ゆきさんのブログ

元お祭りオヤジの周辺・・・

祭りは誰のものか

2005年07月18日 15時57分47秒 | 祭人
三島由紀夫の小説に「憂国」というのがあるが、私は「憂祭」という造語で話しをしてみたい。
取材で町に出ると祭りのあり方についての批判や心配の声が多くなってきている。

心配されることは人の問題である。祭りを支えているのは若い人達=若連である。その彼等に危機感はあるだろうか?少子化が語られて久しい。また、社会の老齢化も同じ意味だ。町内に若い人達が居なくなっている。現役若連の数は、名簿上は70人~100人と公表しているが、平日開催の日の町内廻りをする太鼓台には、20人くらいしか若連が居ないところもある。また、当の若連の町内在住者を調査したことがあるが、実に20~30%くらいである。
囃子の担当である小若(子供達)の数も問題が出ている。小若の数が10人台のところもあるのだ。さらに、何よりも「祭りが楽しくない」という人々の出現である。世の中にあまたある「楽しいこと=エンターテイメント(アミューズメントパークなど)」は、子供が休みになるからといって家族旅行へ出かけてしまう家族も多いと聞いている。祭りに参加しない子供たちとその保護者たちが増えているかも知れない。

さて、今の人達に「何ゆえに祭りに参加するのか?」と尋ねたら、多分「面白いか」と答えると思う。「面白くない祭りには参加しない」のである。だから、もっと楽しいこと、面白いことを求めて遊園地などへ祭礼の当日に出かけてしまうのである。

子供たちの数は、将来の若連数のベースになる。そのことに対して、若連諸君や地域の大人たちはどう考えて行くのだろうか。「地域社会の中のでこそ、祭礼はなりたっている」という考え方を忘れて祭りはできない。
酒に飲まれて酩酊し祭礼執行に支障をきたすような若連幹部の醜態は、お祭りをダメにすることに拍車をかけるだろう。誰のための祭りかと問いたい。「個人のお祭りでありながら、その人だけの祭りではない」のだ。祭りを私物化してはならない。大きな勘違いが起きてはいないだろうか?
町紋を背中に背負った祭礼組織の幹部は、その町内の代表を預かって祭りという生涯のハレ舞台を演じる主役でもある。その役目を見事に演じきってこそ「男が上がる」というものだし、そういう姿に地域の人々は拍手を送るのだと思う。苦しいながらも援助をするのだと思う。

もはや、若連組織だけで済む問題ではなくなっている。地域ぐるみで話しをする場所が必要なのだ。
7つの町内を結ぶ祭礼のための組織が必要だ。二本松提灯祭りの祭礼実行委員長は、「二本松提灯祭り」を利用して収益を上げている者に代表して、せめて、祭礼から恩恵に預かっている企業より協賛金をとるべきだと思う。
文化の維持にはお金がかかるのだ。この知的財産を有効に生かし、これらが生み出す経済効果を上手に使いながら、文化財の保護、祭礼の継続を考えて行かなくてはならない。

この、すばらしい祭礼を未来の子供たちへ継承したい。

4つの町と市が一体に・・・その中の観光とは

2005年07月10日 09時23分14秒 | 祭人
観光とは、人々が非日常に出合うために出かけて、異質な文化・生活に触れることにある。
そして、たとえば祭りなど、自分の体験できないものを見聞きすることがあれば、それは愉快な
観光になる・・・はずだ。

さて、二本松市がこの12月に合併が行われて新しい町が誕生する。
二本松、東和、岩代、安達である。
そして、そこにはそれぞれの文化が存在している。
今現在なら、二本松から見れば「二本松の菊人形」だの「二本松提灯祭り」「二本松少年隊」
「黒塚」などが誇れるものとして列挙できるが、合併によって、それらに対する考え方も変えて
行かなくてはならないと思う。

とっくに賞味期限が切れている二本松の菊人形だ。
世の中には、楽しいエンターテイメントを売り物にしているアミューズメントパークが星の数ほど
ある。そういう場所と観光を張り合って、催し物を開催続けるのは大変なことなのだ。
企業は、その盛衰をかかえて必死に努力して誘客に望んでいる。
しかし、データが示すとおり観光客の来場者は減少の一途である。
市民が行かない、興味がわかないモノなど、最初から問題外なのだ。
それなのに、打つ手を変えない愚かさ・・・どんなものなのだろうか。

安達が原は、謡曲に詠われているとおり全国版に通ずる「名称・知的所有権」があるのだ。
これが生かされていない。
2年ほど前、個人が同地で始めて薪能を開催した。
やり方には少々強引なところがあったが、それなりに素晴らしい催しだったと思う。
五重の塔のようなモノがあるが、似非で質を低めているかもしれない。
観世寺の住職さんに伺ったのだが、ふるさと村が出来てから、本物の黒塚の方へお参りする人は
めっきり少なくなったと言う。また、4号線から「黒塚」の案内標識が消えたというのだ。
五重の塔は、本来、仏舎利を安置する建物である。
ランドマークのつもりなのだろうが、意味の無い産物を作ってしまったようだ。

安達町には智恵子の生家がある。切り絵のコレクションもある。
光太郎夫人としての智恵子には、これも同様に全国区の認知度がある。
筆者は、数年前「智恵子きり絵コンペ」を安達町に提案したことがあったが、審査委員に池田
満寿夫氏を呼ぶことで提案したが、予算が無いということで大山忠作先生に取って代わり、しかも
全国へ情報発信の意味をどう勘違いしたのか、近隣の小学生の絵画展にしてしまった。
教育委員会の考え方が勘違いされたのだろう。

私の妹の知人に野口雨情のお孫さんが居る。
北茨木市は町中が雨情の作品を元にした町興しを行っている。いわゆる、生家を中心としたポエム
のメッカにしようという考えらしい。
私が話をしたいのは、その北茨城市の話ではなく「赤い靴」という童謡の話だ。
岩手県か青森県のどこかの小さな町だったか忘れてしまったが、この赤い靴を作詞したのは自分の
町に野口雨情が来たときのものだ・・・とか?で、それだけで町興しに使っているのだ。
たったそれだけのことなのに、町がそれでひとつになっている。

さて、二本松の話にもどる。
この町には素材が多すぎるのだ。どれもこれも全国区のモノが群雄割拠して、今の巨人軍みたいに
なってしまっている。それぞれにスターが居るが、チームとして勝てないのだ。
少年隊にしろ、提灯祭りにしろ、智恵子、安達太良山、木幡幡まつり、菊人形・・・全部、一流に
なれるものばかりなのだ。ちなみに、昨年、東和町・木幡幡祭りは国の重要無形文化財に指定された。
この祭りをどう新市民が捕らえてゆくかである。
しかし、その素材を生かしきっていない。

新生二本松市の観光を考えるとき、全国にどう我が町をPRして行くか考えなくてはならない。
大切なのは魅せ方である。どう、訪れる人々を楽しませ魅了するか・・・それにつきる。
そういう考え方を根底に持ちながら、本当の「観光立市」をやってもらいたい。

必要なのは、普遍なビジョンだのだ。