「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

忘れられた「3月4日」のわが街の空襲

2015-03-05 06:36:05 | Weblog
70年前の昭和20年3月4日の日曜日、集団学童疎開で地方に疎開していた東京の6年生は、中等学校(旧制中学校、高等女学校)受験のため帰京したが、まるでこれに合わせるかのように、早朝、B-29爆撃機の編隊が飛来し谷根千(谷中、根岸、千駄木)地域を中心に爆弾や焼夷弾を投下した。それから6日後の3月10日の下町大空襲が10万人もの大犠牲者をだす惨事だったためか、この「谷根千」空襲は都民の記憶に薄い。

この「谷根千」空襲と同じ朝、今、僕が住む目黒区柿の木坂の江戸時代からあった末広稲荷が爆弾で破壊され、たまたま甲府の学童疎開先から家族の許に帰ったばかりの近くの6年生の女性徒も直撃弾を受けなくなっている。この空襲については、近くに住んでいた警視庁カメラマンの石川光陽氏の写真も残っているが、末広稲荷境内の掲示板には”3月の空襲で焼けた”とあるだけで日時の記載はない。目黒区の区内の空襲をを記録するHPにも書いてない。

昭和19年11月から始まった米軍による東京空襲は敗戦の20年8月15日まで、ほとんど毎日のように続き、僕も5月23日の空襲で自宅近くに落ちてきた焼夷弾の破片を”火たたき”で消火したことがあるが、当時空襲の実態や被害については公表がなく新聞も伝えていない。だから、70年経った今では、体験者も年々すくなくなり、風化し始めてきている。わが家の近くの繁華街、自由が丘の空襲を伝えるHPには、3月10日の空襲で駅前が焼けたと記載されているが、僕の記憶では5月23日の空襲である。しかし、どちらが正しいかは断定できなくなってきた。