兵隊(さっぺいたい)関係者の墓は伝わっているものの、撒兵隊の宿営関連の文書は残念ながら一つも伝わっていないとのことでした。

                **

 もともと姉ヶ崎駅前の一等地に広大な寺域を持っていた妙経寺は、平成12年に完成した姉ヶ崎駅前区画整理事業のために、かなり広大な境内地を手放したとのことです。
 上の写真は、妙経寺旧山門の位置から、妙経寺の旧境内地の大ケヤキ、ならびに現在の山門、本堂を望んだところです。「旧妙経寺の大ケヤキ」は、幸いなことにまだ伐採されずに残っていますが、なんとなく寂しげな風情を漂わせています。旧山門跡の近くには、「駒繋ぎの桜」(寺を訪ねてきた人が馬を繋いだという言い伝えのあった見事な桜の古木)があったそうですが、伐採されてしまったそうです。

《妙経寺の風景の変遷》
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/omoide/jinjya/myoukyouji/myoukyouji.htm

                **

 今回の用事が一通り済んで、それまで一滴の水も摂らなかった私は、精進落としを兼ねて食事をとろうと、「おいしくてすごく安い」と地元で評判らしい「寿々女(すずめ)寿司」に行くことにしました。店は、駅前の旧街道を木更津方面に進み、「椎津(しいず)」交差点で左折、かなり長い富士見坂を登りきったところ。駅前から約2キロほどの道のりの場所です。店に着くと残念なことにシャッターが下りていました。日曜は休みとのこと。。。仕方なくまた姉ヶ崎駅前に戻り、手近な食堂に入って精進落としをしました。

 メモ。

《寿々女(すずめ)寿司》
住所:千葉県市原市椎津1038-4
電話:0436-61-3713
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作曲家、松下真一さんに関するメモ

2006-05-20 23:22:43 | Weblog
 『管弦楽のための<星たちの息吹き>』の作曲家、松下真一さん(1922生~1990歿)に関するメモです。

                *

【松下真一氏に関するページ】
http://members.jcom.home.ne.jp/a_ohsawa/page06_matusitasiniti.html

 松下氏とは高校(大阪府立茨木高校、旧制茨木中学)の先輩後輩の間柄にあたられる橋元淳一郎氏が綴られた松下氏に関する思い出です。(後略)

                *

【作曲家鈴木治行氏による「鈴木治行のすべて」】サイト
 ~1997年9月:今月の1曲~
http://www.netlaputa.ne.jp/~hyama/db/suzuki/subete9709.html

『松下真一/フレスク・ソノール(1966)』
 「カンツォーナ・ダ・ソナーレ第1番」(1960)の頃のセリエルな装いは次第に薄れ、松下真一の関心は響きの彫琢へと向かった。時として官能的ともいえるその響きの造形の腕の冴えは見事だが、後の方になると技巧を持て余し、うますぎるが故にかえっていささかデザイン的ともいえる表現になっていったのではないか。そこに失われた深みを取り戻そうとしてか、やがて仏教的な題材へと傾斜して行ったのだった。その頃の代表作といえる「シンフォニア・サンガ」(1974)にしても、しかしやはりデザイン的な観は拭い切れない。いまだ聞けない曲も多いが、今のところそうなる前の60年代後半あたりの音楽が最も興味深い。基本的にはヨーロッパ前衛の語法に拠っているとはいえ、この洗練度まで行けるのはそうよくあることではない、特に彼の世代では。彼よりはるかに聞き劣りする作曲家がいくらでも高く評価されている日本の現状を思えば、松下真一は不当に忘れられている。

                *

【松下真一作品集】(発売元:フォンテック、発売日: 2006年3月21日、盤種: CDアルバム、レコードNo: FOCD-2560、(税込) 2548円)

 松下の音楽は今聴いても斬新である。本盤には70年代前半の代表作を2作品収録。アコースティックなオルガンから電子音楽に近い効果を引き出してみせる「コンツェントラチオーン」、そして大作「シンフォニア・サンガ」での仏教を題材にした内容は驚異的。

http://music.yahoo.co.jp/shop/c/10/focd2560

                *

【松下真一(1922~1990)】 

<profile>

 1922年10月1日、大阪府茨木市生まれ。旧制茨木中学校、旧制第三高等学校(現:京都大学教養)理科を経て九州大学理学部及び同大学大学院(文部省特別研究生)修了。理学博士。数学者、作曲家。

 数学においては位相調和解析学・ポテンシャル論の研究者であり、フランス科学アカデミーより『ショケー・松下の公理』が認定・発表され、その後、ドイツの物理学者であり数学者のパスカル・ヨルダンとヨルダン代数の共同研究を行なう。大阪府立大学助教授及びドイツ国立ハンブルク大学客員教授、同理論物理研究所研究員。

 作曲の方ではほとんど独学であり、幼少時より、父・久一による音楽的感化の下、作曲を始める。1961年5月、第35回ウィーン世界音楽祭より招待(同ISCM;日本代表)。1962年4月、ローマ国際作曲コンクール入選。1965年6月、ザグレブビエンナーレより招待。同年、マドリッド世界音楽祭より招待。1968年5月、スウェーデン国立放送電子スタシオより招聘。世界初のGaborsystemの共同研究。1970年、EXPO'70日本万国博委員。途中、1963年12月より1974年まで国際現代音楽祭「大阪の秋」を創立し常任委員を務める。

 この後、自由な立場で種々の研究者、創作家、作曲家、文筆家として活動する。

http://www.fontec.co.jp/newrelease3/sinpu/monthly/0603/FOCD2560.htm
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芹沢さんが描いた「神」のこと(メモ)

2006-05-20 11:26:46 | Weblog
 芹沢さんが描いた「神」について。

 メモです。

 作家、芹沢光治良氏の一読者による私設ホームページ【芹沢光治良文学館】サイト
http://www.hi-ho.ne.jp/kstudio/kojiro/index.htm
に掲載されている、

 『教祖様(おやさま)』考の文章
http://www.hi-ho.ne.jp/kstudio/kojiro/oyasama.htm

を読むといろいろ考えさせられます。


(以下、引用させて頂きます。)
                ***

   『教祖様(おやさま)』考 1999.8.1-

 芹沢氏が自分の生涯を翻弄され、実父がすべてを捧げた天理教とは何であったのか。それを知るためには、教祖中山みきの伝記を書くのが一番だと考えて、書き上げた天理教教祖伝が『教祖様(おやさま)』です。芹沢氏が書くからには、教祖伝と言っても単なる伝記ではなく、すばらしい文学作品に仕上がっています。作者はこれを書きながら、主イエス・キリストに降りた唯一の神が、大和の農婦、中山みきにも降りたのだと信じられました。その作者が10年近い歳月を通して見つめつづけた中山みき像の結晶『教祖様』を下地に、中山みきの生涯および神と信仰について考えてみたいと思います。
 後に「おや様」と誰からも親のように慕われた中山みきが生まれたのは、1798年6月2日、今から約200年前のことです。生まれた場所は奈良の田舎の三昧田というですが、重要なのは近くに大和神社があったこと、そして「いざなみのみことが3年3月とどまった」と親神の言う庄屋敷村にほど近かったことでしょう。
 家は農家で名字帯刀を許された、今でいう中の上くらいの家庭でした。信仰の面から見れば、みきの両親は浄土宗の熱心な信者で、みきもその影響を受け、13歳で中山家に嫁入りの話が出たときも、「尼になりたい」と言って一度は拒否しています。結局両親に説得され結婚しましたが、その条件に毎晩念仏唱名する許可を得るほど信仰心のある娘でした。
 不思議ではありませんか? 13歳の娘が尼になりたいと言うほど仏を求めたこころが。少女のみきは何を思っていたのでしょう。
 1999年春、みきの生家前川家を訪れました。田舎としては決して大きくない家です。そこ大和は周りを山に囲まれた、どこまでも平坦な土地です。風光明媚なわけでも、厳しい自然があるわけでもない、何もない田舎町でした。
 みきは婚家において人並み以上の働き者でしたが、5年間子供ができなかったことで肩身の狭い思いを味わいました。その頃、中山家の檀那寺である善福寺で五重相伝の伝授会が行われ、悲しんでいるみきを思いやって、家族が参加を勧めました。みきは伝授会の後、「本当の意味で受けたのは唯一みきだけだった」と和尚から感心されますが、
 この経験により、みきに神が降りるというわけではなかったようです。
 神がかりのある前のみきを一言で評すれば、欲がなくこころのきれいな働き者で信仰心の厚い娘ということでしょうか。この事は、神が降りる社となれる最低条件かもしれません。そのみきに神が降りたのは、1838年10月24日のことです。息子善右衛門の足痛快癒を祈願するために修験者を呼んだのですが、加持台が偶然留守で、みきが代役に立ったのでした。この事はみきが修験者も認めるほど心の澄んだ慈悲深い人間であることを示しています。だが、その祈祷に降りたものは、いつものような霊や八百万の神ではなく、「天の将軍」と名乗る唯一の神でした。神はみきの口を通じて、中山家に「因縁あるこの屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい……返答せよ」と迫ります。
 ここでちょっとブレイクします。「神」と本欄で使う神は、この世の運営に関わる人間のような意志のある見えない存在です。決して唯一神を指すものではありません。この見解の理由は、僕自身の体験(管理人月報参照)、また「この宇宙を造った神とは、人間のような意志のない存在、ただ大自然そのものではないか」という芹沢氏の晩年の解釈に依ります。ここで使う神は、その大自然の意を伝えることのできる存在と考えてください。天にはそんな八百万の神々が実際に存在するのです。では本題に戻ります。
 ここは不思議なところです。因縁ある、つまりいざなみのみことが3年3月とどまったこの地を、世界助けの中心にすることは、最初から神の計画であったわけです。いざなみのみことの魂を持ったみきを、この地に住む中山家に嫁に迎えることも、すべて神の思惑であったということになります。また、神は「引き受けないなら、この家粉もないようにする」と脅していますが、それほどの力を持った神なら、そんな事を頼まずに、ただ宣告すれば良いのでは?と疑います。人間に選択の権利を与えたのでしょうか。ここで思い出すのは『旧約聖書』です。旧約の世界の中で、神は幾度となく人間の自由意志を尊重する態度をとっています。神の望む生き方をすれば幸福は約束され、それに反すれば苦難を嘗める。それを決定する権利はいつも人間の側に与えられていたのです。そして人間がいつも神には抗えないと悟ったように、夫善兵衛も、全ての親類が反対する中、天の将軍の申し出を承諾したのでした。
 みきはこのとき40歳になっていました。当時としては、子供を育て上げ、妻の役目を終え、夫と楽隠居を待つ間際の年齢でした。神は何故この年齢まで待ったのでしょう。釈迦の母、イエスの母、伊弉冉尊の魂を持ったというみきに神が降りることは、最初から神の計画であったはずです。それならばもっと早くに降りても良かったように思えるのですが(実際、釈迦もイエスも30の声を聞いた頃に神に触れています)、神は40歳のみきに降りたのでした。それは、どんなに清い魂を持った者でも、女として人間として生きるうちに、俗世に汚れて堕落することがあるから、それを見極めるのに40年が必要だったということでしょうか。あるいは、それも神の計画だったのでしょうか。
 この日からみきと家族の苦難の生活が始まります。みきは貧しい者や病んだ者への施しを始めたのです。それも家財をすべてなげうつような、度を超した施し方でした。みきは神のことばを聞いて満足していましたが、神のこころが家族に理解されない苦しみを抱き、家族は家族で、母が狐つきと罵られ、実際にそう思えるような無理な施しの中で苦しんでいました。そして、その苦しみは10年以上続きました。釈迦もイエスも、家を捨て家族を捨て、無一物になって教えを説きました。しかし、みきは家族と共に歩んだのです。その為に、神の声をきけない家族は、疑惑と苦しみの中で過ごさなければなりませんでした。なぜだったのでしょう。それは、神が初めて男性ではなく、女性のみきを選んで降りたことが、大きな鍵となっているように思えます。釈迦やイエスが火のような強さで教えを説いたのに対し、みきが女性のやさしさで教えを説くという違いの中に、教えの雛形となる家族も必要だったのではないでしょうか。
 みきの家族はそのように苦しみましたが、その苦しみの中から、古い家族を超えた新しい魂の家族の芽が植えられ始めたのでした。みきが56歳の時、夫善兵衛はその苦しみの中でなくなります。しかし、それは同時に神の刻限でもありました。その年の晩夏、みきは次女のこかんを大阪ににおいがけに出しました。ついに布教活動が始まったのです。布教とは何か? 布教とは読んで字の如く、教えを敷き広めることです。現在の宗教の多くが誤ったのは、それを教団を広げると置き換えたことにあるのですが、その非に気づくような知恵のある世代の登場はいつになるのでしょう。
 布教を始めた翌年には、娘はるのお産で初めて「おびやのゆるし」をみせます。その評判が広がって「お産の神さん」と言われるようにもなりますが、その頃には家を売り、日々の飯にも困るほどの窮乏で、みきの家は相変わらず嘲笑の的でした。しかし、みきが59歳の時、足達重助という男が、いざりの娘を助けてくれとみきの元を訪れます。みきはその場で娘を歩かせて、初めての癒しをみせます。この二つの出来事がみきの身辺に変化をもたらし始めたのです。
 みきが64歳から66歳の頃、ついに「神の家族」が姿を見せ始めます。病気を癒してもらった者のうちから、みきの教えに耳を傾ける者が出てきたのです。66歳といえば、みきが神がかりにあって25年後!のことです。四半世紀――なんと長い月日だったことでしょう。ですが、それも当然だったのかもしれません。例えば、釈迦は王子としても生まれ、幼い頃から学問に通じ、出家して後も7年間、死に瀕するような苦行を行っています。イエスも子供の頃から律法に通じていたという下地がありました。ただの田舎の農婦であったみきが神の話を理解し、その身にたたき込むまでに、25年は必要だったのでしょう。
 神の家族はひとりまたひとりと増え、みきの家には常に人々が集って、毎夜みきの神の話がとりつがれました。みきが67歳の時、「とうりょう」と呼ばれ、後にみきの片腕となる大工の飯降伊蔵が入信します。伊蔵は、妻里が産後の肥立ちが悪くて寝たきりだったのを助けられたのですが、初めてお礼に伺った日の帰りに、「お礼にお社をつくってさしあげたいなあ」と夫婦で話し合うほど、こころの豊かな二人でした。その気立てゆえでしょう、1ヶ月後にはもう「お授け」をいただいています。そして、その伊蔵の希望通り、壊してばかりだったみきの家にお社がふしんされたのです。せっかく余計な衣を脱いで身軽になっていたみきは、このふしんをどう思ったことでしょう。釈迦ならば、あっさりと「大切なのは器ではなく中身だよ」と建物ではなく、こころの普請が必要であることを説いて、拒否したことでしょうが、みきには人間的な情が残っていたのでしょうか。それとも聞く耳を持たない信者たちを、神のようにただ優しく見守ったのでしょうか。
 みきと信者との断裂は、信者が現れ始めた、このごく初期の頃からはじまっています。みきは何とかして信者たちに、神の理をわからせようと話し続けたことでしょう。しかし、耳あれど聞かずの信者たちのこころには、なかなか浸透していかなかったようです。このことからも、神のこころになるとは、いかに大変なことであったかがわかるのです。作者はそれを当時の農民たちにとって「革新的な教えであったから」だと書いていますが、果たしてそうでしょうか。現代でも、『神の微笑』に登場する伊藤青年の口を通して語られる存命の親様の教えを受ける人たちの中に、どれほど神のことばをきちんとのみこんでいる人がいるのか、と疑問に思うのです。当時であれ、現代であれ、素直なこころにのみ、神のことばは浸透していくのではないでしょうか。
 そんな状態ではありましたが、みきの元を訪れる人の数は増える一方でした。百姓の次には、武士も訪れるようになります。それと同時に、イエスのときと同じように、旧教による弾圧もはじまったのです。山伏が刀をさげて乱暴狼藉をはたらくのですが、みきはそれにも一向に取り乱すこともなく、「神にもたれていれば何も案ずることはない」と怖れる信者たちを慰めます。みきにとって、信者も山伏も同じ神の子だったのではないでしょうか。ですが、みきのように信を持てる人はそう多くありませんでした。そのことが保身という考えを生み、権力を頼ることにつながっていきます。
 宗教団体。現代において、この言葉に嫌悪感を抱かないのは、その団体に属する人たちのみです。献金を迫り、政治に関与し、豪壮な建築と精神の繁栄を取り違える。異なる思想を排撃し、戦争にまで発展させる。幹部の心は金と権力に腐り、末端の信者の真の信仰は生かされない。宗教はいつこの過ちから抜け出て、宗派の壁を超えて1つになることができるのでしょうか。みきは当然その宗教の堕落を承知していました。或いはそれも神の計らいの一部であると教えられていたのでしょうか。実際、教えが個人個人の対話だけで広まるということは不可能な時代だたでしょう。信者たちの権力主義は、仕方ないことだったとも思えます。みきはその信者たちの行動に関わりなく、その晩年まで、ただ淡々と神の道を説き続けたのでした。
 この頃のみきについて疑問に思うことがあります。信者たちは「今夜はお降りがあるかもしれない」と言って夜遅くまで帰らなかったとあるのですが、この通りだとすると、みきが神の話をするのではなく、降臨した天の将軍が話していたということになります。では信者たちは、みきのことをどうとらえていたのでしょうか。神の社ではあるが自分たちと同じ人間だと、軽く考えてしまった者もあったのではないでしょうか。そこから神のことばは重んじるが、みきの言葉は聞き流しても構わないという誤解が生じたのではないでしょうか。それが晩年のみきと信者たちとの溝となったような気がするのですが――。
 そうだとするとみきはどんなに寂しかったことでしょう。四半世紀を血のにじむ修行の中で神と共に暮らしたみきは、確かにおなじ人間ではあっても、イエスとおなじ神の子と呼ばれるにふさわしい魂になっていたというのに。作品の後半には、その寂しそうなみきの姿が、目に浮かぶように描かれていて悲しくなります。信者たちにもう少し智慧があれば、人生の智慧があればと思わずにいられません。
 神のこころと人間心との間に板挟みになってこかんが出直したのは、みきが78歳の時です。ひとが死の準備をするような年齢になってなお、みきの活動は勢いを増します。こかんを失った後、みきは本当にただひとりになったのではないでしょうか。もう何に煩わされることもなく、周りに集まるまことのある信者たちの行く末をたのしみに、ひたすらに神一条の道を走ったようです。みきは方々の信者ににおいがけを行い、その芽は全国に芽吹いていきます。息子の善右衛門は相変わらず権力におもねることばかりを考えるていたらくでした。
 みきは86歳のとき、休息所に移ります。すでに善右衛門も出直し、みきと対等に対話のできるものはありませんでした。芹沢氏の『教祖様』もここにきて、主人公がみきから信者へと移ったようでもあります。みきはもうただ一人ひとりの胸に神のこころを刻むことだけに時を過ごしたようです。この晩年のみきからはただただひかり輝くみきの姿が浮かび上がってきます。奈良のおだやかな寒村から、目に見えぬ後光が世界中に放たれている映像が見える気がするのです。
 明治20年の冬、みきは90歳で天に帰りました。115歳の寿命を信じた信者たちは大いにうろたえましたが、25年の定命を縮めて、それこそ復活のイエスのように自由な魂で活動をはじめたのです。『教祖様』はここで筆を置かれていますが、この日から、神が表に現れると予言した30年祭までの間、存命のみきは日本中で活動したのではないでしょうか。あらゆるまことある信者の元に現れて、その信仰を深めたのではないでしょうか。そして30年祭。いよいよみきは井出国子の身を借りて教祖殿へ現れます。
 井出国子は、あの3女きみの理を継いだ娘だったと言います。心根のやさしさを買われて、狐付きと噂されたみきの娘であるにも関わらず、請われて鍛冶屋に嫁いだきみ。国子の夫もまた鍛冶屋でした。その国子の身体で教祖殿に座り込んだみきは神の教えを説きはじめたが、すぐに教祖殿から引きずり出されました。そこから播州に帰って、一人ひとりの胸に種を蒔くような地味な活動をつづけたが、それこそが神の道で、それとは対照的に天理の教祖殿では、今も変わらず主のない愚かな儀式が繰り返されています。国子は教団を非難するのではなく、「形ではない、団体ではない、自分ひとりで神に真向かうこころの対話が必要なのだ」というやさしい真実を伝えていたのでしょう。
 終戦3年後、国子は85歳で天に帰っています。死の数ヶ月前から「疲れた。もう神の元に帰りたい」と絶食したと言います。みきの道、国子の道を思うとき、神の道のなんときびしいことかと畏れずにはおれません。あのイエスの道もそうでしたが。そして『神の微笑』に登場する伊藤青年――。
 この欄に伊藤青年のことを書くのは適当かどうかわかりません。しかし、芹沢氏が晩年あれほど関わった人物であるから、その名を刻んでおくのは必要でしょう。伊藤青年は初代真柱、真之亮の理を継ぐものだと言います。みきは生前、若い真之亮には教えを説きませんでした。それには何かを待つような様子があったと言います。みきはこの日の来ることを知っていたのでしょうか。今では湯河原の天命庵と呼ばれる伊藤青年の自宅が、井出国子の播州の鍛冶屋が朝日神社と呼ばれたように、神の教えの拠点となっています。
 みきはもう宗教として教えを広めることなど、もうあの国子の時から念頭にないのでしょう。宗教など無くとも人間一人ひとりが大自然と対話し、愛を語るために言葉を使い、幸福になるために知恵を使うことを思い出すだけで良いのですから。ただそのためだけに、今もみきは働かれているのではないでしょうか。神にもたれて安心していれば、何事もうまくいく。この大自然に感謝して、やさしく、欲のない、低いこころで、通らせてもらってください。みきの伝えた教えは、そんな簡単なことだったように思います。この豊かな大自然に育まれて、私たちは生きているのですから。
 『神の慈愛』のなかで親様のことばをとりあげた一文を、ときどき僕は何度も繰り返してみるのです。そのあまりに重要な素朴なことばを――
 「言葉によって人間同士愛を語りあい、知恵によって、おたがいの幸福をつくれるように」 (了)

                ***

 【天命庵】天命庵主・大徳寺昭輝氏の公式サイト
http://daitokuji.com/a/index.htm
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