「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

夏休 悲劇の橘丸回想

2006-07-31 06:08:25 | Weblog
夏休みの頃になると、悲劇の橘丸を想い起こす。橘丸は戦前東京と伊豆
大島間の客船だったが、夏休みの一時期だけ房州へ海水浴客を運ぶ船と
して利用された。竹芝桟橋を朝9時半に出航、昼前には房州の海水浴場へ
行けるので人気があった。昭和13年、僕も両親に連れられ橘丸に乗船、
勝山(鋸南町)まで行った。港がないので沖合いに停泊した船から艀で
浜に上陸した。

この橘丸が、大東亜戦史に残る悲劇の船となった。戦争の激化とともに
橘丸は軍に調達され、病院船に改造された。純白の船体には赤十字のマークが
描かれ、戦病の兵士を内地へ搬送するのに使用されていた。ところが
昭和20年、戦局の悪化につれて南方では船舶が不足し制海権も失われた。
病院船橘丸も偽装され兵員弾薬輸送に転用された。

明らかに戦時国際法違反である。20年8月3日、橘丸は豪北バンダ海で米駆逐艦
によって拿捕され、ケイ諸島からジャワへ移送中の第5師団第11連隊、1562
名は捕虜となり、モロタイ島経由フィリッピンへ送られた。この事件で第5師団
長はセラム島で自決した。そして戦後23年、横浜のいわゆるBC級裁判で国際法
違反を問われ南方軍総参謀長、沼田中将ほか4人が重労働の判決を受けている。
僕の友人の一人も20年7月、白衣の傷病兵に仕立てられ、チモールからジャワへ
送られたが、このときは連合軍に発見されず無事だった。従軍経験者はよく
「軍隊は”運隊”だ」というが、まさに”運”に左右された集団だった。