カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

作曲家ハンス・ロットについてのメモ

2006-05-25 13:08:01 | Weblog
 作曲家ハンス・ロットについてのメモです。

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ロット作曲「交響曲」ほか(ヴァイグル指揮 ミュンヘン放送響)
http://www.h2.dion.ne.jp/~kisohiro/rott.html

「夭折の天才作曲家、ハンス・ロット(1858~1884)。(中略)ブルックナーの弟子で、マーラーの友人だったロットは、22歳でこの交響曲を完成させました。しかし各方面から演奏を拒否されたことなどから精神のバランスを崩し、自殺未遂を繰り返したあげく、26歳で病死。(中略)代表曲である『交響曲』は、ロットの死後100年以上たった1989年に初めて演奏されて以来、いくつかの録音が出ていたそうです。今回の Weigle盤は、2003年の新録音にもかかわらず廉価盤。(中略)この曲、各楽章の演奏時間は、9分21秒→11分12秒→12分15秒→22分28秒と、だんだん長くなってゆきます。(中略)
 第1楽章は、映画「エデンの東」のテーマによく似たメロディで、おだやかに始まります。このメロディは全曲を統一するテーマとして、あちこちに顔を出します。
 第2楽章はゆっくりとした優しい音楽。 ブラームスとブルックナーとマーラーを混ぜ合わせて、みずみずしい若さをふりかけたような、すばらしくロマンティックな楽章です。
 第3楽章・スケルツォは、聴いてびっくり、マーラーの交響曲第1番の第二楽章の主題にソックリです。マーラーの1番は1888年の作曲ですから、マーラーがロットから借用したんですね。それにしてもロットのほうが、より複雑でスケール大きく聴こえるのは気のせいかな。優雅さにも不足しません。
 第4楽章・長大なフィナーレ。 悠久の大地のような響きの中に、ブラームスの第1交響曲第4楽章を思わせる清々しい主題が登場し展開され、巨大なフーガが音の大伽藍を築き上げ、クライマックスでは最初の主題が堂々と再現されます。
 美しいメロディが次々に現れるので、初めて聴いたときから心を奪われます。一方、長大で複雑な構造ゆえ、何度聴いても新たな発見があります。当時、なぜ演奏を拒否されたのか不思議です。 
 このCD、演奏も素晴らしいです。 こんなに安くて良いのでしょうか。(04.7.15.記)」

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Hans Rott(1858~1884)
交響曲第1番 ホ長調(Symphony No.1 E-dur)(作曲年代:1878-1880)
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/200411.html

「ハンス・ロットの交響曲第1番をいずれ紹介しようとしてるうちに、エライことになってしまいました。2004年11月の日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で沼尻竜典氏が、この曲を演奏会のメインに据えるという、壮挙を企画しています。


<11月13日追記>
 聴いて来ました!
 やはり実演は素晴らしい。
 このコーナーで紹介した曲で、実演を聞いたのは初めてではないでしょうか?
                *
 11月は「ハンス・ロット特別強化月間」に指定し、ハンス・ロット交響曲第1番をご紹介。
 ハンス・ロットは、マーラーの2歳年上の敬愛する親友で、ブルックナーの弟子。残念なことに、ロットは、26歳で夭折してしまいます。もし長生きし、多くの曲を残していたら、後期ロマン派音楽史は塗り換わっていたかも。
 作風は、一聴してわかるように、マーラーに酷似しています。しかし、ロットが20歳の時、この曲を書いたのは、マーラーが交響曲第1番「巨人」や、「嘆きの歌」、「さすらう若人の歌」などを書くよりも前のことです。
 ブラームス的要素、師のブルックナー的な要素も感じられますが。
 「誰が誰の真似をした」ということで、ことさら、マーラーの偉大な功績をおとしめる必要はありませんが、マーラーのあれらの交響曲群が出現する以前に、この交響曲が存在したことは、ロットの名をもっと高からしめても良いのではないでしょうか?1240人の作曲家を取り上げている三省堂の音楽作品名辞典に、ロットの名前さえ出ていないのはなぜなのでしょうか?
 CPOレーベルからも、以前からCDが出ていましたが、今年、ARTE NOVAレーベルから、うれしい\1,000で、素晴らしい録音が出ました。


 このCDのライナーから・・・

 「ロットを失ったことで音楽のこうむった損失ははかりしれない。彼が20歳の時に書いたこの最初の交響曲でも、その天才ぶりは既にこんなにも高く羽ばたいている。僕が見るところ、この作品は-誇張ではなく-彼を新しい交響曲の確立者にするほどのものだ。(中略)彼は僕と心情的にとても近いので、彼と僕とは、同じ土から生まれ、同じ気に育てられた同じ木の2つの果実のような気がする。僕は彼から非常に多くを学ぶことができたはずだし、たぶん僕たち2人が揃えば、この新しい音楽の時代の中身を相当な程度に汲み尽くしていただろう。」By グスタフ・マーラー(1900)

 本当にマーラーの言う通り-誇張ではなく-「新しい音楽の時代の中身を相当な程度に汲み尽くしていた」、と思います。
 皆さん、分厚い日本語解説が付いて\1,000のARTE NOVAのCDを買い、日フィルの定期を聴きに行きましょう!
 日フィル・沼尻竜典氏の壮挙に喝采!

 <11月13日追記>

 日フィルの定期では、指揮者の沼尻竜典氏によるハンス・ロット交響曲第1番についてのプレトークがありました。
 沼尻氏は、マーラーとの類似点を(皇帝が前プロだったので、ステージにピアノがあったわけですが)ピアノを弾いて、いろいろと比較。
 沼尻氏のトークの中で、印象深かったのは、「マーラーは、ロットを愛し、帝立歌劇場のライブラリから、ロットの交響曲第1番のスコアを、しばしば借り出している記録が残っている。当時のマーラーは、ウィーンの楽壇で絶対的権力を持ち、もし、マーラーがロットのこの曲を演奏したい、と言い出せば、反対できるものはいなかったはず。なのに、マーラーは愛する友人のこの曲を、興味を持ち、研究はしながらも、聴衆には紹介しようとしなかった。。。そのあたりの、マーラーの心理を考えると、なかなか興味深いものがありますね。」
 結局、2~4楽章を含む全曲の世界初演は、作曲後110も経った、1989年。ロットのシンフォニーが実演されるなんて、もう、「最初で最後」かも、という感じで、日フィルの定期に、馳せ参じましたが、日本初演ではありましたが、「最後では、ないな。」という思いを抱いて、家路につきました。」

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『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88

【ハンス・ロットの生涯】
 母マリーア・ロザリナ・ルッツ(1840年 - 1872年)は、美貌で人気の女優・歌手であり、わずか17歳のとき、年長のウィーンの喜劇俳優カール・マティアス・ロット(1807年 - 1876年)と不倫の末に妊娠し、18歳で出産した。ロットの両親が結婚するのは、父親が先妻と死別した1862年になってからであり、それまでロットは認知されず、公式に母親の私生児として育てられた。ちなみに「ロット Rott 」というのは父親の芸名であり、本名は「ロート Roth 」であった。母親の死後から2年、父親は舞台の事故で障害者となり、それから2年後に世を去った。
 両親を喪ってからもウィーン音楽院で学業を続け、ピアノをランツクローン、和声法をグレーデナー、対位法と作曲をフランツ・クレンに師事した。幸いにも、その技量と経済的な困窮が認められ、学費納入を免除された。在学中に、一時期ルドルフ・クシジャノフスキーやグスタフ・マーラーと同居していたことがある。
 1874年よりオルガン科でアントン・ブルックナーにオルガン演奏を師事、1877年に同科を了えた。ブルックナーによると、ロットはバッハを巧みにこなし、即興演奏は見事であったという。当時の青年音楽家が避けられなかったように、ロットもワーグナーの楽劇に感銘を受け、1876年の第1回バイロイト音楽祭に出席してすらいる。
 その頃ロットは、ウィーンのマリア・トロイ教会のオルガニストを務めていた。1878年、音楽院での最終年次に、ベートーヴェン作曲賞コンクールに《交響曲ホ長調》の第1楽章を提出するが、ブルックナーを除いて多くの審査員は、これを却下し、中には嘲笑する者さえいたと伝えられる。1880年に交響曲を完成させると、ロットはこれを指揮者ハンス・リヒターとブラームスの二人に見せ、演奏してもらおうとかけ合った。だがこれは失敗に終わる。ブラームスは、ブルックナーが音楽院の若者に大きく影響していることを好ましからぬ思いでおり、あまつさえロットに、どうせ才能は無いのだから、音楽を諦めるべきだとさえ言い切った。不幸なことに、ロットはマーラーの堅忍不抜の精神を持ち合わせておらず、マーラーが生涯において数々の困難に打ち勝つことが出来たのに対して、ロットは精神病におしひしがれてしまう。
 ロットは音楽教師として自活するため、アルザスのミュールハウゼンの学校に赴任することになっていたが、1881年、まさに旅立とうとするその日に、汽車の中で「ブラームスが爆弾を爆発させた」などとあらぬ妄想を口走り、そのまま精神病院に収容された。一時的に回復して、室内楽曲の作曲に着手したこともあったものの、やがてうつ病に落ち込むようになる。1883年末の診察カルテによると、「幻覚症を伴う精神異常、被害妄想。もはや快復の見込み無し」とある。何度かの自殺企図の末、1884年に結核により他界、享年25歳。亡骸はブルックナーを含む親しい知人に見送られ、ウィーンのツェントラル=フリードホフ墓地に葬られた。

【ハンス・ロットの作品】
 ロットの友人たちのおかげで、自筆譜のいくつかはウィーン国立図書館の音楽資料室の中に保存された。《交響曲ホ長調》や、未完成に終わった《交響曲 第2番》のスケッチなどもその一つである。《交響曲ホ長調》は、マーラーの音楽の特色のいくつかの先触れとなっており、それゆえに際立っている。とりわけ第3楽章は、いら立たしいほどマーラーに酷似している。終楽章では、ブラームスの《交響曲 第1番》に言及されている。
 マーラーはロットの歌曲についても好意的に述べたが、不幸なことに、一作も残されていない。《弦楽六重奏曲》も作曲したが、マーラーはそれを知らず、これも散逸したらしい。ロットは大量に作曲したものの、書いたものをすぐに破棄してしまい、こんなものは価値が無いと言っていた。
 ロットの才能に最初に気づいたのは、ブルックナーとマーラーである。マーラー自身、ロット作品からの引用楽句を自作に挿入している。20世紀を通してロットの作品はほとんど忘れられていたものの、1989年に交響曲がシンシナティ・フィルハーモニー管弦楽団により初演され、その後ただちに録音された。その演奏・録音は、うずもれていた自筆譜を再発見したイギリスの音楽学者ポール・バンクスによる、演奏用の校訂譜が用いられている。
 現在そのほかに聞くことの出来る作品は、序曲《ユリウス・カエサル》、《牧歌風序曲》、《管弦楽のための前奏曲》の3つである。現在では、「ロットは、ロマン派の終焉を世界で最初に予知した不世出の才能であった」と、再評価の最中にある。
 《交響曲ホ長調》の日本初演は、2004年11月11日および12日に沼尻竜典の指揮する日本フィルハーモニー交響楽団によって、実現を見た

【ハンス・ロットの楽譜】
リース&エルラーやドブリンガーなどの固有名詞は、出版社名を示している。
(管絃楽曲)
 交響曲第1番ホ長調(交響曲断章つき) Sinfonier Nr.1 E-Dur: mit Sinfoniesatz E-Dur (1878), Ries & Erler (2003年頃)
 「ジュリアス・シーザー」のための前奏曲 Ein Vorspiel zu 'Julius Caesar' (1877), Doblinger (2003年頃)
(ピアノ曲)
 アンダンティーノ ヘ長調 Andantino in F, Johannes Volker Schmidt
 牧歌ニ長調 Idylle D-dur, Johannes Volker Schmidt
 フーガ ハ長調 Fuga C-dur, Johannes Volker Schmidt
 メヌエット変ニ長調 Menuett Des-dur, Frank Litterscheid
 四手のためのフーガ ハ短調 Fuga c-Moll, Johannes Volker Schmidt
(歌曲)
 ふたつの願い Zwei Wunsche (Sop./Ten., Piano) , Johannes Volker Schmidt
(合唱曲)
 天にまします我らが父よ Pater noster (Bar., Str.) , Doblinger
 Epigonen-Chor: für gemischeten Chör a cappella, Doblinger
 エコー Das Echo: für gemischeten Chör a cappella, Doblinger

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 ウィーン国際ハンス・ロット協会のサイト(新しい交響曲の創始者ハンス・ロット)
http://www.hans-rott.de/
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