ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

次世代の祭り

2007年02月24日 09時18分33秒 | 祭人
この後、何をしてゆくか

時が行きすぐままにしておくと、大切なものさえも気づかぬうちに風化して
ゆくのだ。たとえば、祭り囃子などは口伝えで伝承されてきた。専門家に聞
くと、囃子がダメになるのは笛の消滅からはじまるという。二本松提灯祭り
の祭囃子にも、昔はあったけれど今は笛が無くなってしまった曲が存在する。
それを、例えば復活させるようなことなどは意識的に行わなければならない。
そういう動きを祭り全体でどのように作り上げてゆくかが非常に大切なこと
と考えている。

時代と共に我が愛する祭りは変化してきた。その時代で受け入れられる形に
自分の形を変えながら。ただ、どんなに時代が変わっても祭りの軸を動かさ
なかったから今日まで伝承されているのだと思う。その軸を動かさないとい
うことは、愚直な郷土愛があったからではないだろうか。文明に駆逐されて
文化は軽んじられやすい。ただ、時代にそぐわないために祭り本体そのもの
が無くなっては元も子もない。次世代に受け継がれるべき形とは何なのかの
多くの議論を尽くしたいと思う。

では、誰が中心となるかである。再三、二本松提灯祭りの実行委員会のあり
方について提言してきた。若連単独では限界があること。そして、二本松神
社様を含めた市全体を挙げての祭礼の維持のための、即決即断ができる組織
母体が必要なのであること。七つの町内を密接に繋ぐ組織が必要なのである。
昨年、若連連合会を中心としてそういう動きがあったが、年が変わった今現
在は、はたしてどうなることか不透明である。今までと同じ、毎年一からや
りなおしの議論に終始しないことを切に望む。

私達が今後続けるべきことは、そういう祭りの中心となる組織を背後から支
えるサポーターであると思う。当然のことのように、フィールドで実際にプ
レーする者(祭りの参加者)は、サポータの居ない試合であり、いつか、試
合そのものの魅力をも失わせることになると自覚しなくてはならない。

昨年、暴風雨の中でも執行された祭りは見る人にも大きな感動を与えたと思う。
しかし、その陰にかくれた反省すべき点も多かったように思う。
祭りは自分の祭りであるが、同時に人々の祭りでもある。

刃物を研ぐ

2007年02月20日 16時55分15秒 | マイ・ブーム
道具の手入れ。

特に刃物を研ぐのが好きだ。
菜切包丁やぺティナイフをピカピカに研ぎ上げる。
刃物を研ぐには良い砥石が必要である。
自然石でなくてもいい砥石が売られている。
亡くなった親父が残してくれた砥石がある。
五、六本あるだろうか。
一生使っても使い切れないと思う。

刃物は時々研ぐことにより微調整で大丈夫だ。
きちんと打ってある刃物は研ぎ甲斐がある。
鋼の部分と軟鉄に近い部分の境目が研ぐことによって
だんだんと現れてくる。
この刃紋が出てくるような刃物が良い刃物だし、それが
現れるように研げたらきっちり研げた証拠でもある。

親父の手作りの切り出しナイフが工具箱に入っている。
私の家は鍛冶屋だった。
良い仕事の刃物を見るとうれしくなる。
ああ、手が込んだ仕事だなぁ・・・と。

職人の血が私にも流れていると、ふと思うことがある。

浜ちゃん!

2007年02月19日 16時39分21秒 | シネマとビデオ
先日、釣バカ日誌の旧作をやっていた。
郡山出身の西田敏行(1947年生まれ)の当り役で、今年夏には
20作目が予定されているという。
西田敏行演ずる浜ちゃんのキャラクターが大好きだ。
例えば、宴会などで必ず披露するハダカ踊り・・・。
やってみたい気持ちはあるが、現在までそれは実現していない。
体形は徐々に彼に近づきつつある (^-^;

映画の浜ちゃんは自分に持っていないものを全部持っている。
そんな浜ちゃんキャラの好きな部分は・・・

 1.くよくよしない
 2.自分に正直
 3.曲がったことが嫌い
 4.雰囲気づくりでバカになれる
 5.奥さんを愛している

現在の奥さん役は浅田美代子だが、旧作の石田エリの方が良かった。
7作目までが石田エリという。
お色気と大人らしさの中に浜ちゃん夫人にふさわしいような泥臭ささ
があったように思える。釣キチのダンナを大きくつつむ女性愛という
ところがいい。
旧作で浜崎みち子(石田エリ)が他の女性から尋ねられるシーンがある。
「何故に浜崎さんと結婚する気になったの」と。
こたえは「プロポーズの言葉か良かったの」「俺はみち子さんを幸せに
する自信は無いけれど、俺が幸せになれる自信はある」と。

釣バカは寅さんに通ずる人情味ば大事に描いている。
渥美清の「男はつらいよ」は48作。どこまで近づけるか?
釣のことはさっぱり分からないけれど、どこまで浜ちゃんは人々の心を
和ませてくれるか楽しみだ。

今年のダイドー日本の祭り

2007年02月16日 16時40分08秒 | 祭人
5年目を迎えるダイドードリンコのスポンサーで行われる
ダイドー・日本の祭りには20の祭りが紹介される。
昨年、二本松提灯祭りが福島県代表だったが、今年は田島の
祇園祭りが取り上げられた。

20の祭りを見ると有名で大きな祭り、青森ねぶた、おわら
風の盆などがあるが二本松提灯祭りと良く似た、戸畑祇園
大山笠という祭りもある。三角形の提灯枠が二本松によく
似ている。

昨年の二本松提灯祭りに行われた「ひとことパフォーマンス」
では、全国18の祭りの中で人気度ナンバー3に入った。
また、スポンサー評価では二本松は第4位だった。
さらに、地元テレビTUFで放映された「若連人生・いのち
華やぐ」は視聴率が9%だったという。
視聴率の割合の評価はどのような基準でされるのか分からない
けれど、担当だったディレクター氏のハナシでは、社長賞もの
だそうである。

昨年の一連のブログやテレビ番組の放映にかかわって、今まで
にない数々の経験をさせてもらった。短足肥満おやじの顔を
一般にさらしたくはなかったのだが「祭りのPRになる」の
一言で乗ってしまった。

ブログやテレビで話せなかった沢山のハナシがある。
それを是非知りたいという人もいるので、まとめることができ
るなら、ほらどっこい5号にも掲載できればと思っている。

自殺する経営者

2007年02月15日 09時36分43秒 | デジャブー
自殺について考えてみる。

私の半生のなかに自殺した知人が数人いる。
よく「死ぬほどつらい」などという人があるけれど、「死ぬことより
辛いこと」などあるはずはない、と思う。
自分を殺すことは、本人にとってどれほどの恐怖であるか、私には
想像することができない。

例えば、家族を残して死に行く場合、そんな無責任なことができるの
だろうか。例えば、商売に失敗して多大な借金を残して会社の社長が
死んだら、残された家族、従業員はどうなるのだろう。
そういうことを考えないから、あるいは、考える余裕すらないから
自分を殺して目前の辛い局面から逃げるのだろうか。

残された家族は想像を超える苦労が待ち構えているハズだ。
どのような気持ちで故人の葬式を出すだろうか。
どのような気持ちで商売の取引先などに対処するのだろうか。
そして、何よりも、家族が自殺した事という事実を背負って残りの
時間を過ごさなければならない。親は、配偶者は、子供は、どうこの
事実を受け止めて生きてゆくのだろう。

日本の場合、世間ていから自殺をする人がいる。
世の中の大きなうねりに負けて商売に失敗する。成功する人も居れば
その陰で失敗する人も多い。それを罪悪視される風潮があるために
自らの死を選ぶのだ。
今の総理大臣が「再チャレンジのできる日本」をうたっているが
馬鹿で無益な論争に時間を使って急がれる対策が打たれていない。

もう大分前になるけれど、親しくしていた友人の経営者が二度目の
自殺を計った。最初は発見が早く助かったが、二度目は確実で防げ
なかった。家族が見限って去ったあとに死を選んだ。
私は、今でもその友人の墓参に行っていない。
いや、行けないでいる。

トリンプ ブラ川柳

2007年02月12日 13時59分02秒 | マイ・ブーム
同じ川柳なら、トリンプの方がいいかも。
インナーウェアにまつわる「ブラ川柳」 うひょー!

Hおじさんのゆきさんの守備範囲は広いぞ!
画面が重たくなるので最近はやっていないけれど、以前は
スクリーンセーバーにトリンプのキャンペーンガールを入
れておいたくらいだ。
最近の女性の下着は本当に綺麗だ。
いや、芸術品とでも言いたいくらい?(自分のことを正当
化しようとしているかも?) (^-^;

このページは中学生くらいも見ているのであまり刺激的な
ことは書けないが、第一生命のサラリーマン川柳が世相全
体を反映しているのに対して、こちらの方は女性から見た
世相をインナー(下着)に託して見事に表現している。

「切ない女ごころも」あれば、「どうだ」とでも言いたげ
なおば様の豪語もある。さらに、見せたいけど見せられな
い程に体形が崩れてしまった涙声まで聞こえてきそうだ。
いずれにしても「天使のブラ」で下着に光をあてた企業の
戦略にさんさんと太陽が輝く。

男からすれば覗いてみたくなる世界。
耳のちいさなタレントが階段盗撮で道を外れたように非合
法なら後ろに手がまわる。
だが、見せたいという気持ちもあるのが下着の世界なのだ
なと伝えている。

 ゆきさんの○優作品  1999年

「ずっとA 優等生の ごときムネ」(桃菊) ウシシ

 今年の最優秀作品

「ぜい肉を 吸収合併 Cかっぷ」(とらこ)

同級会/サラリーマン川柳

2007年02月12日 11時56分09秒 | マイ・ブーム
昨日、同級会があった。

温泉で一泊の開催だそうだったのだが、参加するにも金が無いので
行かなかった。 いや、正直行けなかった・・・恥ずかしい  (/o\)
ギンギンに上り坂の人生ならいいかも知れないけれど、とっくに頂上を越して
お墓へどんどん近づいている現在は、無理をして参加する気にもなれない。

先日、今年も第一生命の「サラリーマン川柳」発表された。
その中に「同窓会 行ってみれば 老人会」というのがあった。
行けば、多分、病気の話し、孫の話し。まだまだそれには参加したくない。

私達の年代は、貧乏くじをひいたのだ。
年金補償や社会補償など、私達の年代に対する処遇は期待できない。
頭の良い官僚たちが自らの保身のためにだけ作った国家で、私達は今重税に
あえいでいる。
この仕組みは、人口の年齢分布無視しし、好景気を基盤として計算された。
非常に都合の良い計画だったのだ。
この計画に無理があったと気づいても、軌道修正には時間がかかりそうだ。
その効果が現れる前に我々は土の下だ。

「昔、貧乏人は麦を喰え」と言った首相が居た。
未だに、高官・政治家の甘言のうらには同じ考えが流れているのだ。

しかし、どのようにして働けなくなる前に稼ぐかだ・・・?
「定年後 メシ・フロ・お茶は 妻の声」
こんなのはまだ甘い。そういう家庭がまだあるだけマシかも。

「ソックスに 足を通して 60億」 <<< あやかりたい。


王の手であるうちに

2007年02月11日 10時12分29秒 | 祭人
今朝のテレビに石原東京都知事とそのまんま東宮崎県知事が揃って
出演していた。そろってテレビに出たことが興味深かった。
ベテラン、新米、どっちが有能?
方や交際費で、方や副知事選出でマスコミに提供する話題が絶えない。

さて、政治家というものは何が重要なのだろうか。
議会政治の場合は、提案者である首長がどれだけ議員を説得できるか
にある。だが、日本の場合、議案を考えているのは官僚であるので
思いつきで首長が左といっても簡単に右には向かないのが現状である。
まして、たいした名誉でもないのに議員様方は、なった地位を勘違いし
て提案されたことの善し悪しを判断するだけになっている。

亡くなった従兄(元町議会議員)が言っていた。
予算なんていうものは潤沢にあるもんじゃない。首長が自由にできる
額なんて限られているのだ、と。
特に既成路線を歩んできた町や県が急に路線変更と言われても、元々
レールの無いところへ電車は乗り入れられないのだ。
方向を変えたと思っていても、どっこい、ずっと残っているのが行政
の常套なのである。

長野県は脱ダム宣言をして臨んだ改革路線だったが、何の新展開も
見せずに終結した。また、元の路線に戻るという。あっちだの、こっち
だの連れ回される民衆にとってはいい迷惑だ。もっとも、それを選択
しているのも民衆だが・・・。

テレビの話しに戻るが、竹村健一が面白いことを言っていた。
「そのまんま東の今の手は、王の手だ」と。
「王が触れるものは、皆、金になる。今のうちに沢山触れろ。」と。

地方の小さな行政体が革新的に変貌をとげることは難しい。
夕張のように、よかれと思ったことが裏目に出ることもある。
しかし、丁半ばくちでもやらない限り、町や県は変わらない。
少なくとも、今までの路線の延長線上に輝くような未来は無い。

紙一重

2007年02月10日 10時09分57秒 | デジャブー
友人に絵描きが何人かいる。

絵描きとは、独創性を追い求めることに命を懸けている。
経済とは無縁の世界だ。いや、対極と言ってもいいかもしれない。
他人がやってきた路線を行くことは亜流である。
どこまで行っても、結局、前人の亜流で留まることになる。

線や色、形、構成など、人の踏んだことのないものを
追求し続けている。だから、常人では考えられない事をする
こともある。狂気とギリギリの境まで行くこともある。

新宿の画廊でのこと、友人の個展に別の絵描きがやって来た。
最初は和気藹々の感じだったが、事が本人の芸術の核心にふれると、
やおら喧嘩になった。殴りかからんばかりの虎と竜といったところ
か。酒席に移っても論争が続き、話は夜明けまで続いた。

絵描きになりたいなどと思ったことがあったが、本物達に出会って
鉾を収めることにした。
彼等のように常識を覆すような信念を持ち続けることができないと
思ったからだ。例えば、鉛筆1本でたたみ10枚もあるような
大画面に延々と真っ黒にするまで線を描き続けられるだろうか。
来る日も来る日も・・・。同じような絵だが、倉庫いっぱいに
なるくらい書き続けている。

ある抽象作家が「これは何を描いたのですか」という問いに「何を
描いたかわからないように描いた」と。半分冗談ともとれるが、
本人は真面目にそう答えた。
「うちの孫でもコノくらいは描く」と言われるような幼稚に見える
絵もある。だが、それを一生かけて描き続けることができるかと
いうことである。

独創とはおそろしい。
孤独だし、家族に見放されることもある。
経済観念をもった瞬間に絵がダメになることもある。
厳しい。

絵描きを育ててこそ、本物の画商なのだが、その数は少ない。
画商などとは簡単に言える職業でもない。
絵を少し抱えても単なるその絵描きのファンに過ぎない。

その絵描きに何をしてあげたかが問題だ。
そういう意味で、私は画商ではなかった。

放送禁止用語

2007年02月09日 09時33分11秒 | 祭人
TUF取材中の松岡

最近、厚生大臣の発言問題で不毛な論争を展開している国会だが
言葉の使い方は本当に難しい。
また、話す人の人柄や置かれた立場、時と場合によっても同じ言葉が
違って受け取られることがあるようだ。
普通の人が子供が二人以上が望ましいと言ってもなんともないが
時の人はそうはゆかないようだ。

昨年のダイドードリンコにTUFのスッタフが再三二本松を訪れて
取材をしていったのだが、その時に放送禁止用語というものを初めて
実感したやりとりがあった。

スタッフ(以後S):お祭りについて子供さんと話されますか?
私:いいえ、あんまししゃべんねね。
S:何故お祭りについて調べてるのですか。
私:お祭り気ぢげなんでだべね、やっぱし。
S:それ放送禁止用語なんで、言い直して戴けますか。

と、まあ、お祭りキチガイはダメで取り直しになった。
しかし、語気を強める意味では、この言葉以外に「祭りに対する
情熱は尋常でない」という表現は見つからない。

私のウェブサイトで「二本松弁以外禁止のBBS」には
二本松弁辞書
を添付しているが、そちらでは
「祭り気違い=祭りシンケ」という。