音楽の神性云々を話題にするとき、おそらく大抵は、聴取者の感受の度合いが問題になりそうな気がします。たとえば、MICHAEL JACKSONの音楽とBACHの音楽のどちらに神性を感受するかを考えてみます。まったくひとさまざまではないかと思います。そもそも、音楽における「神性」をどう定義するかは、この話題の最大の問題かもしれません。
さきほど、MICHAEL JACKSONの《HEAL THE WORLD》を、ラジオのMJ追悼番組のなかで初めて聴きました。すごく佳い曲だと思いました。ただ、《神性》を感受させる音楽かどうかという意味でどうなんだろう、とそのとき思いました。歌詞のついていない音楽で深くこころを揺さ振られるのと、歌詞つきの歌をしみじみ聴いて「佳いなあ」と思うのとでは、《感受》の深さにおいてちがうのかもしれません。歌詞のことばが介在すれば、聴取者は「ことばの意味」をまず受け取ってしまうからです。音楽本来の《神性》とは、純粋に音の流れ、音の絡み合いから感受されるものなのかもしれません。
さきほど、MICHAEL JACKSONの《HEAL THE WORLD》を、ラジオのMJ追悼番組のなかで初めて聴きました。すごく佳い曲だと思いました。ただ、《神性》を感受させる音楽かどうかという意味でどうなんだろう、とそのとき思いました。歌詞のついていない音楽で深くこころを揺さ振られるのと、歌詞つきの歌をしみじみ聴いて「佳いなあ」と思うのとでは、《感受》の深さにおいてちがうのかもしれません。歌詞のことばが介在すれば、聴取者は「ことばの意味」をまず受け取ってしまうからです。音楽本来の《神性》とは、純粋に音の流れ、音の絡み合いから感受されるものなのかもしれません。