【赤い靴の女の子 きみちゃん】
http://jin3.jp/kimi/kimi.html
(以下、引用させて頂きます)
誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年に野口雨情によって書かれ、翌大正11年に本居長世が作曲したものです。この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。
「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県 静岡市清水をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。
女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水宮加三)で生まれました。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年のことです。
鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。明治41年、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」
雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。雨情は 、また夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われています。
後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻(右写真)とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。
きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容 する孤女院として「麻布区史」に も書かれています。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心から喜び感謝しなければならないと思います。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。
(以上、引用終わり)
何度読んでも胸を打ちます。。。
☆
「薬石の効なく」という言葉。
昨日のTBSラジオの番組『永六輔その新世界』でのこと。永さん曰く「遺跡から時々、この石はナイフでもなさそうだしいったい何に使ったものだろう、と考古学者が頭を捻ってしまう石器が出土するそうです。ところで、日常よく使われる言葉『薬石の効なく』の『石』って、どういう意味かわかりますか?」
【温石(おんじゃく)】
http://www.kyoto-arc.or.jp/177.pdf
どうやら温めて患部に置いたり身体のツボを尖った部分で押したりして使われたものだろうと考えられているそうです。
それにしても、赤い靴の女の子の一生を思うと、悲しくなります。自分がいかに恵まれているかということを感じます。もっともっと頑張れるはずと思えてきます。
http://jin3.jp/kimi/kimi.html
(以下、引用させて頂きます)
誰もが知っている童謡「赤い靴」、この詩は大正10年に野口雨情によって書かれ、翌大正11年に本居長世が作曲したものです。この赤い靴の女の子にモデルのあることが明らかになったのは、昭和48年(1973)11月、北海道新聞の夕刊に掲載された、岡そのさんという人の投稿記事がきっかけでした。
「雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったこともない私の姉です」。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛さんは5年あまりの歳月をかけて「女の子」の実像を求め、義妹である岡そのさんの母親の出身地静岡県 静岡市清水をかわきりに、そのさんの父親の出身地青森県、雨情の生家のある茨城県、北海道各地の開拓農場跡、そして横浜、東京、ついにはアメリカにまで渡って幻の異人さん、宣教師を捜し、「赤い靴の女の子」が実在していたことを突き止めたのです。
女の子の名は「岩崎きみ」。明治35年7月15日、日本平の麓、静岡県旧不二見村(現 静岡市清水宮加三)で生まれました。きみちゃんは赤ちゃんのとき、いろいろな事情で母親「岩崎かよ」に連れられて北海道に渡ります。母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。当時の開拓地の想像を絶する厳しさから、かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 明治40年のことです。
鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。明治41年、小樽日報に移った志郎は、石川啄木とも親交を持ったことが琢木の「悲しき玩具」に書かれています。
「名は何と言いけむ、姓は鈴木なりき、今はどうして何処にゐるらむ」
雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。おそらくそんな日常の生活の中でかよは世間話のつれづれに、自分のお腹を痛めた女の子を外人の養女に出したことを話したのでしょう。
「きみちゃんはアメリカできっと幸せに暮らしていますよ」。こんな会話の中で、詩人野口雨情の脳裏に赤い靴の女の子のイメージが刻まれ、「赤い靴」の詩が生まれたのではないでしょうか。雨情は 、また夭折した長女を「・・・生まれてすぐにこわれてきえた・・・・」と「シャボン玉」に詠ったと言われています。
後年、赤い靴の歌を聞いた母かよは、「雨情さんがきみちゃんのことを詩にしてくれたんだよ」とつぶやきながら、「赤い靴はいてた女の子・・・」とよく歌っていたそうです。その歌声はどこか心からの後悔と悲しみに満ちていたのです。
ところが、赤い靴の女の子は異人さんに連れられていかなかったのです。母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻(右写真)とアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。しかし、意外な事実がわかったのです。きみちゃんは船に乗らなかったのです。
ヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられたのです。薬石の効無く一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。
きみちゃんが亡くなった孤児院、それは、明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は、女子の孤児を収容 する孤女院として「麻布区史」に も書かれています。
3歳で母かよと別れ、6歳で育ての親ヒュエット夫妻とも別れたきみちゃんは、ただひとり看取る人もいない古い木造の建物の2階の片隅で病魔と闘いつづけました。熱にうなされ、母かよの名を呼んだこともあったでしょう。温かい母の胸にすがりたかったでしょう。それもできないまま、秋の夜、きみちゃんは幸薄い9歳の生涯を閉じたのです。母かよがきみちゃんの幸せを信じて亡くなったであろうことが、ただ救いでした。
この街、麻布十番に眠ったきみちゃんを思うとき、赤い靴の女の子「きみちゃん」の心安らかなことを祈り、今、私たちの幸せを心から喜び感謝しなければならないと思います。
母と子の愛の絆をこの「きみちゃん」の像に託し、皆さまの幸せを祈って、平成元年2月(1989)麻布十番商店街はパティオ十番に「きみちゃん」の像を建てました。
(以上、引用終わり)
何度読んでも胸を打ちます。。。
☆
「薬石の効なく」という言葉。
昨日のTBSラジオの番組『永六輔その新世界』でのこと。永さん曰く「遺跡から時々、この石はナイフでもなさそうだしいったい何に使ったものだろう、と考古学者が頭を捻ってしまう石器が出土するそうです。ところで、日常よく使われる言葉『薬石の効なく』の『石』って、どういう意味かわかりますか?」
【温石(おんじゃく)】
http://www.kyoto-arc.or.jp/177.pdf
どうやら温めて患部に置いたり身体のツボを尖った部分で押したりして使われたものだろうと考えられているそうです。
それにしても、赤い靴の女の子の一生を思うと、悲しくなります。自分がいかに恵まれているかということを感じます。もっともっと頑張れるはずと思えてきます。