自然はともだち ひともすき

おもいつくままきのむくままの 絵&文

優しく強く

2010年03月27日 | ひとりごと
 試合に負けて「腹を切りたい」といった高校の野球監督がいます。
 二十一世紀枠に負けるとは末代までの恥。もう野球などしたくない、死にたい、と。
 ああ、あのひと。
 去年太郎のチームが緒戦に破れて泣かされた、その相手チームの監督でした。
 何度も甲子園出場という結果に導いてくれて、地元では人気のある美術の先生だそうです。

 抽選会に羽織袴で出席したり、自衛隊に教わって軍隊式行進をさせたりはパフォーマンスにしても、
 対戦前から、髪の長い選手は軟弱、エンジョイ野球なんて聞いたことがない、大嫌い。と公言したのも戦術のひとつ、
 というよりただの放言と思えたけど。
 一方は勝つために耐え忍べ。一方は楽しんで勝て。
 両極端の方針に「求道と自由」、「野球哲学究極の対決」などと新聞に書きたてられて
 その究極の対象に、太郎たちは負けちゃったんだからなんともはや。

 マスコミの自前評価「優勝候補の最右翼」を打ち負かしたということで、当時地元の新聞はとても他県のひとには見せられない賑わいだったとか。
 試合前の雑音を笑って聞き流していた太郎チームの監督は、負けて帰るバスの中では、誰からともなく歌いだした鉄腕アトムの主題歌を一緒に歌っていたそうで、敗軍の将の心中は容易に想像できるのでした。
 以前にましての厳しい練習を、ただひとつの療法としてしのいだ日々のこと、あれもこれもいつかはすべて青春の日の貴重な思い出となることでしょう。
 おかげで元気をもらった人びとだってどれくらいいたことか。

 「DA、RA…」
 ふっと、口をついて出ていました。




 自信に満ちていたそのスタンス、共感を覚えた人もきっと大勢いたでしょう。
 負けた悔しさなら、野球にかかわる人はだれしも理解し、ともに受容できることだったのに。
 興奮のあまり一時の激情をカバーできなかった熱血監督は、後日涙ながらに謝罪してとうとう辞任されました。
 そうと知れば、また心が陰ります。


 「気持はよく分かる。こちらの子どもたちはなんとも思っていないが、それより向こうの選手たちの方は夏に向けて集中できるかが心配」
 とは、相手二十世紀枠の監督。
 「真相は少し違うとも聞いている。しかしあんな形で記事になればもう終わり。正義のマスコミの餌食になって、有能な指導者がまた一人消えてゆくのはさびしい」
 との、エンジョイチームの監督。

 ハッとしました。

 その気になればいくらでも興味本位に操作できるマスコミの在り方
 乗せられてたやすく人を批判する迂闊さ
 意識はなくても、どんな所で他人を傷つけたりしているかわからない恐ろしさ。 !( ̄∇ ̄; )


 誰に対してだったでしょう
 同じつぶやきがいつか出ていたんです。
 「DA! RA … 」
  ・・・  
      

桜幻想

2010年03月23日 | 写真と文
 北国ではまだ雪に埋もれて厳冬のままというのに、もう花だよりが届きました。
 聞くだけでなにかときめく桜前線、これからの2カ月余り春風に乗って日本中を駆け巡ることでしょう。

 日本武尊が東征の際に植樹されたといわれる樹齢2千年!!の「神代桜」。
 御母衣ダムの湖底に沈む命を奇跡的な移植工事でよみがえらせた「荘川桜」。
 春になると毎年水没地の村人が集まって、語りあいながら湖底に沈んだかっての村を偲ぶそうです。
 「薄墨桜」は千年生きてなお毎年美しく静かに花を咲かせ、見る人に明日への活力と深い思考を与えてくれています。

 桜って、凄いなぁ…
 老いてなお春を待って凛々しく開花する姿。
 そして、短いがゆえに散り際のその潔さ。
 一瞬の艶やかな光景は、その根元深くに死者を植え込んだかと作家に語らせるほど不思議な妖しさを持っていますが、
 私だって…それに劣らぬほど酔わされてしまいます。(*v.v)。



 (私が)生まれた高田の町、そこには夜桜で全国でも有名な公園があってね、と仕事の手を止めて語るときの母は、その時ばかりはやさしく穏やかに女性を感じさせるのでした。きっと父との思い出などを身近に見て感じていたのでしょう。
 お墓を東京へ移すまでの50年父が眠っていた八か山の桜、生前毎年お花見を楽しんだという磯部の桜、小金井の桜、境の桜、それぞれに遠い記憶のかなたから、さらにその向こうの見知らぬ世界から、何か懐かしく呼びかけてくるものがあるのです…

 子どものころといったら、ただただ花よりダンゴでした。
 とはいっても、当時の食事情はそのダンゴさえまぼろしのごとく花よりもなおはかなくて、桜ははるか遠くにかすんだただの背景にすぎません。
 10代おとめのころは、花よりファッション。
 とはいっても布地など規制されてどこへ行っても見当たらず、父の着物を苦心してリフォームするオリジナル制作に没頭し、やはり桜はうっすらと背景のままにありました。
 20代むすめのころは、花より男子。
 記憶の中では、イケメンたちに囲まれた自分が花です。Oh! 
 もちろんそれは幻影で、ほんものの花のイメージが少しずつ定着し始めたころなのに
 しかし30代オカミサンになると、残念なことに花よりもお弁当づくりに気を取られ
 特大のおにぎりが最高のリクエストではあっても、家族の健康と胃袋を満たすためそれなりに奮闘して、
 いつかそれだけでは物足りない焦りから、
 満開の桜は努力と達成感とあこがれと平和の象徴にと育ってゆきました。

 年月を経て40、50代ともなれば、花の風景には現実と夢が象徴と象形が入り混じり
 ただいまは郷愁の中に後悔やら諦観やら「?」に死生観まで加味されてもはや混沌となり、

  ─── いったいどう表現すれば適切なのか言葉を知りません。


   去年の松川 

(行く川のながれは絶えずして、しかも元の水にあらず。 あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ桜の花?にぞ似たりける) 



仏心?

2010年03月13日 | 絵と文
 ときには、こんな時間も持っています。

 蓮如上人のお文の中の「白骨章」を、当地の御住職が富山弁にされた一文を新聞で読みました。
 「御文章」はもちろん蓮如様さえ無知無関心な罰あたりが、動機はどうあれともかく惹きつけられたご当地弁の魅力はすごい。
 面白く、なんていうとヒンシュクを買いそうですが
 最愛の家族を3人も昇天する瞬間まで見届けて、愛別離苦のなんたるかを心身の奥深く刻み込んでいながら、
 いまだにお経と名付けば最初の文言さえ知らない者が、繰返し繰返し読んだのですから、
 御住職様もにんまりとほほ笑んでおられるのではないでしょうか。



      (されば)朝にはキトキトの顔しとって夕べには白骨となって、しもてゆく身ながやぞ。
      わらびしい顔はむなしく変わり、桃の花のようにおきしい姿もうしなわれてしもがやちゃ。
      あわれというだけで、なーんも言い尽くせんやろがいね。

      そのときにオトトやオカカ、アンマやオッジャ、アネマやタータが集まって、はがやしい、
      いとしげにと思っても、なーん、だちかんがやちゃ。

      今、だれが百年の体を保もっとろうか
      (されば)いまだ万年生きたということを聞かんし、一生はおとろしけないほど早く過ぎるがや。
      生き残る人も先立つ人も、草の根元の雫や葉っぱの先の露が、次々に落ちて消えてしもほどはかない命や、
      と言わっしゃった人もあるがや。



 85歳まで生きた蓮如上人は、次々妻子と死別したことで深い無常を感じました。
健康も美しさも命も、得たものは最後に必ず消滅するという耐えがたい事実、私はその事実を否応なく教えられ、当時の悲しさ苦しさは心の奥深く封印されていて、いまだにそこから逃れるすべを知りません。
 神様も仏様も所詮は心の持ちようとは思いますが、ときにこんな形ででも涙を乾かしてもらえるとしたら、さすがにありがたいことではあったようです。



      (されば)人間のはかないことは老少の区別なんかないさかい、誰もみな早く命の一大事を心して、
      阿弥陀仏を深くたのんで念仏申すことが大事ながや。  あなかしこ、ナマンダブツ。 


                                  (「白骨章」の一部口語的超訳は専福寺住職です)

空を飛んだ!

2010年03月05日 | 絵と文

 ゆめのように大空を浮遊したら、そのあと地上に降り立ったときどんな気分になるのでしょう?
 昨夜久しぶりに夢を見ました。
 昔数え切れないほど体感し、長いこと夢とは気付かなかった、あの天然色の不思議な世界です。

 広げた両腕を羽ばたくように揺らして、ゆっくりと数十歩駆けてから、そっと足を蹴ってみる・・・
 本当に飛べるだろうか? とても不安でした
 どんな高いところからでも飛び降りたらすっと着地できる !  あの快感が実は夢だったとは長い時間信じられなかったのだから。
 それ以来今日の日までもう二度と現れてはくれなかったのだから。


 ふわり、と体が浮きました。   やった!


 いつも100メートルくらいの低空です。
 きまって眼下に青田が広がり光る川が流れ、
 でなかったら何故か狭い体育館の天井の鉄骨の間などアメーバのように擦り抜け飛び交い、
 絵を描いているのに対象は美しいものとどこか違っている、
 貧しい心が絵に表われそうな怖さ、
 本当は現実見たままのイメージしか持てないのだろうかとこっそり悲観もしたものですが。

 昨夜。
 眼下にはパステルを流したような淡い色彩が波打っているのを見ました。あれはきっとお花畑です。
 浮遊、それは文字通りまさに夢見る心地なのに、
 意外にもあの爽快感は、遠く記憶のかなたに置き忘れたのか少しも湧きません。
 思いがけず訪れた、かつて心弾ませた夢の記憶で、過ぎ去った年月の長さを推し測らずにいられないとは。


 今モデルのPちゃんが回想に耽る絵の背景に、何をおこうか思案していたところでした。
 モチーフとしてまとまらなくても、ちょっと心ひかれるシーンでは…


 ほんとうに今日は、時間の流れがいつもと少し違うのです!