「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

天降る「空の神兵」(2)作戦成功の陰に

2018-02-14 05:30:34 | 2012・1・1
パレンバン落下傘部隊(空挺隊}作戦成功の陰には、事前の周到な準備があったことはあまり、知られていない。将兵たちの血のにじむような猛訓練は映画「空の神兵」の中で 紹介されているが、同時に戦前からの一諜報部員の長年にわたる現地調査があった。中野学校第一期生、新穂智(にいほ.さとる)少佐(没時)で、戦前日蘭通商会議に随員として蘭印に派遣され、現地の石油事情を調査、さらに会議決裂後は同盟通信(現在の共同通信の前身)記者としてパレンバン駐在していた(新穂智少佐はその後西パプアに転戦”戦犯として処刑されている。その波乱の人生は、小ブログ2010年12月8日既載)。

パレンバン落下傘部隊は昭和17年2月14日午前、すでに占領下にあった馬来のカハン飛行場から梯団を組んんで発進したが、降下地は、すでに新穂少佐らの事前調査で飛行場近くの草地が選ばれていた。しかし、2月は雨季で、約500人の将兵たちは湿地化していた土地に足を取られ、34人もの方が蘭印軍との戦闘で犠牲になっている。

奇襲作戦であったかどうかは別として、パレンバンに降下した2月14日、南方での戦闘はシンガポール作戦が最終段階に来ていた。(15日英国軍全面降伏)しかし、蘭印軍が、日本の落下傘部隊の飛来をまったく想定していなかったわけではない。(写真)はセレベス島メナドに飛来した日本の落下傘部隊を想定して地元住民に警戒を呼び掛け配布されていたビラである。

戦争緒戦、わが国はパレンバンのほかメナド(海軍)西チモール(海軍)の三回、落下傘部隊が降下しているが、それぞれに尊い犠牲者が出ていたことも忘れてはいけない。