いまも読む好きな詩に北原白秋の「墓地」があります。
墓地? と、言っても常時思い浮かぶのじゃなくて
それは連休後半ひょっこり二度目の帰省をした太郎とみんなでお墓参りにいったのがきっかけでした。
水をかけ、お酒とお花を供えて、さて墓前にぬかづいたところで取り出したのがおや?録音した御経!
え、えっ?
それでも無いよりは増し?
正信偈だか領解文だか知りませんが、いつもお経をあげてくれる次郎は不在だったので
心中こっそり感謝やらお願いを念ずるつもりでしたが…
息子が教育の一環として小学生の子供たちと親子三人毎朝朗誦した般若心経
今では末ッ子次郎が成人して時たま端折るようになったのも自然現象に近いのだと思います
もともと厚い信仰心から発したものではないのだし
殊に私などはその善し悪しを判断する資格などちっとも無いのでありました…(+_+)
≪墓地はそよ風しめじめと、また透き明る日のこぼれ≫
ふっと詩の一節が浮かびました。
柔らかな大気の中、風もない静かな日でした。。
時季外れなので、遠くに花を持った一群れの人影を見るのみです。
≪墓地は嗟嘆(なげき)の愛の園、 また、思い出の樫の森≫
≪墓地は現(うつつ)の露の原、 また、幽世(かくりよ)の苔の上≫ そして
≪墓地は香華の色の海≫ ではなかったけど、≪また、現(すがた)なき声の網≫は
確かに張り巡らされているのを感じました。
詩人北原白秋が長い詩的遍歴のあと、美しい日本語の言葉に回帰した晩年の作品です。
録音のお経が終わると、なき人の声を聞いたようにみんな明るい表情で帰路に着いたのでした。
詩抄「海豹と雲」や「水墨集」に見る日本語の語彙の美しさ床しさが心に迫るのは
白秋の没年をはるかに超えて当然なのかもしれません。
≪墓地は息づく靄の胎、 また、たましひの巣のしじま≫
≪墓地はよき庭、わが門べ(かどべ)、わが賓客(まろうど)のよき小路≫
(「海豹と雲」より)