ゆうの気まぐれ日記

備忘録のつもりで書いています。

面会

2010年03月31日 | 日記
一昨日とは違う時間帯に母に面会に行った。また車椅子に固定されて座らされていた。
「横にならせて欲しいと頼んでも管理が行き届かないからと言って聞き入れてくれない。入所者は皆1箇所に集められ椅子に座らされている」と母が言う。
 健康なものでも1日中車椅子に座った生活は苦痛だと思う。ましてや腰の悪い体力の弱った母。病院の体制に対する怒りが湧いてくる。少しでも長くここにいてベルトを解いて母を守ろうと思う。食事の介助。母は手が震えて一人で食事をすることもできなくなっていた。全粥。刻み食。ミンチ状態のハンバーグを母は飲み込むことができず、口に入れても吐き出してしまう。細かく刻んだ野菜も飲み込めない。なんという変わりようかと悲しい気分に陥る。
 面会室には横になれる場所がないので中央に連れて行くと丁度医師がいた。医師が私に近づいてきて「外泊とかはしばらくできませんから」と言った。私はカチンと来て「明日、キーパーソンの弟と一緒に来て母を退院させます」と言った。医師は「あっ、そうですか」と言って去って行った。一目見てこの医師は信頼できないとはっきり分かるような医師だった。人とのコミュニケーションができないのでは?と心配になるような医師だった。
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仕事が終わった

2010年03月30日 | 日記
今日で仕事が終わった。
一旦退職し、もう体力も無くなった私に神様はなんでこういう世界を見せるの!と勤め始めた当初は恨めしく思ったりもした。無理したら病気になるかもしれないと本気で思ったこともあった。
でも今は神様が私に機会を与えてくれたのだと思っている。
私なりによく頑張ったと思う。
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衝撃

2010年03月28日 | 日記
 病院に母に会いに行って驚いた。母がすっかり衰弱していた。顔が浮腫み無表情。手は振るえ声も小さく口の動きも悪い。まるで認知症がかなり進んだ人のような状態だった。
 「1日中、車椅子に括り付けられ腰やお尻が痛くて堪らない。腰が痛いので寝かせて欲しいと頼んでも誰も聞き入れてくれない。拷問にあっているようだ。こんなひどい病院は初めてだ。どうして私はこういう目にあわないといけないのだろう」と母は言う。
 あまりに変わり果てた母の姿を見て私は涙が出そうになった。面会室に入るや急いで固定ベルトを外して除けた。母は「あー、これで大分楽になった。苦しくて堪らずどうかして死にたいとその事ばかり考えていた」と言う。
 ずっと腰が悪く、その手術を受けるために昨年心臓の手術をした母。家でもほとんど横になって過ごしていたのに、1日中車椅子。しかもベルトでTの字ににくくりつけられている。どんなに辛いことだろう。痩せた母の肩や背中・手足をマッサージしながら慰めた。
 医師に直接あって話がしたいと思ったが「キーパーソンではない」という理由で面接を断られた。「腰が悪いのでなるべく横にならせてください」と介護の人に頼んでやりきれない気分で帰った。
 夜、弟にその事を伝えると「かわいそうだ。もう退院させよう」と母思いの弟が言う。
 
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母、入院

2010年03月24日 | 日記
夜、弟より電話があり、今日、母を精神病院の老人病棟に入院させて来たと言う。
「死にたい」など言うことが多く、鬱傾向が強いので入院して母に合う薬を見つける為との事だった。
母も入院を承諾して行ったのに、いざ、弟が帰ろうとすると「私も、もう帰りたい。一緒に連れて帰って」と言ったとの事。「後ろ髪を引かれる思いで帰ってきた。仕事が暇になったら様子を見に行って欲しい」と弟は言う。
 昨年の12月後半に仕事を引き受けて以来、私は母をすっかり弟夫婦に任せっぱなしだった。義妹からの相談の電話にも「よろしくお願いします」的な返事ばかりしていた。
 しかし私は勝手に一つの計画を立てていた。その計画は今月27日に母を実家に迎えに行って、28日には臼杵公園の桜を見せるというものだった。
 昨年の3月3日、心臓の大手術をした母。その母を車で臼杵公園まで連れて行ったが、昨春は許可証を持っていなかった為、公園内に車を乗り入れることが出来ず桜を見せることが出来なかった。(母の体力が弱っていたので時間をかけるゆとりもなかった)
 来年の春まで母が元気でいて欲しい。来年の春、母と一緒に臼杵公園の桜を観ることができたらどんなに嬉しいことだろう。その時からずっと私の心に中にこの計画が入っていた。
 そして、やっと桜が咲いた。その時が来たというのに母は入院・・・。私にとってはこれはかなりの衝撃だった。
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