「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「インドネシア独立のために戦った」103歳日本女性の自伝出版

2017-09-17 04:50:43 | 2012・1・1
明日18日の「敬老の日」を前に明るいニュースだ。戦前、戦中、戦後,インドネシアと日本で波乱の人生を歩まれてきたシテイ.アミナ夫人(日本名長田周子さん)が10月4日の103歳の誕生日を前に、自伝「インドネシア独立のために戦った、ある日本人の物語」をこのほどジャカルタでインドネシア語で出版された。夫人は今、東京の病院で介護入院されている。

シティ夫人については、すでに小ブログ(2011年6月19,20,21日)で3回にわたって紹介しているが、戦前の昭和10年甲府出身の夫人が、当時では珍しい日本女子大学の学生時代、はるかスマトラ(蘭領東インド)から明治大学に留学中のマジッド.ウスマン氏とセットルメント運動で知り合い結婚した。ウスマン氏は、当時、祖国を和蘭から独立させようと運動している志士であった。ウスマン氏の故郷は西スマトラのパダンで、長田さんは独特の伝統的文化を持つ地で結婚生活を送られていたが、16年、大東亜戦争が勃発、蘭印によってジャワの抑留所へ収容されたが、17年3月、ジャワへ進攻した日本軍によって救出され故郷のパダンに帰った。

戦争中、スマトラは第25軍の軍政下にあったが、ウスマン夫妻は軍政監部の顧問として、独立実現のために協力していたが、18年3月、東條内閣は「大東亜戦争政略大綱」の御前会議で、スマトラを含む全インドネシアを独立させないと決定した。このため第25軍にとっては、独立運動のウスマン夫妻の存在が問題になり、二人を内閣府顧問という名前で、ていよく日本に移住させられた。大東亜共栄圏会議が開催された18年秋である。夫妻は二人の子供を連れてシンガポール経由、日本に向かったが、途中、台湾沖で乗っていた箱根丸が沈没されたりして12月、日本に到着した。

夫妻はシテイ夫人の言葉を借りれば”幽閉”された形でしばらく、東京の帝国ホテルに居住していたが、”幽閉”が長引いたため、シティ夫人の実家のある甲府への移住が許された。夫妻は20年7月7日、甲府空襲にもあっている。やがて終戦。しかし、戦後の混乱の中で、すぐには帰国できず、ウスマン氏がスマトラへ帰国したのは26年で、氏は戦中戦後の異国での心労から47歳で早逝されている。

僕は戦争中パダンで日本語紙「スマトラ新聞」の記者だった先輩(故人)を通じて、ウスマン夫人と知り合った。まだ出版された本は読んでいないが、、日本ではほとんど紹介されていないスマトラ軍政の知られざる一面が書かれてある。とくに夫人が証言されているスマトラ義勇軍創立にかかわる話は面白い。ジャカルタで発行されている邦字紙「じゃかるた新聞」(9月15日)によると、夫人の自伝は千部発行され、一部9万5000ルピア(約800円)。問い合わせ先は,電話(インドネシア021-3192-6978)オポール出版。