「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      大東亜戦争秘話(2)「西部ニューギニア横断記」

2010-12-09 07:00:45 | Weblog
新穂智(にいほ・さとる)少佐は昭和17年9月、豪州ラブダイの抑留所から抑留者交換船に乗ってアフリカ経由で帰国、暫く母校の中野学校で教鞭をとっていたが、18年早々、豪北方面の戦地に新任務を帯びて出発した。新任務は「神機関」の隊長として西部ニューギニアの地勢調査と原住民の宣撫工作であった。当時ニューギニアは人跡未踏の地もあり、日本にはこの地についての情報は皆無に近かった。

新穂は数名の日本人部下とインドネシア人軍補を道案内として引き連れ西部ニューギニアを海岸沿いからジャングル地帯に奥深く入りホーランディア(ジャヤプーラ)までの数百キロを踏破した。戦後、新穂は"戦犯”として連合軍に捕まり獄中で、弁護資料として、この時の踏破行を「西部ニューギニア横断記」として六巻にわたってしたためている。この横断記は青木弁護人の勧めで書いたものだが、赤い罫(けい)の入った陸軍の便箋に几帳面な字で現地の模様を丹念なスケッチ絵まで添えている。この記録は連合軍がニューギニアに再上陸する前の18年11月から19年6月までのものだが、内容は地勢だけでなく原住民の風俗、動植物の生態まで多岐にわたっている。

新穂は戦後いわゆるBC級戦犯として連合軍に逮捕され、ホーランディア法廷で住民虐殺罪で死刑を宣告され、24年3月3日刑死されている。もちろん、新穂の書いた「横断記」からは原住民虐殺などはまったく伺いしれない。逆に宣撫工作などには暖かい新穂の人間性が感じとられるほどだ。

新穂の書いた「西部ニューギニア横断記」は戦後、青木弁護人から鹿児島の遺族の元へ送られ、その写しが新穂のラブダイ時代の親友の手に渡り、さらに、その親友から数年前、僕の手元に渡ってきた。しかし、貴重な記録であり、僕の手では負えないところがあるので最近、インドネシア研究家で、とくにパプア問題に詳しいインドネシア文化宮の大川誠一氏にお預けした。インドネシア文化宮のHP(htp//grabudayaindonesia)でも新穂智少佐の「ニューギニア横断記」について書いておられる。もちろん僕は大川氏の意見に大賛成で、ご遺族の了解がえられればと願っている。

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