カームラサンの奥之院興廃記

好きな音楽のこと、惹かれる短歌のことなどを、気の向くままに綴っていきます。

「塔」9月号からのいくつか

2007-09-19 18:54:48 | Weblog
 一昨日の朝、京都から戻ってくると、家のポストに歌誌「塔」9月号が届いていました。

 ばたばたしていてまだきちんとページを開くことができていませんが、ぱらぱらと見て惹かれたうたをいくつかメモさせて頂きます。

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電信柱がしずかな孤独をしているとまことしやかなり男の背中  永田和宏

 なぜだか、この一首を一読したとき、夕方のさびしい電柱に立ち小便をしている男の背中を想像しました。

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往還の地下鉄に息はくるしくて『虹の階梯』を読みあぐねをり  真中朋久

 偶然ですが、中沢新一さんの『虹の階梯』はちょうど私も読んでいるところだったので、おおっと思いました。

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ねじ花の咲きいる家を子は知りて夜に言うその道のぐにゃぐにゃ  吉川宏志

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運河沿ひを行けばしばらく足元に舟虫われと同行したり  小林信也

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鏡の中に葉の揺れてをりだんだんに伐られてしまふ界隈の木々  かざまきみこ

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跳ねたるは小さき飛蝗ゆふばえて草のあはひへ入りてゆきたり  千名民時
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作曲家江村さんのことばから

2007-09-19 10:17:55 | Weblog
 作曲家江村哲二さん(1960年生~2007年逝去)のことばから。メモです。

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 「自分の内なる音を聴く」

 (前略)

 作曲ということの一つには、自分の心の奥底にある、ある意味では決して開いてはいけない部分に、何かを探って切り裂いていく、そういう過程があるんです。若い頃、十九か二十歳くらいのとき精神医学とか深層心理学とかの勉強をしていて、ほんとうにそれと同じような考え方があると知って気が狂いそうになって、その方面の勉強はやめてしまったことがあります。なんていうか、見たいんだけれども見てしまったらだめで、全てが終わってしまうようなこと。ここでぎりぎりに止めておくのか、それともあっちの世界に行っちゃうのか、その境界線のところが創作という行為の本質だと思います。自分の胸を切り裂いていくことに近いものがあります。
 それを茂木(健一郎)さんは「自分が傷ついていくこと」と表現しています。自分が傷つくことをやっていながら、「傷ついている」ことそのものを表現してしまったら面白くもなんともない。その「傷ついていく」プロセスが何か新しいものを生み出すわけです。いわばぎりぎりの境界線上に位置しながら生み出し続ける。モーツァルトの弦楽四重奏曲K465《不協和音》の最初のアダージョは、そういった「闇」の部分を垣間見せている作品だと思います。
 19世紀、モーツァルトは能天気な楽天主義者と見られていました。でも決してそんな単純なモーツァルト像では本人を語りきれない。この「闇」のアダージョが特にそのことを教えてくれていると思います。

 (後略)

・・・・・茂木健一郎・江村哲二 共著『音楽を「考える」』(ちくまプリマー新書)より。


http://pun-don.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_599a.html

http://urbanbay.blog17.fc2.com/blog-entry-263.html
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