「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

スーチーさんの来日とミャンマー人実習生の失踪

2016-11-02 05:45:12 | 2012・1・1
ミャンマ―の実質上の政治指導者、アウン.サン.スーチ―国家顧問兼外相が来日、5日間に渡って安倍晋三総理を初め各界の指導者と会談する。先日色々と話題を投げたフィリピンのドゥテルテ大統領に比べて、マスコミの扱いは小さいが、戦時中大東亜共栄園教育を受けた僕らの世代にとって、ミャンマーは、当時ビルマといったが懐かしい響きがある。

アウン.サン.スーチーさんの父、オンサン将軍は”反英独立の志士で、ミャンマーでは”独立の父”として知られているが、、昭和15年、一時日本に亡命.南機関長鈴木敬司大佐の郷里、浜松に面田紋二の日本名で居住していたこともある。そのゆかりの記念碑が浜松の舘山寺に建てられている。その関係もあって、スーチーさんも京都大学に留学したこともあり、今回も京都を訪れる。

僕自身はミャンマーに行ったことはないが、昭和58年、JICA(国際協力機構)の研修で約1か月、ビルマ(当時)人研修員8人と国内旅行をしたことがあるが、規律正しく勤勉であった記憶がある。ところが、先日、新聞で技能実習生が最近実習先から”失踪”するケースが急増しているというニュースを読んだら、国別”失踪者”で、ミャンマ―人が、中国人、ベトナム人に次いで3番目に多いことを知って驚いた。年間336人もいるのである。

東京の高田馬場にはミャンマー人が多く住むコミュニテイがあるそうだ。戦争が終わった直後、竹山道雄の「ビルマの竪琴」がベストセラーとなり映画化された。ビルマについて、僕らは知識があり、親しみがあるが、ミャンマーについてどうだろうか。また軍事政権下で育ったミャンマー人たちも同じ事が言えるのではないか。研修先の企業もミャンマー人実習生もお互いに過去の歴史をもっと学ぶべきだ。