自然はともだち ひともすき

おもいつくままきのむくままの 絵&文

短い夏

2009年07月24日 | 写真と文
 その人は体つきもほっそりとどうみてもごく普通のタイプなのに、どこにあれだけのパワーを秘めているのだろう。次々とって替わる筋肉隆々力自慢の腕相撲相手を、手のひらを組むが早いか一瞬のうちに小気味よくねじ伏せる様は、テレビ画面にはっきりと見ながらとても信じられない。
  なかには事前にもう勝負がついてしまう人もいる。組み合わせた瞬間魔法にかかったようにすっと力が抜けるらしく、負けた事実さえつかめないで呆然となっている。
  その恐るべき出力の源は何でしょう?と問いかける司会者に彼はさらりと答えた。
 「脳を空っぽにすることですよ」

 ? これ太郎に知らせてあげよう。
 若しかしてグッドアイデアかと思えたが、そううまくコトは運ばなかった。



  高校球児の太郎にとって3回の甲子園出場、秋の神宮大会制覇は夢のような幸運続きだったといえる。
  そのあとにくる重圧をあとまわしに、周辺ともども湧きに湧いた当時の記憶はまだ新しい。
 彼らは自分たちの実力をよく知っているように見えた。
  「僕らはいつも挑戦者」と絶えず自戒の紐を締めながらも、やはり心のどこかに生じるおごりは皆無とは言い切れなかっただろう。
  でもそこまで断言し非難するのは酷に過ぎる。
  あとは勝って当然。負ければ地獄。
  191校がしのぎを削る県大会、全国優勝の実績を持つ強豪と対戦した3回戦で、早くも太郎の夏ははかない終わりを告げたのだった。
 その日彼は脳を空っぽにできたかどうかは分からない。

  四季連続をめざす甲子園出場新記録への期待、叶わねば一転バッシングの矛先を向けられたりもして、うつ状態で部を去るものも出ると聞く。
  けれどもひとときの興奮がおさまると、この1年彼らがもたらした喜びを改めて味わうゆとりも見え始め、いたわりと感謝と、続く大学野球へのさらなる励ましがあって、流した涙が乾くのは間近いだろう。
 栄光の蔭に何十倍もの辛い思いに耐える人がいる。痛みのわかるやさしい人へと成長してほしい。
  好きな道とはいえたゆまぬ精進努力を重ねる常日頃には、心ひそかに自信を持っていいのだから。
 スポーツであれ学問であれ、すべてのアスリートたちに。その道へとつながるように。

 野球にはほとんど関心が無くて常時空っぽに近いお脳の中を
 あの神秘的な爆発力には縁がなくても、とりどりの哀歓で彩らせ快い刺激で満たしてくれた彼ら、
  「愛しているよ!」と躍っていた掲示板の誰かの言葉を、私もそのまま進呈しようと思う。


 

哀悼

2009年07月10日 | 絵と文
 あかりを抑えた室内にムード音楽が流れて、グラスによどむ液体に五色の光が小さく反射するのを見ながら、私はいつこの場から脱出できるかそればかり考えていました。
 ふと曲が変わって、ちょっとした空気の流れに乗り素早く座を立つことができたのは天啓のようなもので、隣に座っていた先生が繋がるようにあとに続いても、それはごく自然な動きでしたよね。
 同じ思いの二、三人が抜け出ようとして起ちあがりかけた時、訳知り顔の仲間のひとりがまあまあと押しとどめ、ついでに意味ありげなウインクをよこしたのも、ほろ酔い気分のパフォーマンスくらいに気軽く受け止めて、小雨の夜の戸外へ逃れ出て正直ほっと顔を見合わせましたね。

 送ってあげましょうとおっしゃるのを、丁寧に辞退したのは終バスの時間に間に合うし、もうひとつまるで誘い合わせたように小雨の帰路をたどることになったあの夜の余韻、きっとそのまま乱したくなかったのだと思います。
 次に教室で会ったとき、これはまたいい雰囲気でしたもの。
 「あとになって、送ってもらえばよかった、って思いました」と私が言い
 「僕も。送ってあげればよかった、と思いました」と先生が言い、
 そして笑いあったこと。
 まるでふたり小さな秘密でも共有したように…

 みんな若くて勢いがあって、ことあればなんとか会。
 主役または脇役でいつも会の中心人物でありながら、下戸で甘党の先生には気の重いときもあったでしょうに、定番の最後のリクエスト「青い山脈」がコーラスとなって締められるまでは、本当にみなを和やかな雰囲気の中へと誘ってくださいました。
 それがきまってエンドレスな二次会三次会へと移行して、途中脱出に頭を悩ましたことなども、今となればただ懐かしい。



 あれから何年たっているのでしょう。 
 思いもかけぬ突然の訃報でした。
 絵筆は握っていられたのでしょうか。
 生きるか死ぬかの境目を3度も切りぬけて得られた死生観は、ことに最近の先生の描く華麗な画面の底流にも強く潜んでいる、と感じていたのは決して私だけではないと思えますし、目に見えぬ周囲への優しさ思いやりの心もじわり伝わってくるのです。
 小下絵の原型がわからなくなるほど思いを込め、時間を忘れて描き込める情熱、どこにいても筋金を背中に一本通した姿勢の良さ、アンコールのたびに見るはにかんだ笑顔のかわいいこと、あのバイブレーションの利いた歌声とともに生き生きと蘇ります。
 絵だって、人生だって、表面だけの美しさを追わず、精神の奥深さを追求することが最も大切なのだとは、教室の誰よりも誠実で真摯に、身をもって繰り返し教えていただきました。
 その十分の一でも、自分も言葉でなく行為で自然と表せるようになれたら。
 それができれば、日展、院展どちらでもいいから出品をとすすめられながら、肩書のあるなしで作品の価値が左右されるのに反発する困った生徒の、たったひとつの恩返しになるのかもしれませんが。

 音を消して、ひっそり過ごした一日でした。
 教室をやめてから、あえてお会いせず文通ばかりで楽しんだ胸の奥底に
 鮮やかな色彩が果てしなく燃えて浮かんでは消えていました。



             「白桃」 岩彩 
         (岡山の白桃を送ったら描いてくださったもの)


音痴じゃない!

2009年07月05日 | ひとりごと
 古びた木造の校舎から緩やかなピアノの音が流れて、唱和する子供たちのかわいい歌声も風に乗って流れてくる── 
 のどかな追憶の1シーン、実は私の胸痛むトラウマのひとつだったのに、最近はここへくすぐられるような楽しさが加味されて、これって一段とまろやかに成長したしるしかしらん??

 小学1年入学して初めての音楽の時間。
 誰もが知っている童謡の一節をひとりずつ歌うことになり、楽しげなざわめきの中で私の不安は的中した。
 先生の前奏のあと発する第一声がどうしても思った通り出てないらしい。なぜか口をあけて声らしきものを出すたびに、どっとみなで笑いたてるのである? なんで?
 先生も笑って、ではもう一度と始めからやり直すけど、出る声といったらどの音階にも属さない電子音みたい、これはどなたにも真似られないオリジナルだ、との認識はできた。
 皆笑うけど当の本人至極真面目だったのだ。そのときは。

 それまでの日常に、こどもが好む歌という歌を歌ったことは一切なかったのだから。
 そのくせ母親が内職のミシンを踏みながら、ハミングしていた新潟の民謡などちゃんと覚えている。
   雪の山道ノーエ  
   …ジャンプでテレマク クリスチャニーヤでヨーイとサイサイ
   歌って滑ってコーロコロ…
 以前一家は大雪の高田で暮らしていて私はそこで生まれた。
 うろ覚えながら歌詞も節回しもほぼ間違いないのは、音感の根っこだけは生えていたとみえる。

 それ以来音楽の時間だけはなるだけひとの後ろに隠れて本など読みながら、先生と視線が合ったときだけパクパク口をあけてやり過ごした。
 それなのに学芸会でいつもコーラスのメンバーに選ばれるのはなんとも有難迷惑で、だからその時いつも起きるブーイングらしきものも記憶からなかなか消えそうにない。
 中学生になり音楽の担当が、純白のプリーツスカート、白のハイヒールの眩しい女性教師に替わって、憧れて、待望の初めての授業時間。
 簡単なテストのあと、採点の対象にはしないから用紙の余白に知る限りの音楽家の名前を書きなさい、という。
 こんなはずじゃなかった、と恨んでみても後の祭り。
 そのときのあまりの無知さにきつく反省して、すぐに有名な作曲家など猛烈に一夜漬けで覚えまくった。
 これでもうだれにも負けない、と意気込んだけど二度と同じテストがなかったのは残念だった。でも後年本物の「音痴」だけ免れたのはそのおかげがあったかどうか。



 しかし世の中
 ○○音痴とか、××音痴とか頭に余分にくっつくものがありすぎる。
 自慢じゃないが、そちらの方は大した刺激も受けなかったから順調に育ったらしい。
 駅の出口がわからなくてうろうろするのは序の口で
 周知のはずの目的地まで、ナビゲーションするなんてとてもできない相談だし
 買い物がすめば車の置き場と正反対の方角でひとりキョロキョロ
 何度会っても人の顔は覚えられっこないし。
 
 年季の入った無口で、一人暮らしは長くて、「天然○○」との呼称はお墨付き。
 お金のことだけ今まで無難にすごせたのは、ほんとキセキだ。
 この間久しぶりに会ったPちゃんと話そうとしたら、ともかく口は開けたものの声はしわがれて、裏返って、Pちゃん机をたたいて笑い転げていたっけ。