たとえば君 ガサッと落ち葉すくふやうに 私をさらって行ってはくれぬか
逆立ちしておまへがおれを眺めてた たった一度きりのあの夏のこと
愛唱する歌人河野裕子の、死に至る晩年の家族生活をテレビで見て、歌集のひとつ「森のように獣のように」を初めて読んだときの衝撃を思い出す。
与謝野晶子の再来と言われたその歌人は、私の胸中にま新しいページを開かせて、
これほど簡潔に潔く心を表現できる才能とは、一体どこから生まれ、どのように選ばれ与わるのかと思い巡らさずにはいられなかった。
そしてそのわずか二年後に、はかなくも散り急ぐとはこれはまた何んと不条理な。
テレビで、10年余のがんとの闘いのうちに凄絶な心の葛藤の時期があったことを初めて知って
人間の弱さを見事に昇華させた歌人一家の前に、二度三度うなだれてしまう。
類まれな才能を与えられたからこそ、尋常でない心の揺らぎは常軌を逸し
愛情といたわりの権化みたいな夫も、たった一度耐えきれぬ悲しみ怒りを噴出させたときの様相はすさまじい
余命を知った当人と、周りの人たち
突然訪れる苦痛と悲しみを、極限まで嘗めつくした人もこの世には数多いと思うけれど。
その修羅のごとき一時期を経て、平安を取り戻したあとには
より崇高な人間の営みがあったに違いないと私は思った。
息絶える瞬間まで歌を詠んだ歌人と、永劫の別れをじっと受け入れる家族たちの姿が尊い。
あのときの壊れた私を抱きしめて あなたは泣いた泣くより無くて
あなたらの気持がこんなに分かるのに 言い残すことの何ぞ少なき
自分にもそれに近い苦しい経験があった。
二十年経った今、残せるものは、なんだろう?